第1話 女子高生とカメレオン
放課後のチャイムが鳴り終わると同時に、県立彩波高等学校の2年A組の教室は弾けるような喧騒に包まれた。
「ねえねえ、この後みんなで駅前のショッピングモール行かない?」
流行に敏感でクラスの中心的な存在である西園寺舞が、スマホの画面を見せながら声を弾ませた。彼女の周りには、いつものように数人の女子が集まっている。
「あ、そこって昨日SNSでバズってた新作のフラペチーノある所でしょ! むっちゃ美味しそうだった!」
神尾菜々花が目を輝かせて身を乗り出すと、周りの空気がパッと華やいだ。
菜々花は華やかな容姿と、誰に対しても分け隔てなくハッキリと自分の意見を言う性格で、クラスメイトたちから憧れの的とされている女子高生だ。
「そうそう、絶対美味しいよ。ね、梨沙もそう思うでしょ?」
舞が無意識に同意を求めると、ミーハーな情報屋の飯田梨沙が大きく頷いた。
「行く行く! あそこのモール、他校のイケメンもよく来るって噂だし。くるみはどうする?」
「えっと……」
「くるみも行こうよ。前に言ってた、可愛い雑貨屋さんもセールやってるって!」
話を振られた桜井くるみは、ビクッと肩を揺らして菜々花の袖を少しだけ摘んだ。大人しく、自分から意見を言うのが苦手なくるみは、常にカースト上位から落ちることを恐れている節がある。
「わ、私は……菜々花ちゃんが行くなら、行きたい、な」
すがるような視線を向けられ、菜々花は明るく笑い飛ばした。
「もちろん行くよ! 甘いものは正義だし、みんなで食べた方がむっちゃ楽しいもんね!」
「やったぁ! さすが菜々花、話が早い!」
舞と梨沙がハイタッチをして嬉しそうに笑い合う。くるみもホッとしたように表情を緩めた。その朗らかな輪の中心で、菜々花も満面の笑みを浮かべていた。
(本当は今日、お父さんが買ってくるって言ってた『彩波大福』を家でゆっくり食べるつもりだったんだけどな)
心の奥底で、ほんの小さな溜息がこぼれる菜々花。クラスの「人気者」としての自分。みんなが期待する、明るくて決断力のある「神尾菜々花」像。それを演じることに、時折わずかな息苦しさを感じることがある。空気を読み合える者だけが上に立てるこの学校で、無意識のうちに周囲の空気に自分を同化させているのかもしれない。
けれど、それは決して暗い悩みというほどでもない。友達と過ごす時間は本当に楽しいし、みんなの笑顔を見るのも好きだ。ほんの少しの影は、いつもの口癖と共に心の奥にしまい込んだ。
「ごめん、私、今日は日直の仕事で少し遅れちゃうから、先にお店行って席取っておいてくれる? むっちゃ早く追いかけるから!」
「えー、じゃあ待ってるね! 早く来てよー!」
手を振って教室を出て行く友人たちを見送り、菜々花は日誌を抱えて職員室へと向かった。
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日直の仕事を終えて昇降口を出ると、空は分厚い鉛色の雲に覆われていた。
「うわぁ、曇ってるなー。これ、絶対に雨降るやつだ」
菜々花が足早に校門へ向かおうとした時、そのすぐそばでウロウロと周囲を見回している男子生徒の姿が目に留まった。
地味な身なりに、手入れされていない少し長めの前髪。分厚い眼鏡の奥の目は、いつも伏せがちだ。どこかオドオドとしたその雰囲気は、クラスメイトの千石彰だった。
彼は化学オタクであり、常に理科準備室にこもって謎の液体を混ぜ合わせたり独自の実験や発明をしているため、周囲からは「変人」扱いされて完全に浮いている存在だ。普段の菜々花の華やかなグループとは、教室の中で住む世界が全く違い、接点など皆無に等しい。
しかし、菜々花はスクールカーストなど気にせず、誰に対しても偏見を持たずに接する性格だ。困ったように茂みを覗き込んでいる彰を放っておけず、ごく自然な足取りで彼に近づいた。
「千石君。困った顔して、どうかしたの?」
突然声をかけられ、彰はビクッと肩を跳ねさせて振り返った。相手がクラスの中心人物である神尾菜々花だと気づき、彼の目は驚きに見開かれる。
「や、やあ神尾さん。いやぁ、キョロ太がいなくなっちゃってね」
「キョロ太? ペット?」
聞き返した菜々花に、彰は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「友達だよ。科学部で飼っていたカメレオンなんだけど、しょっちゅう脱走するんだ、彼」
「あはは。そ、そうなんだ」
菜々花はクスッと笑った。オタク特有の言い回しや、カメレオンを「友達」と呼ぶ感性を馬鹿にすることなく、純粋に面白いと感じたのだ。
「それはそれとして、私、カメレオンって生で見たことないから手伝わせてよ。探すの」
そう言って、菜々花は持っていたスクールバッグをドサッと足元に置き、制服の袖を少し捲った。
