第5話 蒲田
東京都大田区、蒲田。
週明けの鈍色の空から、糸を引くような細かい雨が街の輪郭をぼかすように降り注いでいる。
多摩川の下流、東京湾を間近に控えたこの一角には、古くからの町工場が吐き出す機械油の残り香と、湿ったアスファルトが放つ特有の土臭さ、そして雨に混じって漂う潮どおしの匂いが重たく停滞していた。
白い万能鋼板の仮囲いで仕切られた建設現場の奥では、巨大な杭打機が咆哮のような重低音を響かせ、泥濘に沈み込む履帯の軋む音が時折高く響く。
雨水を含んだコンクリートの粉塵が白く煙るなか、作業員たちの黄色いヘルメットが波打つように動き、クレーンの吊り荷が空を切るたびに作業連絡のホイッスルが雨音を切り裂いた。
現場の周囲には、路上のパーキングメーターに停まったまま仮眠を装う軽トラックや、ハザードランプを点灯させて待機する地味な国産セダンの車両班、そしてコンビニのビニール袋を提げて軒先で雨宿りをする徒歩視察員が配置されている。
彼らの視線の先には、泥に汚れたオレンジ色の反射ベストを着用し、黙々と鉄筋を運び続けるサイード・カーンの姿があった。
サイード・カーンへの視察は、今朝の起床時から現在まで耐えることなく続けられている。彼の住居である木造アパートには外4と蒲田警察署警備課の混成部隊が張り付き、近傍のマンションの一室を警察庁からの作業費で借り上げた拠点から放たれるレーザー盗聴器の目に見えない光線が、窓ガラスの微細な振動を拾って室内の音声を逐一解析していた。寝返りの音、歯を磨く水の音、そして身支度を整えて現場へ向かうまでのルーティン。
その全てを視察下に置かれながら、彼はいま、白い万能鋼板の仮囲いで仕切られた建設現場の奥にいた。
週末の雑踏で見せた、背後に神経を尖らせる執拗な「点検」の動きは、今はない。
彼はただの一労働者として、雨に打たれながら重い資材を肩に担ぎ、ぬかるみに足を取られそうになりながらも、周囲の日本人作業員と変わらぬ足取りで現場を往復している。
水飛沫を上げるダンプカーの騒音と、雨に煙る蒲田の街並みのなかに、彼の存在は完全に埋没していた。
そのあまりに自然で、徹頭徹尾善良な労働者であるかのような静けさが、視察員達にかえって何とも言えない不気味なイメージを喚起していた。
建設現場から少し離れた路地。
水滴が窓を伝う乗用車の中で、相模結弦と丹波陽茉梨は、互いの肩を寄せ合うようにして座っていた。外から見れば、雨の日のデート中にあてもなく車を停め、睦まじく語らう若いカップルそのものである。
作業班の中でも際立って若手である丹波と相模の大学生くらいにしか見えない童顔の風貌が、警戒心の強いマルタイの目を逸らすのに極めて有効であること、そして丹波を相模の教育係に据えるという方針もあり、最近ではこのカップルへの偽変が二人の定番の役回りとなりつつあった。
「……相変わらず特異動向はありませんね」
相模は丹波の腕に自身の細い腕を絡める恋人のような素振りを見せながら、マイクに拾われない小声で囁いた。
その体温と、彼女が纏う微かな香水の匂いに、相模の心拍がわずかに跳ねる。
だが、その視線は恋人を見つめる熱を演じながらも、バックミラー越しに後方の動きを寸分違わず捉えていた。
そのバックミラーの端、雨に煙る建設現場のゲート付近では、作業の区切りを迎えた男たちの動きがあった。
泥跳ねのひどい重機の前で、現場監督と思われる初老の男が、サイード・カーンに向かって手招きをしている。
「サイさん、悪いがそっちの単管、あっちのラックにまとめといてくれ!」
別チームが設置したガンマイクから、会話の内容が相模と丹波の耳元にも聞こえてきた。
監督の野太い声に対し、サイードは軍手で顔の雨水を拭いながら、白い歯を見せて応じた。
「ハイ、ワカリマシタ!スグヤリマス!」
流暢ではないが、迷いのない、快活な返声だった。彼は他の日本人作業員から「サイさん」と呼ばれ、重い資材を快く肩代わりしながら、現場の潤滑油のような役割すら果たしているように見えた。
「助かるよ。終わったらすぐ飯にしろ、今日は冷えるからな」
「アリガトウゴザイマス。今日ハ温カイウドン、食ベタイデス」
冗談めかして笑うサイードの姿に、周囲の作業員からも笑い声が漏れる。その様子は、異国の地で懸命に働き、コミュニティに完全に受け入れられた善良な一労働者の風景そのものであり、過激派の影など微塵も感じさせなかった。
警視庁は、サイードと共に働く作業員や会社経営陣への基礎調査も急ピッチで進めていた。日本人は公安部公安総務課と蒲田警察署警備課が、外国人は外事第1課と第4課が分担し、多角的な網を張り巡らせる。官公庁が保有する戸籍や納税記録、公共料金支払いの情報から、出入国歴に至るまでが精査の対象となった。さらに警察が管理する前科前歴や運転免許データベース、巡回連絡簿の記録等に加え、警察庁警備局が秘密裏に運用する「個人カード」も参照された。これは、警察の視察対象団体との関係や特異な思想的背景を持つ人物を記録した、警備警察の核心的なデータベースである。必要とあれば、民間企業が保有する情報まで集められた。
しかし、洗い出された身辺に不審な点は見当たらない。せいぜい軽微な交通違反の履歴や、遠縁にかつて左翼政党の党員だった者がいるといった、今回の事案とは結びつきようのない断片的な情報が上がるのみであった。
建設会社自体も、特定技能や育成就労制度による外国人労働者を長年受け入れてきた実績があり、過去に警察や入管が介入するようなトラブルも一切起こしていない。警察からの問い合わせや各種手続きにも大変協力的な、非の打ち所がない優良事業所――、作業班が偽装滞在事件の捜査と偽って話を聞いた蒲田警察署員たちが共通して口にする評判だった。
「視察ってこういうものよ。大抵はマルタイの何の変哲もない日常生活をただひたすら、根気強く見つめ続けるだけ。運が良ければどこかで特異動向を捉えることができる。でも、空振りの方が多い」
丹波の指先が相模の襟元を直すふりをして、隠しマイクの接触を確認する。その指が不意に首筋に触れた瞬間、相模はわずかに息を呑んだが、すぐにプロフェッショナルとしての冷静さを取り戻した。




