8.古王国の姫君
そういえば、エヴァンシーク様。
辺境王国から帝国への帰還中、エヴァンシーク様の馬に乗せてもらっている時のことだった。
ふと口をついて出たのは、もう気にしても仕方のないことで、思わずエリザベートの方を見てしまう。
「ルチエラ、様は」
「あいつがどうかしたか」
背後からのなんでもないことのような声に、わたしは思わず振り返った。瞬くエヴァンシーク様に、わたしはどう言っていいかわからず視線をさまよわせる。
「エヴァンを慕ってたルチエラ王女に、どうして良いかわかんないんですね。姫君は」
横からぽつりと言われ、小さくうなずく。わたしのその動作を逃さなかったエヴァンシーク様は、すぐ隣で馬を歩かせているエリザベートを振り返った。
「……いや、だってあいつは」
「姫君にはわかりませんよー。あなた方の事情なんてー。説明してあげてよねーちゃんとさーあー」
お前、姫と俺とで態度違いすぎないか、と呆れつつ、エヴァンシーク様はわたしの頭を撫でた。
「ルチエラは、フィルポリア王国の王女だ」
「……はい」
「フィルポリアは古王国で、神聖王国に次いで古い、歴史ある国だ」
「はい」
「その国の、王位第一継承者が、ルチエラだ」
……。
「王女ですよね」
「そうだな」
「ひとり娘、ってことですか」
「そうだ」
不思議な気がした。古王国を継ぐべくと教育されているルチエラが、ヴェニエール皇帝であるエヴァンシークに恋をする?
叶わぬ恋ではないだろうか。
恋というのは、そんなにも。
「ウィリアローナ姫」
もどってこい、と小突かれる。痛くはなかったが衝撃に過剰に驚いて身をすくませてしまった。
「ルチエラは、愛されているんだ。あの王国に。臣に。民に」
でも、ちょうど年頃で、次期女王だろう。
そこまで聞いて、どことなく輪郭が見えてきた。婚姻が、殺到しているのだ。ハプリシア様もそうだったからよくわかる。適齢期に達したとたん、ひとつふたつと恋文が届き始め、一番多い時は部屋の侍女を総動員しても開封が追いつかないことがあった。
その手紙のどれもが、月の妖精と謳われる、見たこともないハプリシア様の美貌を讃えるもので。
『私自身がどんな性格であっても、かまわないと言うのかしらね』
甘い声で、笑顔で、嘆いていると思ったのに、吐き捨てているかのようにも思えた、あの言葉。
ルチエラにも、同じことが起きているというのか。
「向こうから持ちかけられたんだ。本当に嫁にやるわけにはいかないけれど、なかなか婚約者を決めぬルチエラに焦れた輩が強攻策に出ぬよう、抑止力になってくれないか、と。フィルポリア国王に」
「抑止力?」
「ヴェニエール帝国の影をちらつかせれば、それだけで意志の弱い連中は蹴散らせるだろう、と」
けちらせ……。ぽかんとわたしが繰り返せば、いやそんな言葉覚えなくていい、と乱暴に頭を撫でられる。痛い。痛くないけど、強いですそれ。せっかくエリザベートが結ってくれた髪が台無しなんですけど。
「それで、でも、ヴェニエールの皇帝と結婚すれば、民が喜ぶんじゃないかってルチエラ王女が迫ってきたんですよねー」
「せまっ」
「語弊のある言い方をするな! 妃になると突然言い出しただけだ!」
それもそれですごいことなんですけど? エヴァンシーク様。女性側からそんなことを名乗り出るだなんてそんな。そんな……。
ぐるぐるとし始めるわたしに、姫? とエヴァンシーク様が呼びかける声が遠い。ルチエラの積極性はわたしにはないものだ。必要なのだろうか。必要なんでしょうか? うわあんとわたしがなるのを眺めながら、エリザベートはなおも続ける。
「というか、もしかしてヴェニエール帝国へ姫様が嫁がれる? かもしれない? 寂しいけれど良いことだ! という空気が出来上がっちゃったのも、あの国民大好きなお姫様の困りどころだったのかもね」
ひやりと冷たい水がかぶさった気がした。周囲からの過度な期待。勝手な評価。それはとても、寒い場所。気がついたら高い場所に取り残されている、寂しい場所。
無責任でもひたすら姫様の幸せを祈った国民と、そんな国民を心から愛しているお姫様なのにね。部外者である私たちでさえ、見てすぐわかるほどなのに。
「うまくいかないものだね」
エリザベートのその言葉は、どこか寂しそうだった。思い合い、すれ違っているという、国民と姫様のお話は、たしかに、切なくなるもので。
「いや、しかし、あそこはもう時間の問題だとは思うが」
なぁ? と呟くエヴァンシークに、え? え? どういうことですか、とウィリアローナは首を傾げたのだった。
ヴェニエール帝国上級宿で、長椅子でへそを曲げた様子の姫君と、その傍らに膝をついている騎士の姿があった。
「姫ー」
「……」
「王女さん」
「……」
「ルチエラ」
「何呼び捨てにしてるのよ引っ叩きますわよ!」