「え……? い、いや、でも神尾さん、予定とかあるんじゃ……」
「大丈夫大丈夫、少し遅れるって言ってあるから。それより、早く見つけてあげないと雨降ってきそうだしね」
彰は戸惑いながらも、その言葉に強く胸を打たれていた。
自分のような地味で変人扱いされている人間に、クラスの人気者である彼女が嫌な顔一つせず、当たり前のように手を差し伸べてくれた。そのフラットな優しさが、ひび割れた大地に染み込む水のように彰の心を満たしていく。
「……ありがとう、神尾さん」
「どういたしまして! で、どっちの方に逃げたか心当たりはあるの?」
「多分、裏庭の方角だと思う。彼、木登りが得意だから……」
「よし、速攻で探し出すよ! 案内して!」
二人は並んで、薄暗くなってきた校舎の裏手へと向かって歩き出した。
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裏庭の木々は、強くなってきた風に揺れてザワザワと音を立てていた。
「キョロ太ー! どこー?」
菜々花は茂みを掻き分けながら、明るい声で呼びかける。
「カメレオンって、葉っぱと同じ緑色になっちゃうんでしょ? 見つけるの難しくない?」
「まあね。擬態能力があるから。でも、完全に姿を消すわけじゃないんだ。気分や温度によっても色が変わるから、よく見れば輪郭が浮かび上がって見えるはずだよ」
彰は慣れた手つきで木の枝を一本ずつ確認していく。その横顔は真剣そのものだ。
「でも、どうしてカメレオンなんか飼ってるの? 爬虫類ってちょっと怖いイメージあったけど」
菜々花の素朴な疑問に、彰は少し早口で答える。
「カメレオンはすごい生き物なんだ。環境に合わせて体色を変える『擬態』だけじゃなく、左右の目が完全に独立して動く『360度視野』を持っていたり、自分の体長よりも長い舌を瞬時に伸ばして獲物を捕らえたりできる。その特異な進化と環境適応のメカニズムは、化学的にも生物学的にも非常に興味深くて……あ、ごめん。気持ち悪いよね、こんな話」
ハッとして口をつぐんだ彰に、菜々花は首を横に振った。
「ううん、全然! 面白いじゃん。千石君って本当にそういうの詳しいんだね。すごいよ!」
菜々花の無邪気な称賛に、彰は耳を少し赤くした。自分の知識を語って「すごい」と褒められたことなど、今まで一度もなかったからだ。
「そ、そんなことないよ。ただ好きなだけだから」
「好きなことをそこまで突き詰められるのって、才能だよ。私なんて、なんとなく毎日過ごしてるだけだし」
自嘲気味に笑う菜々花の横顔に、彰はふと、彼女が時折見せる見えない壁のようなものを感じた。いつも太陽のように明るい彼女だが、その内側には他人には見せない繊細な何かがあるのかもしれない。
ゴロゴローーー……!
遠くで低い雷鳴が響き、冷たい風が二人の間を吹き抜けた。
「うわ、急がないと本当に降ってくるね。……あ!」
菜々花が、少し離れた古いクスノキの根元を指差した。
「ねえ千石君、あそこの枝のところ! なんか緑色の丸っこいのがいない!?」
彰が視線を向けると、確かに枯れ枝の間に、周囲の葉に同化しようとしながらも微妙に色が浮いている小さな影があった。
「キョロ太だ……!」
「よし、私に任せて!」
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菜々花は足早にクスノキへと近づくと、腰を下ろしてそっと両手を伸ばした。
逃げ出さないように、驚かせないように、ゆっくりと。
カメレオンのキョロ太は、左右の目をキョロキョロと別々の方向に動かしながら菜々花を見ていたが、威嚇する様子もなく、大人しく彼女の手の中に収まった。
「わぁ……生で見たの初めて! 目がクリクリしてて、指の力もけっこう強いね。なんだかおもちゃみたいで不思議」
その不思議な感触と、小さな命の重みに、菜々花は目を細めて満面の笑みを浮かべた。
「君、むっちゃかわいいな~♪」
菜々花がキョロ太を胸の高さまで持ち上げて微笑みかけた、その瞬間だった。
ピカッ!!! ドーーーン!!!
視界が真っ白に染まり、世界からすべての音が消え去った。
直後、天地を揺るがすような轟音が裏庭に響き渡る。空を引き裂くように落ちた一条の落雷が、クスノキの根元にいた菜々花を容赦なく直撃したのだ。
「神尾さんッ!!!」
彰の悲鳴のような叫び声は、轟音にかき消されて届かない。
バチバチと青白い火花が飛び散り、空気が焦げる強烈な匂いが立ち込める。
「あ……れ……?」
菜々花の口から、掠れた声が漏れた。
全身を駆け巡る未知の衝撃。手の中にいたはずのキョロ太の温もりだけが、なぜか胸の奥深くに溶け込んでいくような奇妙な感覚。
次に訪れたのは、深い闇だった。
糸が切れた操り人形のように、菜々花はその場に崩れ落ち、ゆっくりと気を失っていった。
冷たい雨粒が、倒れた彼女の頬を濡らし始めながら。




