戦艦高千穂(旧デアフリンガー)の解説について
山口多聞氏の主催する『架空戦記創作大会2026夏』の参加作品です。
先達の力作をみて感化され、この度架空戦記に初挑戦させていただきます。
「お題➁大海艦隊が自沈せず、活躍する架空戦記」の内容となります。
戦艦高千穂(旧デアフリンガー)の解説について
-戦艦「高千穂」(第三次改装後)-
・要目
基準排水量:32,800t 全長×全幅:222.5m×30.4m
機関:ロ号艦本式缶 重油専焼8基 艦本式オールギヤードタービン4基4軸
出力:136,000馬力 最大速力29ノット 航続距離18kt/9,000浬
武装:
50口径三年式35.6cm砲 2連装4基
40口径八九式12.7cm高角砲 2連装8基
・艦歴
0.序章
大正から昭和にかけて帝国海軍の系譜に特異な足跡を残した巡洋戦艦『高千穂』は、第一次世界大戦の戦利艦として獲得した旧ドイツ帝国海軍のデアフリンガー級大型巡洋艦(巡洋戦艦)「デアフリンガー」を前身とする。
本艦は、日英同盟に基づく戦艦部隊派遣とユトランド海戦の活躍、そして巡洋戦艦金剛の喪失などの結果、戦利艦として日本が獲得した物である。本艦の日本海軍への編入された本艦は、ワシントン海軍軍縮会議を巡る国際外交と激動する国際関係を傍目に、ドイツ製艦艇である事に起因した度重なる改装が行われる事となった。
1. 回航と第一次改装
旧ドイツ帝国海軍大型巡洋艦デアフリンガーは、大正9年(1920年)初頭に日本の回航員の手によりスコットランドを出港、スエズ運河を経由して同年夏、横須賀へと入港。
横須賀到着後、本艦は直ちに呉海軍工廠へ回航され、第一期改装工事に着手した。当時、国際情勢は講和会議を控えて極めて流動的であり、海軍省・艦政本部は「本艦が単なる戦利品のスクラップではなく、実戦能力を備えた我が海軍の現役戦艦である」という既成事実を至急構築する必要に迫られていた。
本艦は文字通り金剛の代艦として使用することを想定されていた。だが主砲の口径統一を旨とする帝国海軍の戦術ドクトリンにおいて同一戦隊内での混成口径運用は混乱を招き、またドイツ規格の巨砲はまず運用が困難であろうと言う事は想起されていたし、そもそも多くが当の日本海軍の猛攻により破壊されたままであったため、旧独軍の50口径30.5cm砲は回航決定の段階から換装が決定された。
ところが調査の結果、デアフリンガーのバーベットでは45口径四一式36cm連装砲を搭載することが不可能であることが判明、しかもバーベットの削り込み拡張工事も予算および工期の制約からやはり不可能と判断されてしまう。
困った艦政本部は、「超伊勢型」の実験用として試作・開発が進められたものの搭載が見送られた「五十口径三年式十四吋(35.6cm)砲」に着目。同砲は長砲身化により初速を稼ぐ設計である一方、砲尾や砲塔の横幅をスリムに抑える設計であったため、砲塔および揚弾機構をドイツ側のバーベット内径に収まるよう砲塔構造を改修。これにより船体構造に手を加えることなく、デアフリンガーの砲塔の換装に成功。これは金剛型の45口径砲を凌駕する長射程を本艦に与えることとなった。
一方で、機関部・艦橋の維持工期短縮および、機関換装のために船体を解体した場合、当時開催されていたワシントン会議でスクラップ扱いされて処分を言い渡される可能性が生じることを恐れたことからドイツ製のシュルツ・サニクロフト式缶および直結タービン(計72,000馬力)はそのまま残された。
艦橋構造も最低限の日本式射撃指揮装置・無線設備の設置にとどめられ、大正12年(1923年)末、巡洋戦艦『高千穂』として連合艦隊に編入された。
