No.11 寛解
春になって、わたしは立花と、荒川の土手に桜を見に行った。
付き合うことになったわけではない。
あの夜、川辺で家のことを話してから、わたしたちの距離は、少しだけ変わった。前より、自然に話せるようになった。
けれど、わたしは、まだ、自分の気持ちに名前をつけられずにいた。好き、なのだとは思う。でも、その言葉を口にするのが、怖かった。口にしてしまえば、後戻りできなくなる気がした。
立花も、それを急かさなかった。
土手に座って、缶コーヒーを飲んだ。花びらが、風に乗って、川のほうへ流れていった。
「あのさ」と立花が言った。「前に、可愛げがないって、お母さんに言われてきたって、言ってたじゃん」
「うん」
「あれさ。可愛いって、その人が持ってる性質じゃなくて、見てる側の問題なんじゃないかなって。あんたのお母さんは、あんたを可愛く見れなかった。でもそれは、あんたが可愛くなかったからじゃなくて、お母さんの目に、あんたを可愛く見る機能が、なかったってだけのことなんじゃないの」
わたしは、彼の横顔を見た。
「機能が、なかった」
「うん。だから、あんたが悪かったわけじゃない。あんたがどんなに頑張っても、機能がない目には、可愛く映らない。それは、あんたのせいじゃない」
わたしは、川面を流れていく花びらを見つめた。
彼の言葉が、正しいのかどうかは、わからなかった。世の中の全部が、そんなにきれいに割り切れるとも思わなかった。
母が悪いのか、母も被害者なのか、わたしのせいなのか、誰のせいでもないのか――そんなことは、たぶん、いくら考えても、答えは出ない。
ただ、ひとつだけ、わたしのなかに残ったものがあった。
わたしが、可愛がられなかったのは、わたしのせいではなかった。
頑張りが足りなかったわけでも、努力が足りなかったわけでも、可愛げがなかったわけでもない。ただ、わたしを可愛く見る目を持った人が、わたしの近くに、いなかっただけだ。それは、わたしには、どうしようもないことだった。六歳のわたしにも、十四歳のわたしにも、どうしようもなかった。
その当たり前のことを、わたしは、二十数年かけて、ようやく理解できた。
「立花くんは」とわたしは言った。「わたしを、可愛く見る機能、ついてるの?」
彼は、少し笑った。
「ついてるよ。たぶん、初期設定で」
わたしは、笑った。それから、川面に目を戻した。
桜の花びらが、風に舞っていた。どれも似たような薄桃色をしていて、けれど、一枚として同じ形のものはなかった。可愛い花も、そうでない花も、本当はなくて、ただ、それぞれの形で、それぞれに散っていくだけだった。
遠くで、子どもが笑う声がした。母親らしき人が、その子を抱き上げて、何か言っている。聞こえないけれど、たぶん、可愛い、と言っているのだろう。
わたしは、その光景を見て――まだ、少しだけ、痛んだ。羨ましさも、ゼロにはならなかった。あんなふうに抱き上げられたことが、わたしには、なかったから。その事実は、これから先も、変わらない。
けれど、以前ほどには、痛まなかった。
わたしは、立花の手の、すぐ隣に、自分の手を置いた。握りはしなかった。まだ、握る勇気は、なかった。けれど、隣に置くことは、できた。指先が、わずかに触れた。
立花は、何も言わなかった。手を握り返してくることも、しなかった。ただ、その指を、引っこめもしなかった。わたしのペースを、待ってくれていた。
どんな黒も白に見える、なんてことは、ないと思う。黒は、黒のままだ。
わたしの過去は、変わらない。母の言葉も、父の無関心も、選ばれなかった日々も、なかったことにはならない。それを、無理に白く塗り替えようとは、もう思わない。
ただ、黒のなかにも、よく見れば、いろんな色が混じっている。真っ黒に見えていたものが、光の角度を変えれば、深い藍や、濃い紫を、わずかに含んでいることがある。それに気づけるようになっただけで、わたしの世界は、ほんの少しだけ、息がしやすくなった。
わたしは、まだ、自分を完全には愛せていない。
立花を完全には信じきれていないし、遥とわかり合えたわけでもないし、母を許せたわけでもない。たぶん、これからも、何度も逃げ出して、何度も人を傷つけて、何度も自分を責めるのだろう。簡単には変われない。凍りついた場所は、簡単には溶けない。
それでも。
わたしは、指先の、わずかな温度を感じながら、思った。
逃げても、また戻ってくればいい。
傷つけても、また謝ればいい。
溶けなくても、冷たいまま、抱えていけばいい。
完璧に癒えなくても、完璧に愛せなくても、完璧に許せなくても、それでも、わたしは、生きていける。
桜が、散っていた。川は、流れていた。花びらを乗せて、ゆっくりと、まだ見ぬ海のほうへ。
わたしは、引っこめなかったその指先を、ほんの少しだけ、立花のほうへ近づけた。




