act1ーFirst
どうも、無気力ナスビです。
ようやく本編を始められます。
それでは、作品をお楽しみください。
閉めたカーテンの隙間から差し込む、陽の光。
木々に留まって夏を告げる、蝉の声。
「うぅ…ん」
朝が来た。心地良かったそよ風は真夏の日差しで温まり、寝苦しさによる不快感から目が覚める。
(まだ6時……)
重い瞼まぶたを擦こすり、音宮琴海おとみやことみはボンヤリと目を開けた。
目覚ましはまだ鳴っていない。けれど、寝汗の気持ち悪さと相まって、再び眠る気にはなれない。
モゾモゾとベッドから這い出し、鳴り出す必要が無くなったデジタル時計の目覚まし機能をオフにして、机に戻す。
二階の風呂場へと足を運ぶ。衣装棚から取り出した着替えを手にして。
廊下の空気は、少し生温かった。
低めの温度でシャワーを浴びると微睡の名残はどこかへ行って、意識がはっきりとする。
風呂場から出て洗面台の前に立つと、バスタオルで全身の水気を拭ってから着替えた。
歯を磨き、櫛くしで手早く髪を梳いて、鏡の前で確認する。
落ち着きを感じさせる、肩まで届いた艶つやのある栗色の髪。
透明感を感じさせる白い柔肌によって引き立つ、父親譲りの黒茶色の瞳。
「うん、良い感じ」
今日の気分に合う服として選んだ白いワンピースは、琴海のお気に入りの一つ。
首元の黒いリボンがちょっとお洒落で、可愛らしい。
壁掛けの時計を確認すると、まだ7時前。余裕があるから、少しだけ講義の復習をすることにした。
「琴海ー! ごはんよー」
暫くすると、朝食を知らせる母の声。
「はーい」
琴海は返事をしてから教材を鞄に放り込み、リビングへ向かう。
一階に降りると、朝食のトーストとハムエッグの香ばしい匂いが漂ってきた。
「早く食べないと遅刻するわよ」
そう注意しながら、琴海の母は朝食をテーブルに並べている。
「えっ、もうそんなに時間が?」
どうやら洗面所の時計が遅れていたらしい。
急いで朝食を口の中にかきこみ、鞄を手に取って足早に家を出た。
「行ってきまーす!」
そう言い残し、今日も琴海の日常が始まっていく。
✧ ✧ ✧
春の気配はすっかり遠退き、命の賛歌が街を彩る6月下旬。
雨模様が目立ち始め、昼夜問わず虫の音が響く時期に入った頃。
学期末を控えてることで程よい緊張感が包んでいるとは言え、音宮琴海が通う南緑須高校では代わり映えのしない日々が流れていた。
「実数とは皆も知っての通り、2,6,-9等で表せる数式の事だ。
そして今日教える虚数はi,3i,-7i等で表す事ができる」
説明を交えながらも、数学を担当する教師が流れる様に数字を黒板に書き出していく。
「じゃあそもそも虚数とは何か。音宮、分かるかな?」
そしてチョークを置くと、生徒側へと向き直って琴海へと目を向けた。
「確か、2乗したら0未満になる数だったと思います」
「しっかり勉強しているな、一般的にはそれで正解だ」
「一般的に?」
数学の教師は満足気に頷くが、琴海はその発言に引っかかるものを感じた。
「ああ、今のは気にしないでくれ。とは言え、そんな数は現実的には実在しない」
「実在しないなら勉強する意味なくないですかー?」
琴海の疑問を笑顔で流した数学の教師に対し、クラスの中から野次が飛ぶ。
「確かに駄弁的な数字だし、想像上の数に過ぎないから実用性は無い。数十年前まではね」
数学の教師は野次の内容を受け容れつつ、含みのある視線を琴海に投げる。
彼に限らず、南緑須高の教師達は説明の一部を琴海に振るきらいがある。
高度な回答を要する場合に限って。
「……確か、レオンハルト・オイラーさんが編み出した、オイラーの等式で有用性が実現されたんですよね?」
苦虫を噛み潰した様な顔で、琴海は溜め込んであった知識を口にする。
「その通り! まさかそこまで知っていたとは脱帽するよ」
わざとらしく目を輝かせる数学の教師。