なお、運用側は「度量衡が違うので補修が面倒」「幾ら何でも居住性が狭すぎる」「操縦性が違って他の金剛型への追従が困難」「航続力が足らない」などと、運用思想の違いなどから来る様々な問題に悩まされたものの、長砲身35.6cm砲を8門搭載する重防御(水平防御はいったん無視するとして)の巡洋戦艦という、当時の基準では高速戦艦に近い性能は大きな魅力であり、特に金剛の代艦である『高千穂』と組むことになる「比叡」「榛名」「霧島」の前衛として期待される事となった。
2. 第二次改装
大正末期から昭和初期にかけ、ドイツ製機関の老朽化とメートル法基準による交換部品の枯渇が深刻化。t昭和3年(1928年)から昭和5年(1931年)にかけて呉海軍工廠にて本格的な第二次近代化改装が実施された。甲板装甲を切り開き、旧来の独製ボイラー14基をすべて撤去しロ号艦本式缶へと換装された。基数が6基へと減少したことで生まれた広大な旧ボイラー室の余剰スペースは、水中防御隔壁および重油タンクへと転用され、本艦の弱点であった航続距離も大きく延伸された。
艦橋部には、遠距離砲戦での精密な測距を可能にするため、また居住スペース増強の意図も金て何重もの補強柱を組み合わせた堅牢なパゴダ・マストがそびえ立ち、この時点で外観は金剛型とあまり見分けがつかないものとなっている。
防御面においては他の金剛型と同様に甲板装甲が強化されたが、金剛型と違いデアフリンガー時代から垂直防御は強固だったことから防御上の隙が無くなり、やはり防御面については依然強い期待が持たれる事となった…が、タービンは元のドイツ式直結タービンそのまま。「重整備したし何とか動くだろう」と言う淡い期待とは裏腹に深刻な故障が多発、第3次改装までの間は大半の期間がドックで整備を受ける日々であった。
そんな中でのたまの出航においては、居住問題に加えこれまた老朽化していた発電機の故障により、ただでさえ悪い艦内環境がいよいよ日本男子の精神力の限界を超える状況が度々発生し、流石の艦政本部もようやく事態の打開策を考え始めるようになる。
3. 第三次改装
1930年代国際情勢の悪化、及び第二次ロンドン軍縮のエスカレーター条項発動を睨み、他の金剛型と同様、『高千穂』も高速戦艦として生まれ変わるべく大改装を施される事となった。
外観上の特徴としては、同時期に改装を受けた他の金剛型とひと目でわかる点として
副砲が全て撤去され、代わりに重厚な防楯を備えた12.7cm連装高角砲が大量搭載されたことにある。
後世からは「副砲と高角砲を統合し、両用砲運用を図った先進的な設計思想に基づく改装である」と言われる事もある…が、
実際は未だに帝政ドイツ時代のクルップ製15cm単装砲を副砲として装備していたものの消耗品枯渇と整備不良で既にまともに使える状態になく、デッドウェイトにしかならないため総撤去せざるを得なかっただけであり、そのうえ今更14cm単装砲を添え付けて大正年間の戦艦の再現をする訳に行かないし、かと言って船体舷側を大幅に改築し新たに副砲塔ターレットを設けるだけのメリットも見いだせなかったため、
「面倒臭いから12.7cm高角砲架を多めにポン付けして誤魔化そう」
という、妥協に満ち溢れた判断に基づく物だった。このため、副砲を搭載せず高角砲を大量搭載したスタイルは他の改装艦艇や新造戦艦にも継承されず、高千穂のみの特徴となっている。
そして第三次改装の本命は船体内部の総改修であった。
この時ついに機関部の総刷新が行われることになり、深刻な老朽化と稼働不良を起こしていた忌まわしきドイツ式直結タービンと、まだ数年しか使っていない(と言うか殆どドック入りの日々なので大して窯を焚いてすらいなかった)ボイラーも惜しまれつつもすべて引っこ抜き、同時期に改装が想定されていた他の金剛型と同様に、艦本式タービンと新型ボイラーを搭載し、13万6千馬力を発揮可能になり、また長年悩まされた機関トラブルからようやく解放される事となった。
