第十四話 外の音
書くことがなにもない作者です!ペンネームはふざけてますが内容はふざけてません!
週末、家に帰った。
シエルが待っていると言っていた。だから帰った。それだけのことだったが、ルミナの家を出る時に、ルミナが少し寂しそうな顔をした。
「今日、帰るの」
「うん。シエルに夕飯作ってもらう約束してたから」
「……そっか」ルミナが少し間を置いた。「何時に帰ってくる?」
帰ってくる、というのはルミナの家に戻るということだった。いつの間にか、そういう言葉の使い方になっていた。
「明日の朝」
「今夜は帰ってこないの」
「うん」
ルミナが少し俯いた。何も言わなかった。でも、何かを言いたそうな顔をしていた。
僕は少し待った。
ルミナが顔を上げた時には、また笑っていた。「分かった。気をつけてね」と言った。
いつも通りの笑顔だった。
でも玄関を出てから、ルミナの最初の顔が、少し頭に残った。寂しそうな顔。何かを言いたそうな顔。
それを、僕は考えないようにして、家へ向かった。
家に帰ると、シエルが夕飯を作っていた。
玄関を開けた瞬間、いい匂いがした。キッチンから煮込む音がして、温かい空気が漂っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま。何作ってるの」
「シチュー」シエルが鍋を混ぜながら言った。「時間がかかるので、先に座っていてください」
リビングに入って、ソファに座った。
久しぶりに、ゆっくりした気がした。ルミナの家では、常にルミナがいた。ルミナが話しかけてくるか、隣にいるか、気配があるか。それが当たり前になっていたから、一人でソファに座っている静けさが、少し新鮮だった。
新鮮、というのが正しいかどうか分からなかった。自分の家なのに、新鮮に感じるのは、おかしいかもしれなかった。
窓の外から、虫の声が聞こえた。
秋になっていた。付き合い始めたのが春で、それからずっと季節が動いていた。気づいたら秋だった。
「シエル」
「なんですか」
「もう秋だね」
「そうですね」シエルが少し間を置いた。「アイルさん、最近外を歩いてましたか」
「歩いてるけど」
「学校と、ルミナさんの家の往復ですか」
そう言われると、そうだった。寄り道をしなくなって久しかった。ルミナに声をかけずに出かけることが、いつの間にかなくなっていた。
「……まあ」
「秋になったの、気づいてませんでしたか」
「気づいてなかった」
シエルが少し黙った。鍋を混ぜる音だけがした。
「そうですか」シエルが静かに言った。それだけだった。
夕飯は、シチューだった。
温かくて、少し甘くて、よく煮込まれていた。シエルの料理の中では、うまい方だった。
「おいしい」と言うと、シエルが少し目を細めた。
「ありがとうございます」
「シチューって、こんなに上手だったっけ」
「練習しました」
「練習?」
「……暇だったので」
暇だったので。その言葉が、少し胸に刺さった。シエルが暇だったのは、僕が帰ってこなかったからだった。
「ごめん」
「謝らなくていいです」シエルがスプーンを置いた。「美味しいと言ってもらえたので、練習した甲斐がありました」
そういう言い方をするシエルが、少し、痛かった。
痛い、という感覚が何を指しているのか、うまく言葉にできなかった。ただ、胸のどこかが、静かに痛かった。
食後、二人でリビングにいた。
シエルが本を読んでいた。今日はページが進んでいた。秋の虫の声が、窓の外から聞こえていた。
こういう時間が、好きだった。
好きだった、とまた気づいた。先週も気づいた。それでも帰ってくる頻度は変わらなかった。気づいても、何も変わらなかった。
「シエル、最近どうだった」
シエルが本から顔を上げた。
「何がですか」
「なんでも。毎日、どうしてたか」
シエルが少し考えた。
「……掃除して、料理して、本を読んで」シエルがゆっくり言った。「あとは、アイルさんからのメッセージを待っていました」
「それだけ?」
「それだけです」
それだけ。
シエルの毎日が、それだけだった。僕がいない間、掃除して、料理して、本を読んで、メッセージを待っていた。
「寂しくなかった?」
シエルが少し止まった。
「……聞いていいですか、アイルさん」
「なに」
「寂しいかどうか、聞いてくれるんですね」
どういう意味か、少し分からなかった。