もう当てられたくないため、琴海は目を合わせない事にした。
「音宮さん凄いね、先生に当てられた問題また答えちゃった」
こっそりと、隣の席のクラスメイトが琴海に耳打ちする。
「アハハ……」
気まずさと恥ずかしさから赤くなった琴海は、愛想笑いを浮かべて教科書に顔を隠す。
「さて、オイラーの等式によって虚数が存在すると仮定した場合、とても便利なツールとなる」
チラリと、数学の教師は琴海の背後の席を見た。
そこには教科書で顔を隠し、居眠りを実践する生徒の姿。
「zzz……」
悪びれるつもりは無いのか、机に突っ伏した状態で小さく鼾までかいている。
「実例を見せよう。丁度音宮の席が列の中央にあるから座標0とする。そして黒板に向かってプラスに、ロッカーに向かってマイナスの数値をそれぞれの席にあてがっていく」
手にしたチョークで生徒を手前から琴海に向かって3,2,1と指し示し、琴海の背後の生徒をから-1,-2,-3と呼称していく。
「そして座標4に立っている私が音宮の頭上1m、即ち座標iに向かってこのチョークを投げると」
言って数学の教師は腕を振り上げ、チョークを手放した。
宙を進む小さな円柱は車線を描きながら琴海の頭上を過ぎ、教科書に隠れた爆睡生徒の脳天に見事クリーンヒット。
「ンがっ、何だぁ……?」
チョークが当たった生徒は寝ぼけているのか、少し垂れたよだれを拭きながらあたりを見渡している。
「高橋楓!」
数学の教師の声に眠気を奪われたショートレイヤーに纏められた黒髪の少女──高橋楓は正面を向く。
「おはよう、よく寝れたか?」
数学の教師が笑顔を向ける。
「まだ少し寝足りないであります」
真剣な面持ちで楓が返す。
「バカ! 少しは反省する素振りくらい見せろ」
数学の教師の突っ込みで、教室の中は笑いに満たされたことは言うまでもない。
✧ ✧ ✧
──キーンコーンカーンコーン
昼休みを報せるチャイムが響く。
教師による終了の合図を皮切りに、生徒達は束の間の自由へと解き放たれた。
「音宮さんって凄いよね」
琴海の右隣に座っていたクラスメイト、紺野秋穂が声をかける。
「何がでしょうか?」
「とぼけないでよ〜先生に当てられた問題は全部正解だし、小テストも満点続きじゃん」
「そんな、私なんてまだまだです」
「謙遜しちゃってま〜、でも行き過ぎた謙遜は嫌味だぞ」
「す、スミマセン」
「あはは、冗談冗談気にしないで」
「はぁ……」
「でさ、音宮さんの勉強法が知りたいんだけど、何処の塾通ってるの? 一日何時間勉強してる??」
「塾は行ってなくて、帰ったらその日の予習と復習を一通りしているだけで」
「嘘だ〜、そんなんだったらウチだってやってるよ。何か他に秘訣、あるんでしょ?」
「えっと、あの……」
「悪いんだけど、琴海にその話題はNGで頼めるか」
琴海がたじろいでいると、凛とした声が助け舟を出すかの様に割り込む。
振り向けばそこには数学の教師からの説教を終えたばかりの少女が立っていた。
「あ、楓」
「おまたせ琴海、早く飯行こーぜ」
バンダナに包んだ弁当箱をチラつかせて笑う楓。
だが知的好奇心が抑えられない秋穂は空気を読まず、尚も質問を続けた。
「どういう事? 高橋さん」
「人には踏み込まれたくない事情もあるんだよ」
それともう一つ、と念を押しながら楓が秋穂に詰め寄る。
「お前は大丈夫だろうけど、琴海の口調に関して触れるんじゃねーぞ。話題にも出すな」
「う、うん分かってるよ。クラスの皆も約束してるじゃん」
「クラスの皆は、な。まぁいいや、幼馴染としても琴海に友達が出来るのは嬉しいし、良かったら一緒に食うか?」
楓の誘いに乗ろうかとも思ったが、背後でソワソワしている琴海の様子を見た秋穂は、考えを変えた。
「ううん。私は購買組だから待たせちゃ悪いし、二人で行ってきなよ」
「そっか、じゃあ行ってくる」
「ごめんなさい、今度はご一緒しましょう」