また、デアフリンガー時代からドイツ戦艦の生残性の高さの要因の一つと見られていた、船体深くに分散配置されていた発電機についても老朽化に伴い配置はそのままに全面刷新されており、
また試験艦としての性質も強かった事から三相交流450V発電機を採用し、当時の日本戦艦としては異例の3,000kw近い発電力を有する艦となった。
これにより高い通信能力や強力な注排水能力を得る事となった一方、深刻極まる居住性の悪さを機械力の大幅強化で乗り切ろうという試みでもあり、強力な空調機器や炊事設備など居住性の全面的な改善が行われた。
これにより艦内環境は「この世の地獄」から、「狭さ以外は客船並み」と格段に向上することとなった。
4.遣欧艦隊派兵
1940年冬に日本は再びイギリスの泣き落としに近い要請により第二次日英同盟の締結及び対枢軸宣戦布告に基づき、四半世紀ぶりに遣欧艦隊を派遣することとなる。
そしてその旗艦は、かつてユトラント海戦における日英海軍の共闘と因縁が深く、ドイツへの強烈な政治的メッセージもかねて、かつてドイツで生まれた旧デアフリンガーこと高千穂が選ばれることになる。
(ただ実際は、何度も手間暇かけて改装してばかりでろくな活躍をしていない高千穂を何かしら活躍させないと不味いという海軍の内部事情に基づいたものと言われている)
高千穂は同じく近代化改装を受けていた榛名と戦列を組み、そして空母赤城、加賀からなる第一航空艦隊と共に遣欧艦隊の主力を形成、イギリスの手厚い後方支援を受けながら長い航海を経てスカパフローに入港した。
この時長期航海後の整備を行うと同時にイギリス海軍から同盟の誼としてRDF技術の提供を申し出を受ける事となり、発電能力に余裕がある高千穂に、試験的に水上・対空捜索レーダーが追加装備される事となった。
5.用心棒艦隊
遠く英本土まで駆け付けた日遣欧艦隊であったが、いかな英国の支援体制があるとはいえ運用上の補給整備に難があるのは当然であった。しかも元々日本海軍自体があまり長期的な活動を視野に入れていなかった海軍だったこともあり、イギリス艦隊のような長期的な作戦行動はあまり望めなかった。
そのうえ当の日本海軍将校が短期決戦の大物喰らいを好む性質が強かったこともあり、イギリス海軍も彼らを割り切ってここぞという時に切るワイルドカードとしての運用を企図することとなる。
(なお、日遣欧艦隊の将校らは「時代劇の用心棒みたいだ」と捉えたとされる)
しかしスカパ・フローでの整備が終わり出撃が可能になった1941年春頃にはドイツ海軍大型艦(シャルンホルスト級)の通商破壊活動が鎮静化し、彼らはこれを何より悔しがっていた。
この状況で始まったのがデンマーク海峡海戦であり、1941年5月18日にライン演習作戦の発動に伴い新鋭戦艦ビスマルクと、重巡プリンツ・オイゲンがゴーテンハーフェンを出港。
この情報に際し、英本国艦隊司令部は喧しい位に出撃を訴える日遣欧艦隊についに出撃要請を出し、
巡洋戦艦フッド、プリンスオブウェールズ、駆逐艦4隻からなるホランド中将部隊に同行し、日遣欧艦隊のうち緊急出撃が可能であった戦艦高千穂、空母赤城、駆逐艦4隻が勇躍出撃することとなる。
すわ第一次世界大戦以来の艦隊決戦か、と思われたこの海戦であるが、結果として時代の移り変わりを如実に表す経緯をたどることとなる。
24日02:47、デンマーク海峡において一時はドイツ艦隊を見失っていた英重巡サフォークが戦艦ビスマルクを発見。この情報を受け取った日遣欧艦隊分隊司令部はホランド中将に先制攻撃許可を非常に強い勢いで要請。
