第15話 波間の余韻
夜の浦波ビレッジは静かだった。
波間の湯が開湯して数日が経ち、村民たちの顔に少しずつ血色が戻り始めていた。
泉透は最後の組として湯に浸かり、熱い湯で体を芯まで温めた後、ゆっくりと湯船から上がった。
湯気で曇った鏡の前で軽く顔を拭う。
波紋視界が、いつものように視界の端を柔らかく歪めていた。
「……久しぶりだな、こういう感覚も。」
彼は小さく息を吐き、整備された更衣室で着替えた。
シンプルなシャツとズボン。
村の中ではこれが最も落ち着く服装だった。
自室に戻ると、簡素な木造の個室に月明かりが差し込んでいた。造船所跡を改装した部屋は広くもなく狭くもなく、必要なものだけが置かれている。
泉はベッドに腰を下ろし、背中を壁に預けた。湯上りの体が熱を帯び、珍しく心が緩むのを感じた。
(……今日は、少しだけ許されるか)
目を閉じると、自然と記憶が蘇ってきた。遥香の笑顔。
結衣の小さな手が、自分の指を握ってくる感触。
「今日も遅いの?」「おとーちゃん、早く帰ってきてね」
遥香は最後まで、彼がただの普通の警察官だと思っていた。
泉はそれを守るために、血と闇にまみれた任務のすべてを隠し続けた。
妻の優しい笑顔の前では、ただの夫でいたかった。結衣の前では、ただの父親でいたかった。
Silent Waveが起きたあの日。
任務から急いで帰った先で見たのは、瓦礫と、冷たくなった二人の姿だった。
結衣の手の中には、最後まで書きかけだった手紙が握られていた。
「おとーちゃん だいすき はやく かえってきて」
泉は静かに息を吸い、ゆっくり吐いた。
聴覚異常で、遠く波の音が聞こえる。時折混じる、結衣の笑い声のような幻聴。
「……遥香、結衣。
俺は結局、お前たちを守れなかった。」
指先がわずかに震えた。
38歳の男は、暗い部屋の中でただ一人、静かに目を閉じていた。
涙は出なかった。
もう何年も、出なくなっていた。
やがて彼はゆっくりと立ち上がり、窓から村の灯りを見下ろした。
温室の骨組みが、少しずつ形を成し始めている。
ECHO-NETの淡い光が、防壁沿いに規則正しく点滅している。
野々村静香が管理する波間の湯からは、まだかすかに湯気が立ち上っていた。
「ここにいる皆は……俺が守る。
今度こそ、失わないように。」
泉透は静かに呟き、いつもの落ち着いた表情に戻った。
影の男は、再び仮面を被る。
波間の湯の温もりは、久しぶりに彼の凍えた心の片隅を、ほんの少しだけ溶かしていた。