「聞いたらおかしい?」
「おかしくないです」シエルが静かに言った。「ただ、最近、アイルさんがそういうことを聞いてくれることが、少なかったので」
そういうこと。シエルの気持ちを聞くこと、ということだろうか。
「……聞いてなかった?」
「少なかったです」シエルが視線を落とした。「アイルさんは最近、自分のことを話すより、ルミナさんのことを話すことが多かったので」
そうだったかもしれない。思い返すと、シエルに話していたのはほとんどルミナのことだった。ルミナとこういうことがあった、ルミナがこう言った。シエルのことを聞いていなかった。
「ごめん」
「謝らなくていいです」シエルがまた言った。「ただ、今日は聞いてくれたので、嬉しかったです」
嬉しかった。
シエルが嬉しいという言葉を使うのは、珍しかった。いつも「よかったです」か「分かりました」か、そういう言い方をした。嬉しい、と直接言ったのは、いつぶりだろうと思った。
「寂しかった?」という質問の答えを、まだ聞いていなかった。
「シエル、さっきの質問」
「寂しかったか、ですか」シエルが少し間を置いた。「……少し」
「少し?」
「少し、です」シエルが窓の外を見た。「でも、アイルさんが来た日は、寂しくなかったです」
それだけ言って、また本に目を落とした。
僕はしばらく、シエルの横顔を見ていた。
白い髪。暗い赤の目。静かに本を読んでいる横顔。
ずっと知っていた横顔なのに、今日は少し違って見えた。違って見えた理由が、よく分からなかった。
夜、自分の部屋で眠った。
久しぶりの天井だった。ルミナの部屋の天井とは、少し違う。傷の位置も、染みの形も、違う。こちらの方が、ずっと長く見てきた天井だった。
ルミナからメッセージが来た。
『寂しいよ。早く帰ってきて』
帰ってきて、というのはルミナの家に、ということだった。
返信した。『明日の朝に行く』と。
既読がついて、すぐに返信が来た。『待ってる』と。
スマートフォンを置いた。
待ってる、とルミナが言った。待っています、とシエルが言った。同じ言葉だったが、全然違う重さで胸に落ちた。なぜ違うのか、うまく言葉にできなかった。
天井を見ていたら、眠れた。
ルミナの部屋よりは、早く眠れた。
翌朝、シエルが朝食を作っていた。
トーストと目玉焼きと、コーヒー。シンプルだったが、きちんとしていた。
「今日も帰るんですか」シエルが聞いた。帰る、というのが今はルミナの家を指すことを、シエルも知っていた。
「うん、朝食食べてから」
「そうですか」
シエルが黙って、コーヒーを注いだ。
僕はトーストを食べながら、窓の外を見た。秋の朝の光が、庭に落ちていた。
きれいだった。
こういう朝を、ルミナの家では見なかった。朝はいつもルミナが先に起きていて、起こされて、それからルミナの話を聞いていた。窓の外を眺める時間は、なかった。
「シエル」
「なんですか」
「来週も、帰ってくるよ」
シエルが少し止まった。
「……約束ですか」
「約束」
シエルが小さく頷いた。それから、自分のコーヒーを一口飲んだ。
「待っています」
また、同じ言葉だった。
今日は、昨日より少し違う響きで聞こえた。
僕はトーストを食べ終えて、鞄を持った。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」シエルが言った。「気をつけて」
玄関を出て、外に出た。
秋の空気が、冷たかった。
少し歩いてから、振り返った。家が見えた。シエルがいる家。来週も帰ると約束した家。
ルミナが待っている方向に、また歩き始めた。
秋の匂いがした。
気づかないうちに、季節が変わっていた。
その翌週、帰れなかった。
月曜日の夜、帰ろうとすると、ルミナが「もう一泊だけ」と言った。もう一泊が、次の日もまたもう一泊になった。気づいたら週末になっていた。
シエルに『今週は帰れなかった』とメッセージを送った。
返信まで、少し時間がかかった。
『分かりました』
それだけだった。
来週は帰る、と付け足そうとして、やめた。また帰れなかったら、シエルをまた
待たせることになる。確かめてから言った方がいい、と思った。
思って、結局送らなかった。
シエルとの約束が、静かに、消えていった。
消えていったことに、その時の僕は、気づかなかった。
百合っていいよね…