中将の許可を受けるや否や空母赤城航空隊は、東の空が白み始める黎明の中で飛行甲板に整列を開始。そして03:45の夜明けと同時に一斉に戦艦ビスマルクを目掛けて九六式艦戦、九九式艦爆、九七式艦攻の各飛行大隊からなる50機弱の攻撃隊が放たれた。
当時の空母赤城航空隊の練度は世界一と言える水準であり、江草隆繁少佐率いる艦爆隊が太陽を背にしてビスマルクへ急降下。対空レーダーを持たず遠洋での空襲を想定していなかったビスマルクは完全に不意を突かれ250kg爆弾4発がビスマルクに直撃。
そこに紛れ村田重治少佐率いる艦攻隊が海面すれすれから突入。ビスマルクの左右両舷から教本通りの挟撃雷撃が見舞われ、ビスマルクは回避すらままならず5発を被雷することとなる。
…そして1時間後、急ぎ駆け付けたホランド中将部隊と戦艦高千穂が見たものは、
爆撃で部構造物を激しく損傷し、何より多数の被雷により電源が途絶しシャフト及び舵損傷、そして防御想定をはるかに超える浸水により大傾斜し、もはや対艦砲戦どころでは無いビスマルクの惨状だった。
追撃の必要性すら疑問な状況であったが、戦艦高千穂としてはここまで来て何もしない訳にはいかないと勇み砲撃を開始、これに英戦艦群も加わり、戦艦ビスマルクは既に浸水も深刻になっていた事からこれといって耐久力を示す事も無く袋叩きにされて撃沈される事となった。
このあまりに一方的な撃沈劇に日本海軍は再び名声を高める事となり、
自らも戦艦愛好者であった上に高千穂(旧デアフリンガー)とも因縁のあったチャーチル首相により
「かつてドイツで作られ、日本で生まれ変わった戦艦タカチホにより
ドイツの最新鋭戦艦ビスマルクは見事討ち取られた!」と高らかに激賞されることとなる。
なお後世ではこの時のビスマルクと高千穂の砲戦の様子は
「深手を負うも依然戦闘状態を維持していたドイツ最新鋭戦艦ビスマルクの戦意に敬意を表し、戦艦高千穂の艦長らがドイツ戦艦の係累の責務として介錯の砲撃を行い、沈みゆくビスマルクに敬礼を送った」
とドラマチックに語られる事になる。
…が、実際の当時の記録からは「はるばる欧州まで来て戦果無しでは洒落にならない」とかなり切羽詰まった状況で急行し瀕死のビスマルクへの砲撃を開始した状況だった事が語られており、
帰港後に初の航空機単独による航行中の戦艦撃沈の名誉を逃した空母赤城乗員と、添え物斬りで撃沈の栄誉を得る形になった戦艦高千穂乗員による諍いが度々発生したとされている。
対照的にドイツ側では蜂の巣を突いたような大騒ぎとなっていた。
日本から艦隊が派遣されていたこと自体は知ってものの、「たかが帝政ドイツ時代の旧式戦艦を中心とした艦隊など遅るるに足らず」とその実力については完全に侮っていた。
だが最新鋭戦艦ビスマルクが一方的に撃沈されると言う最悪の結果となり、空母部隊の手にかかれば遠洋で独行中の戦艦すら容易く撃沈されることをこれ以上ない形で思い知らされることとなった。
実際問題としてここまで攻撃力に特化していたのは日本の空母航空隊くらいであり、英空母航空隊にここまでの攻撃力が出せるかと言えば否だったのであるが、特にヒトラー総統の衝撃は相当な物であり、ブレストに駐留していたシャルンホルスト級が2隻残存するドイツ水上艦隊には直ちに帰還命令が出された。
そして英本国艦隊や日遣欧艦隊の体制が整わないうちにチャネルダッシュ作戦を敢行し辛くもキール軍港に逃げ帰ることに成功している。
6.イタリアン・ナイトメア
1942年はイタリアの悪夢と言われる年となった。
日本は現遣欧艦隊を第一遣欧艦隊と改組した上で追加派兵を決定、
中核として戦艦比叡、霧島及び新鋭空母の翔鶴、瑞鶴を基幹とした第二遣欧艦隊を新たに送り込んだ。
また1942年夏にアメリカが連合国側に立って参戦を決定、大規模な艦隊が大西洋に展開する中で