「気にしないでいいからね〜」
琴海はペコリと頭を下げ、楓と教室を立ち去る。
そんな二人を見送って、秋穂はニンマリと笑みを浮かべた。
「やっぱあの二人、お似合いだわ〜」
✧ ✧ ✧
「ここにすっか」
中等部と高等部に分かれて建てられた3階建ての校舎に挟まれた中庭。
中央にそびえる1本のクヌギの木を囲う煉瓦の上。
木陰となっているその場所に、楓と琴海の二人は腰を下ろした。
「意外と涼しいんですね」
木漏れ日を見上げて、琴海は感心する。
夏の陽射しを避けて室内に逃げる学生が多いため、辺りに人影は殆ど無い。
だが予想に反してこの場所は悪くなかった。
近くの湖から吹く風が涼しさを運び、木陰に入ってさえいれば自然な心地良さを与えてくいれる。
「だろ? しかも木が邪魔してあたしらの教室からは見えねーから、絶好のサボりスポットなんだぜ」
楓は最上階の角部屋を見上げて、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「たまに授業中見ない思っていたら、こんな所にいたんですか」
単位落としますよ、と幼馴染の態度に呆れながら琴海は弁当の包を開く。
「今日もサンドイッチ?」
「手軽に作れる栄養食ですから」
「ミニマリストだな〜。だから体力付かないんだぞ」
「そう言う楓は何を作ってきたんですか」
親友の軽口も意に介さず、琴海は楓の手にしている弁当箱に興味を示す。
「おっ気になるかね、今回のあたしのお手製弁当」
楓はニヤリと歯を見せると勿体つけたようにドラムの音を舌で奏で、じゃーんと言う掛け声と共に蓋を開ける。
「わあ、茶色いですね!」
「名付けて唐揚げと卵焼きの、きんぴらごぼう添えさ☆」
「楓の好きな物ばかりで美味しそう。唐揚げを一つ頂いてもいいですか?」
「おう! 食え食え」
笑顔と共に手渡された箸を伸ばして、パクリ。
ジュワーと口内を満たす肉汁。程良く湿り気を帯びた衣がホロホロと崩れ、食べやすさを助長する。
「どうだ、美味いだろう」
「ええ、とても」
「他にも食べたい?」
「魅力的な誘いですが、お返しです」
「ムグっ!?」
微笑んで、琴海は持って来たサンドイッチの一つを楓の口に押し込んだ。
「ちゃんと炭水化物と野菜も食べなきゃですよ」
「モキュ、モキュ、モキュ、モキュ、ゴクリ。サンクス!」
そのままの状態で楓は親友の手からサンドイッチを平らげる。
この程度のやり取りは幼い頃からの日常茶飯事ではあったが。
「おうおう、相変わらずいちゃついてんなぁ!」
それを面白く思わない者もいる。
二人の前に現れた三人の不良のように。
「ゲッ、蜘蛛村」
楓が顔を引きつらせるのも無理はない。
リーダー格の不良、蜘蛛村康志は教師ですら口を出せない程の問題児であり、琴海に粘着してくる悩みの種だ。
「何の用だよ蜘蛛村」
「辛気臭えなぁ、お葬式ごっこですかぁ? 貧相なピクニックやってねぇで俺等と抜けようぜ」
楓の警戒を無視して、蜘蛛村が迫る。
琴海は怯えて萎縮してしまうが、そんな彼女を守るようにして楓が立ち塞がった。
「どきな貧乳。俺は琴海に用があんの」
「何だとこの野郎、アンタのせいであたしの親友がどれだけ恐い思いしてるかわかってんのか!」
「楓……私は大丈夫なので、落ち着いて──」
「落ち着けないよ! これ以上コイツ等に好き勝手させるもんか」
「はぁ、もういいよお前。邪魔」
いきり立つ楓に業を煮やしたのか、冷めた口調で蜘蛛村が仲間に指示を出す。
「ちょっ、何すんだテメェらっ! 離せー!!」
「まあまあ落ち着けよ、オレ達は好きだぜお前のこと」
琴海の目の前で親友が両脇から羽交い締めにされ、舌なめずりをする男二人に抑え込まれてしまう。
何とかしなければならない状況なのに、恐怖で体が動かない。
「さーて、これで俺と君の二人っきりだ。たっぷり愛し合おうぜー」
「いや、やめて……」
