奪われた証拠、揺らいだ信頼
最初の郵便鐘は、港の北端にある古い塔の中で見つかった。
リゼットたちが倉庫を出たとき、王都の兵士はすでに路地を塞いでいた。住民たちは遠巻きに集まり、誰もが不安そうに顔を見合わせている。公開郵便庫の扉には、王都監査院の封印が貼られていた。
「記録石と台帳を提出しろ」
オルブライトが命じた。
「規約では、三本の鍵を持つ者全員の立ち会いが必要です」
リゼットはミラと書記官を見た。二人は震えながらも、それぞれの鍵を握っている。エドガーは黙って三本目の鍵を掲げた。
「それに、母の記録石は公開郵便庫の保管物ではありません」
「君が持ち去った証拠品だ」
「違います。私は見つけただけです」
「王都の審問で説明してもらう」
オルブライトの後ろから、ハルヴェンが進み出た。
「この町の混乱を終わらせるためにも、従うべきでしょう。リゼット嬢、あなたの音声記録がどれだけ人々を煽ったか、もう少し考えてみてください」
その言葉に、住民の間から低いざわめきが起きた。
リゼットは反論しようとした。しかし、母の記録石を胸元にしまった瞬間、エドガーが手を伸ばした。
「預かる」
「エドガー?」
「王都へ行くなら、証拠は監督官の管理下に置いたほうがいい。君一人に責任を背負わせない」
その声には、いつもの揺るがなさがあった。だからこそ、リゼットは素直に石を渡した。
翌朝、二人は王都行きの魔法郵便船に乗せられた。
船内の審問室には、監査官が三人いた。中央に座る女が書状を読み上げ、リゼットの記録石を提出するよう求めた。エドガーは封印袋に入れた石を机へ置いた。
だが、袋を開けた瞬間、室内に響いたのは母の声ではなかった。
『水路の所有権はハルヴェン家にある。住民の証言は虚偽であり、リゼット・アルノーは記録を改ざんした』
リゼットの背筋が凍った。
「違います!」
「記録石は君の手から出たものだ」
「封印袋を開けるまで、私は触れていません」
彼女は石に耳を近づけた。母の声に似せた音の下に、別の響きがある。沈黙を長くする魔法。あの工房の癖だ。
「これは差し替えられています。音の継ぎ目が――」
「また、特殊な聴覚による推測か」
監査官は冷たく遮った。
エドガーが立ち上がった。
「彼女の聴力を根拠にしないなら、音声記録そのものを検証する技師を呼べばいい」
「監査を指揮するのは我々だ」
「ならば、封印の記録を確認してください。船に積み込まれてから開封まで、誰が管理したのか」
その言葉を聞いたオルブライトの顔がわずかに歪んだ。
しかし次の瞬間、机の上の書類が一斉に燃え上がった。火は青く、紙だけを舐めて消えた。
審問室に残ったのは、灰と黒ずんだ封印片だけだった。
母の記録石も、配達帳の写しも、住民の証言を収めた石も、すべて消えていた。
「証拠隠滅の責任を問う」
中央の女が告げた。
「リゼット・アルノー、あなたを調査記録の不正使用で拘束する。エドガー・ヴァルツ、水路監督官としての職務を停止する」
「彼女は関係ない」
エドガーが言った。
「記録石は私が管理した。責任は私にある」
リゼットは彼を見た。彼の手が、かすかに震えていた。
王都の拘置所へ向かう廊下で、リゼットは声を潜めた。
「どうして、あの石をあなたに預けたの」
「君を守るためだ」
「守れなかった」
エドガーが足を止めた。
「リゼット」
「あなたは、私なら聞き分けられると知っていた。なのに、証拠を一つにまとめて、私から遠ざけた」
「君が狙われていたからだ」
「私を信じていないのと同じよ」
言葉が石壁にぶつかり、冷たく返ってきた。
エドガーは何かを言いかけたが、やがて目を伏せた。
「君を失うのが怖かった」
「だから、私の仕事を奪ったの?」
その問いに、彼は答えられなかった。
リゼットは胸の奥が裂けるように痛んだ。母の声を失ったことより、今、隣にいる人の沈黙のほうが苦しかった。
別々の部屋に入れられる直前、エドガーが振り返った。
「明日の審問で、私は監督官としてではなく、一人の証人として話す」
「もう証拠はないわ」
「それでも、見たことを話す」
「誰も信じなかったら?」
「君が信じてくれればいい」
その言葉は、以前なら心を支えただろう。だが今のリゼットには、あまりにも遅く聞こえた。
独房の中で、彼女は何度も母の最後の記録を思い出した。
最初の郵便鐘を探して。
母は、記録石そのものを証拠にしていなかったのかもしれない。音は奪える。紙も燃やせる。けれど、声を届けた相手の記憶まで消すことはできない。
夜更け、窓の外で王都の鐘が鳴った。
一度、二度、三度。
その音に混じって、遠くから小さな反響が返ってきた。
港町の鐘と同じ、古い四連の響き。
リゼットは壁に耳を当てた。隣の独房から、エドガーの声が聞こえる。
「リゼット、聞こえるか」
「ええ」
「君の母親の記録を、私は信じている」
彼女は目を閉じた。
「でも、私を信じてはいなかった」
長い沈黙が続いた。
「そうだ」
エドガーは否定しなかった。
「私は君を守ることと、君の選ぶ権利を守ることを間違えた」
その声には、逃げ道を求める響きがなかった。
「もう一度だけ、やり直させてほしい」
リゼットはすぐには答えなかった。
やがて、壁越しに手を当てる。冷たい石の向こうで、彼の手も重なった気がした。
「証拠がなくても、私は聞くわ」
「うん」
「でも、次に何かを預けるときは、私に決めさせて」
「約束する」
完全に亀裂が埋まったわけではない。それでも、沈黙の中に細い橋が架かった。
リゼットは目を開けた。
母の記録は奪われた。エドガーの肩章も奪われた。けれど、町で交わされた声のすべてが消えたわけではない。
明日の審問で、彼女は証拠を失った郵便士としてではなく、声を覚えている人間として立つ。
そして、王都の壁の向こうへ、まだ届いていない真実を送り出すのだ。




