22.母とは
塔の中の牢の鍵が開けられ、中に入れと背中を押される。
先程、見たアネーロはアイリスが入ってきたことに気付いているのか、いないのか、布団の中に潜り込んだままだった。
「失礼します。」
返事はない。アイリスはどうしようかと辺りを見渡す。
小さなテーブル、一つしかない椅子、小さなベッド、テーブルの上には紙の束とペン、数冊の本もあるが表紙を見る限りは聖書のみのようだ。
先程見た、やつれた女性を母と呼ぶべきだろうか。
会ったこともない自分とそっくりの女性を母だと言われても実感が湧かない。
「・・・あの、もしもし。アネーロ様?」
アイリスは悩んだ末に母と呼ぶことはやめ、名前で呼ぶことにした。
名前を呼ぶも布団は動かない。
仕方なくテーブルの上にある聖書や紙の束を見ることにした。
使い古された聖書を開く。ガヨ国のウィステリア国も信仰する宗教は同じだ。アイリスも見たことのある文言が綴られている。所々にペンで線が引かれていた。
『願い』『罪』『赦し』『死』に関連する言葉にぐるぐると円が書かれていたり、文章に線が引かれていたりと様々だ。
分厚い聖書にいくつものマークを見つけた。これはアネーロ様が書いたものだろうか。
複数ある聖書は全て手垢が付き表装も剥がれてボロボロだった。
こんなになるまで読み込んだのだろうか。
マークが付けられている以外はおかしい所もないため、紙の束にも手を伸ばした。
他人の物を勝手に見るのは気が引けるが、今の状態のアネーロとはまともな話ができそうもない。
アイリスは心の中で謝罪し、紙の束をペラペラとめくった。
そこにはユーリ殿下に見せられたものと同じような魔法陣が複数に渡って描かれていた。
見る限りは本といえば聖書しかなく、この魔法陣は自分の記憶を頼りに描いたのだろう、失敗してはぐちゃぐちゃと線で消されたものばかりだった。
それもやがては諦めたのか、後半はアネーロの言葉が走り書きのように乱れた文字で書かれていた。
『魔女になりたい』
『寂しい』
『どうして来てくれないの』
『会いたい』
『私は一人』
『神は救ってくれない』
アネーロの想いがたくさん書かれていた。その中でも一番多く見られた言葉は『帰りたい』だった。
アイリスはアネーロの気持ちを知ることはできない。彼女がどのような扱いを受けたのか、何に絶望したのか、心を病んでまで悪魔を召喚し、魔女になることで何を成そうとしていたのか。
だが、ただ一人隣国へと嫁いだアネーロが幸せではなかったことだけはわかる。
文字は所々滲んでいた。アイリスは滲んだ文字をなぞる。そこに彼女の涙が見えるようだった。
「心を騒がせてはならない。」
突然の背後からの声に驚いて持っていた紙の束を落としてしまった。バラバラと紙が床に散らばる。
驚きに声も出せず振り向くと、アネーロがすぐ背後に立ってボサボサの髪の毛の隙間からアイリスを見下ろしていた。
「今、なんと?」
驚きすぎて言葉が頭に入ってこなかった。
「心を騒がせてはならない。そうすれば悲しみや苦しみから解放され、私は会うことができる。」
「それは神のことですか?」
聖書の一文だろうか。
「神は私を助けない。私は人を殺してしまったから助けてくれない。」
それはユーリ殿下の子供のことだろうか。
アネーロは自分の両手の平を見つめている。
「では、あなたは何に願っているのですか?」
この紙に書かれていた願いは誰に願ったものなのだろうか。
「悪魔だ。私の願いを叶えてくれたのは父でも母でも夫でもない、ましてや神でもない。悪魔だけが私の声に答えてくれた。」
アネーロは床に落ちた紙を一枚拾い上げた。そこにも魔法陣が描かれていた。他の紙に描かれているものは失敗したのか上からぐしゃくしゃと線で潰されていたが、彼女の持っているものは綺麗なままだった。
「私を救ってくれるのは悪魔だけ。」
愛おしそうに魔法陣に頬ずりをする彼女の艶のない髪の毛が揺らぎ、美しく艶めき始めた。やつれた顔に肉付きが戻りふっくらと艶のある頬をピンク色に染めている。ひび割れた指に潤いが戻り、手足も肉付きがついてふっくらとしていく。
先程まで老女のような姿だったのに、今はまるで恋をする乙女のようだ。
「魔女になりたい。」
「悪魔を呼ばなければ。」
「どうする?ふふふ。目の前にいるじゃない。」
「今度こそ。」
「長かったわ。たくさん待った。」
誰かと秘密事を話しているようにアネーロはヒソヒソと喋っている。
「やっと見つけた。」
アネーロの美しいシトリンの目がアイリスを捕らえる。
「お前は私の為に生贄になってくれる?」
逃げなければ。でもどこに?
アネーロが優しく、妖しく微笑んでいる。
動かなければ。でも動けない。
アネーロがゆっくりとアイリスに向かって手を伸ばす。
伸ばした手に何かを握っているのが見える。
鈍く光るそれは先の欠けたスプーンだった。
ガタガタとした先端が動けずに固まるアイリスの首に触れる。
ヒヤリとしたと思ったら、勢いよく首を掻かれた。
熱く鈍い痛みが首に広がり、思わず呻く。
痛みから傷に手を伸ばそうとするとアイリスの両手首を信じられないような力で掴み押さえつけられた。
アイリスは目を逸らすことも叶わず、アネーロはまるで優しく添えている程度と思えるほどの柔らかい表情で手首をアイリスの両脇に固定した。
アイリスの首から、たらりと血が伝い落ちるのを感じる。
アネーロはその血に自身の顔を近付け、舐めとった。
驚愕するアイリスをよそに、アネーロはチロリと血に染まった舌を覗かせ手首から手を離して数歩下がった。
その手には魔法陣の描かれた紙を握っている。
アネーロはゆっくりと魔法陣に顔を近付け、血に染まる唇で口付ける。
まるで愛しい恋人に口付けをするかのように。
アイリスは声も出せず、ただ見ているしかなかった。
魔法陣にアイリスの血が染み込んで真っ赤に染まっていく。
アネーロの背後が風もないのにユラユラと揺れるのを確かに見た。