青ざめた顔で震えることしか出来ない。
これから起こる惨劇を回避させたいのに、喉がカラカラに乾いて言葉が出て来ない。
「何も危なくないからよ、こっちにおいで〜」
キス顔で迫る蜘蛛村。だが琴海が取れた行動は、そんな彼の後方を震えながら指差すことだけだった。
「危ないのは、アナタの方……」
「エ?」
突如、蜘蛛村の後方で男二人が宙を舞う。
目を向ければそこには地に付す彼の仲間。そしてソレを足蹴に仁王立ちの高橋楓。
「コ ロ ス、コ ロ ス」
「テメエぇ、俺のダチに何しやが──」
一瞬の出来事だった。
攻撃を受けたのだと蜘蛛村が理解した時には既に首を締め上げられ、クヌギの幹に押し付けられていた。
「オデに、ごんナゴドジデ、ゲンズゲざンが、ダバッデねぇぞ……」
この街で最も不吉な者の名が、蜘蛛村の口から飛び出す。
だが楓の荒れ狂う怒りは、脅迫程度では止らない。
「知るかよそんなこと。あたしは怒ってんだ」
静かな呟き、離される掌。
蜘蛛村がホッと息を解放できた瞬間。
「覚悟しな」
顔面を襲う楓の拳。
押し出された頭部は木の幹に強打して跳ね返る。
間髪入れずに襟首が掴み上げられ、容赦無く拳撃が飛び続ける。
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラ」
繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラ」
何度も何度も何度も何度も何度も何度も
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラ」
当たっては返り当たっては返り当たっては返り
「もう止めて!」
楓の横から、琴海は抱き留めていた。
「もう私は大丈夫ですから! 彼等なんかのために悪者にならないで下さい」
琴海の言葉で我に帰った楓は目の前の惨状に目を止める。
意識喪失一歩手前の蜘蛛村が、顔面を腫れ上がらせてクヌギの根元に崩れ落ちていた。
「やベッ、やり過ぎちゃった☆」
ぺろりと舌を出す楓。その隣を不良二人が駆けていく。
「し、しっかりして下せえ蜘蛛村さん!」
「すまねえっ。オレたちが不甲斐ねえばかりに、すまねぇぇぇ!」
「あの、すぐに手当を──」
「触んな!」
琴海は心配して手を伸ばしたが、不良は涙ながらにそれを払い除けた。
「化け物共がっ……後悔させてやるからな!」
敗者に相応しい捨て台詞を吐いて蜘蛛村を担いだ二人は、痛む身体に鞭を打ちながらその場から逃げ去って行った。
騒ぎを聞き付けた教師と入れ違いに。
「コラーッ! 何の騒ぎだー!」
「やばっ、こっち来る。にっげろー♪」
「あっ楓! 待って下さーい」
✧ ✧ ✧
猛暑の気配が迫る7月の中旬。
濃度が高まりつつある湿度は本州を覆い、自ずと人々は服装に関する意識を夏用に切り替えていく。
それは、関東の外れにある南緑須高校も例外では無い。
だがそこに通う学生達の大半は、皆どこか晴々とした表情で過ごしていた。
無理もない。やっと中間テストが終わり、次に待ち受ける行事は年に一度の校外学習なのだから。
南緑須高校の校外学習は他校とは違い、様々な分野の企業と提携を結んでいる。
それ等の職場は一様に学生達の興味を引くものばかり。
学年別のクラスに分かれている生徒達はそれぞれが行く場所を決める上で毎年揉めることから、学校関係者は中間明けから校外学習までの期間を親しみを込めて【喧嘩祭り】と呼んでいる。
なので暑さが込み上げる季節になろうと、今の南緑須高ではそれを越える活気に満ちていた。
最後まで補習が残ってしまった二人を除いては。
「ったく、なんでアタシらだけ補修なんだよ」
校舎の3階、廊下の最奥にある美術室。
ショートレイヤーに纏められた黒髪の少女、高橋楓は不満気に口を尖らせて、補修課題用のキャンバスに筆を当てる。
