第35話:子爵邸の病床と、立ち塞がる暗雲
白亜の石造りの建物が整然と並ぶ貴族区。その一角に佇むカルゼル子爵邸は、天を突くような尖塔と壮麗な庭園を擁する広大な屋敷だった。
重厚な鉄門を潜り、豪華な調度品で飾られた廊下を進む一葉、二葉、三葉の三人。
だが、どれほど豪奢な館であっても、そこに漂う空気は重く冷ややかだった。
廊下の至るところから、不気味な紫黒色の魔力の澱みがうっすらと立ち上っている。
「……ここが、子爵邸か」
二葉が木剣を背中に背負い直し、警戒するように周囲を見回す。
「気をつけて、二葉、三葉。大気中に混ざっている魔力の質が、商業区で見たものよりずっと濃密だわ」
一葉が低く囁くと、三葉が小さく頷いた。
「腐敗魔力が屋敷全体に充満してる。……まるで、特定の部屋から魔力の毒素が溢れ出しているみたいだ」
案内役の給仕に連れられ、三人が辿り着いたのは屋敷の最上階にある重厚な観音扉の前だった。
給仕が扉を静かに開けると、途端に生暖かい不快な風が室内から吹き抜けてきた。それと同時に、刺すような魔力の腐敗臭が三人の鼻腔を突く。
「くっ……!?」
二葉が思わず顔をしかめ、三葉が素早く手帳をかざして不純物の分解波動を小さく放ち、周囲の空気を和らげた。
部屋の中央に据えられた豪華な天蓋付きのベッド。そこに横たわっていたのは、青白い顔で苦しそうに荒い息を吐く一人の少女だった。
少女の肌には、まるで木の根が這うような黒い斑紋が浮かび上がり、胸元からは紫黒色の魔力が絶え間なく噴き出している。
「あの子が……患者様……?」
一葉が息を呑む。少女はまだ十歳にも満たない幼さだった。
「ふん、来よったか」
ベッドの脇に立っていたジュリアン子爵が、冷酷な眼差しで三人を見返した。
その隣には、豪奢な純白の法衣を纏い、黄金の聖印を胸に掲げた中年男性が立っている。
男性の手からは、眩いばかりの聖なる治癒光が放たれていたが、その光が少女に触れた瞬間、黒い斑紋が激しくのたうち回り、少女は「あぁぁっ……!」と激痛に顔をゆがめた。
「くそっ、なぜだ! 我が王都大聖堂が誇る至高の極大治癒魔法が、なぜ効かぬ!?」
法衣の男性——王都大聖堂の筆頭治癒術士であるエドワルドが、汗だくになりながら苛立ちを露わにする。
「待ってください、治癒術士様」
静かな三葉の声が室内に響いた。
エドワルドが眉をひそめて振り返る。
「なんだ貴様らは! 立ち入りを許された覚えはないぞ!」
「エドワルド殿、控えよ。こ奴らは田舎のギルドから連れてきた『生活魔法』を使うFランク上がりの雑用係だ」
ジュリアン子爵が嘲笑を交えて告げる。
「生活魔法だと……!? バカバカしい! この私、Aランク相当の極大回復魔法を操るエドワルドが手を焼いているのだぞ! たかが生活魔法で何ができるというのだ!」
エドワルドが一葉たちを激しい蔑視の目で見つめつける。
しかし、一葉は気圧されることなく、まっすぐに少女のベッドへと歩み寄った。
「失礼いたします」
一葉は少女の脇に腰を下ろし、そっとその小さな手に触れた。
胸元の緑のペンダントが強く脈動し、一葉の感覚を研ぎ澄ませていく。
少女の体内では、通常の綺麗な魔力回路が、不純な毒素によって激しく破壊され、暴走を引き起こしていた。
(お父さんの言った通りだわ……。治癒魔法の綺麗な魔力を注げば注ぐほど、この毒素はそれを『餌』にして勢いを増してしまう……!)