日遣欧艦隊の派手な活躍に触発された結果、アメリカでも高速戦艦と空母を組み込んだ機動打撃部隊が先鋒として派遣される事となる。
そしてこの強力な援軍を有効活用したいイギリスと、兎に角戦果を挙げたい日本海軍、そして欧州参戦にあまり熱意を感じていない納税者にアピールする必要に駆られていたアメリカ海軍の意図が合致。
1942年夏には三大海軍の機動打撃部隊が共同し、ジブラルタル方面からは英H部隊と米艦隊、スエズ方面からは英地中海艦隊と日第二遣欧艦隊が分進合撃を行いイタリア海軍を掃討する「トライデント作戦」が決行された。
合わせて精鋭正規空母7隻を有する日英米連合機動部隊の猛襲に対し、イタリア海軍は持てる戦力の中で敢闘したものの、空母戦力を有しないイタリア海軍は一方的に撃滅される他なかった。
以降枢軸国は、1942年中に地中海の制海権をほぼ喪失することとなった。
なお、高千穂を基幹とする第一遣欧艦隊はバルト海に立て籠もったドイツ艦隊の監視と北海の制圧に従事しており、地中海の友軍の活躍を歯噛みして悔しがっていたとされる。
そして「何でもいいからドイツ水上艦を沈めてやる」と、血眼になり哨戒に励んだ結果、ドイツ海軍の潜水母艦や水上機母艦、支援艦を多く撃沈することとなり、消化不足感ありありの日遣欧艦隊とは裏腹に北海におけるドイツ海軍の活動は早々に壊滅的状態に追い込まれることになった。
7.高千穂の最期
連合国海軍の猛威に晒されたイタリアは一方的に追い詰められ、1942年末にはシチリア島、年明け1943年初頭にはサレルノやアンツィオへの連合軍上陸が始まり、1943年春にはムッソリーニ政権が崩壊することとなった。この事によりドイツの第100爆撃航空団が大西洋方面に転戦した事が、高千穂の命運を決める事となる。
そして第100爆撃航空団には「ドイツ生まれでありながらビスマルクを沈めた裏切り者のデアフリンガー(高千穂)をなんとしても撃沈せよ!」と総統命令が下ることとなった。
1943年9月、ノルマンディー沿岸の砲撃作戦に当たっていた高千穂を基幹とする艦隊は、独第100爆撃航空団の爆撃を許し、ドイツの新兵器フリッツXを2発被弾。
一発は後部の水上機格納庫を吹き飛ばしたまでで済んだものの、もう一発は水平装甲を貫通し機関部が半壊する大損害を受ける事ととなった。
ドイツ生まれの生残性を重視した船体と日本の度重なる改装を受けた高千穂は傾斜し航行不能となったものの辛うじて耐え、僚艦に曳航されスカパ・フローに向かう事となった。
しかしスカパ・フローに到達直後、かなり老朽化していた上にダメージが蓄積していた高千穂の船体はついに限界を迎えたのか、隔壁が破断し大量の浸水とともに急速に傾斜が止まらなくなる。
退艦した乗員が見守る中、ついに高千穂はスカパフローに転覆し、その数奇な艦命を終える事となった。
戦後、転覆したままだった高千穂の船体は引き揚げられ、スコットランドのファスレーンにて海没処分されている。
今ではその雄姿を見る事は無いが、引き揚げられた際にデアフリンガー時代のままだった儀礼用の時鐘が取り外され日本に持ち帰られた。その後西ドイツに友好の証として寄贈され、時鐘はフレンスブルクのの軍事史教育センターに展示されることとなった。
また、スカパフローのホイ島にあるスカパ・フロー・ミュージアムでは
「東洋の偉大な勇者、金剛と高千穂」のコーナーが設けられており、
写真や文献、遺物を通じてイギリスのために戦った二隻の戦艦の記録を今なお物語っている。
日本で一番ドック入り期間が長い戦艦になるのはほぼ確定。
デアフリンガー(高千穂)保有成立によって起こる国際政治環境の変化が今回のプロットの本命なので、
戦術的にはあんまし活躍はしてない…