言うと同時に投げつけられたクッションを大人しく顔面で受け止めて、騎士はため息を吐いた。
「ルチエラ、もう王国に帰ろう。親父さんもお袋さんも、心配している」
「傭兵あがりの騎士が、何を偉そうに。王と王妃に少しは敬意を払ったらどうな」
構わず毒づこうとしていたルチエラの目の前で、ん、と両手を広げる騎士に、ルチエラの表情が崩れる。唇を引き結んで、右手を振り上げた。
甲高い音が、響く。
「馬鹿にして……」
涙が滲んで視界がはっきりしていない隙に、頬を赤く腫らした騎士の指。無骨な武人が持つ人差し指の背が、ルチエラの目尻に浮かぶ涙を掬った。
「泣くな」
「うるさいわね」
喜ぶと思ったの。
民が、臣が、王国中が、喜ぶと思ったの。
最初から無茶な夢だとはわかっていても。
思い浮かべたら、願わずにはいられなかったの。
「エヴァンシーク陛下に、恋をしていたわけじゃ、なかったわ」
いや、していた。あの高みにいるエヴァンシーク様を、すぐ側で見上げていられることは幸福だと思った。これが、恋であったかどうかなど、恋とはそんなものだ。思い込んで、そうだと思えばそうで、そうじゃないと思えばそうじゃないという、ただそれだけの代物。
確実に言えることは、ただ、その隣に立っている自分。それを見て、喜ぶ王国の皆々を、焦がれた、そんな未来が欲しいと思った、それだけが確かで。
たとえ愛がなかったとしても、自分の政略結婚によって、愛する人たちが喜ぶ顔が、見たかったの。
ひとしきり涙をこぼして、落ち着いて、ため息を吐く。
「国に帰ったら、また縁談の処理をしていかなくては」
くだらない。あんな雑事を、父や母、宰相、大臣たちに任せるわけにもいかない。非常識といわれようが、ルチエラは縁談を持ち込んだ者たちを自身の手で処理していた。
「んー、それにもそろそろ決着つけたいねぇ」
どさくさにまぎれてルチエラの手をぎゅっと握っていた騎士は、その手の甲にそっと口づけた。
なに、と眉をひそめるルチエラを、片膝ついたまま下から見上げて。
「ねえ、お姫さんお姫さん。いつか、みんなの女王様になる、いじっぱりな女の子」
謳うような文句に、またいったいどんなふざけたことを言い出すのかと、ルチエラは呆れて待つ。言い終えた途端引っ叩く準備を、しな、が、ら
「俺だけお姫様になってよ」
理解が、追いつかなかった。きっとわかっている。この、頭のまわる元傭兵はわかっていながらなおも続ける。
「どっかのくだらない貴族にくれてやるくらいなら、俺のものになれよ。なぁ、ルチエラ。あんただって、そうしたいと思っているんだろう」
どこへ行くにも側についていた俺を、文句もいわずどこへでもつれていってくれたあんただって、くだらない誰かのものになるくらいなら、俺の方が良いだろう。
言葉が出ない。まさか、この、プライドの高い、軽薄な男から、こんな甘い言葉が吐き出されるなど思っても見なかった。
というか、これはもしかしなくとも求婚されているのだろうか。
こんな言葉で、求婚しているつもりなのか、この男。
「傭兵あがりの、あなたと、この、あたくしが?」
馬鹿にするものいい加減にして、そう言いかけて、騎士の目を見たルチエラは、言葉を変えた。
「……あなたでは、正式な位を授けることはできませんわ」
あー、と騎士ははにかむように笑った。ルチエラよりも年上であるというのに、年下の少年のように笑う。
「地位が欲しいわけじゃないからな」
「それは、つまり、日陰者になるということです」
夫を迎えていない女王の横に侍る騎士というのは、いつの時代もそうであったのかもしれないけれど。
「ろくでもない貴族を迎えてみろ、気がついたら死体になっているかもしれん」
どこまで本気なのだ、この男。
ルチエラは苦笑した。この男だけは、遠ざけるつもりはなかった。死が二人を分つまで、ルチエラは騎士を盾と剣として、王女でありいつか女王として生き続けるのだと決めていた。
ルチエラにそこまで思わせるその騎士が、そう、望むというのなら。
「本気で、そんな馬鹿げたことを言っているのなら」
まずはそのふざけた口調を改めることですわね、とルチエラの手を握ったままの騎士の腕を足蹴にしてはねのける。そして、長椅子の背もたれに寄りかかり、目を閉じた。
馬鹿げた申し出。
馬鹿げた求婚。
けれど、それはあり得ない話ではなくて。
傭兵であったのに、騎士となって王女の護衛を勤めるだけあって、王の覚えも明るい。というよりもむしろ、お気に入りでさえある。
騎士が望めば、きっと相応の家の養子になれるのだ。
けれど、騎士がそれを望むかどうか、という話だけれど。
2012年12月26日執筆。
小話 1〜8は、拍手のお礼でした。
ありがとうございました。
9「我が侭王女の最初の希望」、10「未定」、は書き下ろし予定です。