「三葉、状態はどう?」
一葉の問いに、三葉が瞳を鋭く光らせた。
「解析完了。少女の胸部を中心に、体内魔力の約六割が腐敗毒素と強く結合している。でも…完全な不可逆変化ではないみたい。毒素と正常な魔力回路の接合部を見極めれば、分離は可能です」
「よく言ったわ、三葉!」
一葉が立ち上がり、二葉と三葉に向き直った。
「二葉、まずは少女の体内で暴走している魔力の脈動を抑えて! 三葉、分離作業を開始して!」
「任せて、ひと姉! 【二生の根張】!」
二葉が木剣の先を床に静かに触れさせた。
ドスン、という音とともに、木剣から優しく温かな緑の魔力根が広がり、ベッドを包み込むように這い登っていく。
二葉の魔力根は少女の体にそっと触れると、暴走していた魔力の激しい脈動を、まるで子守唄のように優しく包み込み、その狂暴性を和らげていった。
「な……!? 暴走する魔力の脈動が鎮まっていくだと……!?」
エドワルドが目を見張る。
「次は僕です! 【三途の葉落】——極小精密分解!」
三葉が、指先から髪の毛よりも細い微細な分解波動を放った。
一二三との特訓で磨き上げた精密操作。
三葉の波動は少女の肉体を傷つけることなく体内へと侵入し、腐敗毒素と魔力回路の微小な接合部だけを、外科手術のように寸分の狂いもなく切り離していく。
「ガ……グアッ……!」
少女の口から苦しげな吐息が漏れるが、胸元の黒い斑紋がみるみるうちに薄くなり、噴き出していた紫黒色の魔力が散散に分解されて消えていく。
「バ、バカな……! 治癒魔法でも不可能な魔力毒の分離を、あのガキどもが一瞬で……!?」
エドワルドが驚愕のあまり絶句する。
「そして……変えさせない、この生命の輝きを! 【一輪の秒芽】!」
一葉が空中を通じて蔓を巻くように優雅に指を動かした。
胸元のペンダントが眩いばかりの清廉な緑の光を解き放つ。
三葉が切り離した「毒素の分離状態」と、二葉が作り出した「安定した魔力回路の状態」を一葉の魔法が逃さず捉え、少女の体内へ強力に固定・定着させた。
少女の肌から完全に黒い斑紋が消え去り、呼吸がすーっ、すーっと穏やかな寝息へと変わっていく。
「ふぅ……うまくいったわ」
一葉が汗を拭い、柔らかく微笑んだ。
「やったね、ひと姉! 三葉!」
二葉が嬉しそうに跳ね起き、三葉も安堵の息を吐いた。
室内を覆っていた重苦しい腐敗臭は完全に消え去り、澄み渡った清々しい空気が満ちている。
「あ、あり得ん……! このようなデタラメな芸当が、本当に病を治したというのか……!?」
エドワルドが腰を抜かすようにへたり込み、ジュリアン子爵もまた、信じられないものを見る目で三姉弟を注視していた。
しかし、子爵の驚愕はすぐに、不気味で残忍な笑みへと変わった。
「……くっ、くくく。素晴らしい。噂以上の成果だ」
ジュリアン子爵がゆっくりと手を叩く。
「子爵様……お約束通り、約束を果たしていただきます。王都で苦しむすべての人々へ、私たちの治療を——」
一葉が毅然と言いかけたその時だった。
カチャリ、と重厚な金属音が室内に響いた。
部屋の周囲を固めていた銀色の鎧の騎士たちが一斉に剣を抜き、その刃を一葉、二葉、三葉の首元へと突き突きつけたのだ。
「……!? なんですか、これは!」
二葉が木剣を構えようとするが、騎士たちの鋭い剣先が喉元に迫る。
「子爵様、これはどういう意味ですか!?」
一葉が強く睨みつけると、ジュリアン子爵は冷酷な笑みを深め、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「意味? 簡単なことだ。貴様らのその都合の良い『生活魔法』……王都の病人に使わせるわけがなかろう」
「な……なんだって……!?」
三葉が息を呑む。
「この『魔力腐敗症』はな……我がカルゼル家が王都の権力を握るために、人工的に生み出し、流行らせた『極秘の毒素』なのだよ」
子爵の口から飛び出した衝撃の事実に、三人は激しい衝撃を受けた。
「治癒魔法が効かぬ毒で街を混乱させ、我が家系だけが特効薬を独占して王都を支配する……それが真の計画だったのだ。それを貴様らのような田舎のガキどもに治されては困るのだよ」
子爵が蔑むように三人を指さした。
「貴様らは患者を治したのではない。我がカルゼル家の極秘研究を盗み見、毒を散布した『テロリスト』として、地下牢で死んでもらう!」
「そんな……ッ! 身勝手すぎるよ!」
二葉が怒りに叫ぶが、騎士たちが容赦なく間合いを詰めてくる。
王都の権力者が仕掛けた陰謀の渦中へと完全に巻き込まれた三姉弟。
しかし、一葉の胸元で輝く緑のペンダントは、絶望の淵にあってもなお、強く、静かに、反撃の光を放ち続けていた。
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