「授業でいい結果を残せなかったんですから、仕方ありませんよ」
その向かい側で困ったように笑いながら、音宮琴海も同じく筆を走らせていた。
「美術ぐらい大目にみてくれたっていーじゃーん!」
「美術も立派な学問ですから、投げやりにならず一緒に頑張りましょう。それに補修が終わらなければ、私達は校外学習抜きなんですよ」
「やだやだやだやだー! 南緑須に入って校外学習抜きとか、小豆の無いたい焼きと同じじゃないかー」
楓は駄々っ子のように地団駄を踏むが、そんな幼馴染をよそに琴海は真剣な眼差しで目の前の課題と格闘している。
その様子を見て、楓は抱いていた疑問を投げかけてみた。
「っていうかさ、お前は補修なんて必要ないだろ。中間テストだって学年1位だったじゃん」
「それはそうなんですが、私はそのぅ……実技が……」
気まずそうに琴海が目をそらす。
「あー……それはまぁ、うん」
楓はの脳裏に、親友のこれまでの戦跡が思い返される。
人物像を描けば顔に手足が生えた何かになり。
彫刻で卵を模れば、ズタズタに引き裂かれて苦悶の表情を浮かべる廃材になり。
そして版画に至っては白黒の荒いモザイクになる始末。
琴海の生み出してきた様々な珍物を振り返って、楓は話題を変えることにした。
「だとしてもだ、今回の採点にアタシは物申したい!」
つり目気味のぱっちりした二重瞼をより大きく開いた楓による高らかな宣言。
幼馴染の特性を理解している琴海も、そんな彼女に気になっていた質問を投げかける。
「確か今学期の成績は実技と筆記の総合。筆記が壊滅的でも、実技に問題が無ければ成績に影響はなかった筈ですが……」
「そうさ、しかも課題はアタシの得意な動物! だから超ハイクオリティでイケてる車を描いたってのに、何だって補修なんだよ」
「……車を?」
「しかも超絶かっこいいランボルギーニ! これで点が取れないなんて全米が泣くよ?!」
琴海は困惑していた。
いつもながら、否。いつも以上に自分の親友が何を言っているのかが分からない。
「あの、車は機械なのでは。課題は動物なのに高級車を描いたんですか」
琴海の指摘に、楓は快活に笑って返す。
「琴海でも知らないことってあるんだな。動く物って書いて動物って読むだろ? それなら車も動くし、何も問題は無いさ☆」
ドヤ顔を向ける楓の姿は、どこまでも自身に満ち溢れたものであった。
根が素直な琴海が、思わず自身の得て来た価値観に疑念を抱いてしまう位には。
「え、動いてるもの……?
あれ? 車って動物と同じ……?
えと、動物って細かい分類だと……」
楓の常軌を逸した理論に琴海は思考の迷宮に入り込みそうになったが、ふと視界に入った人物を見て我に帰る。
「あ、先生」
楓に気付く様子は無い。
今暴走を止めなければ、間違い無く彼女に地獄が待っている。
「だああああもう腹立つ! 帰って観たいアニメあったのにぃ」
「か楓……」
「チキショーあの頭ピカピカピカソめ〜っ、今度会ったら残りの毛もむしり取ってやる」
「楓、お落ち着いて……」
「? どうした琴海、幽霊でも見たような顔して」
「誰が頭ピカピカピカソかね?」
「だから先生、アンタが……って、せせせせ先生!?」
楓の背後に佇むは、美術の担当教師。
その面に浮かぶは阿修羅の如き形相。
「そんな……知らぬ内に追い詰められていたのは、アタシの方だったってのか」
楓が戦慄と共に歯を噛み締め、
「ワタシには高橋が勝手に自滅していってるように見えたがね」
美術の教師は蔑んだ視線を浴びせる。
「すみません美加宗一郎先生。私からよく言っておきますので」
「気にせずとも音宮は優秀な生徒だ、今は目の前の課題に集中したまえ。さて高橋君、お喋りばかりしているようだが、進捗はいかがかな?」
わざとらしくキャンバスを覗き込む美加宗一郎。
少し身を引いた楓は、その横顔に感じ入るものがあった。
「……やっぱり似てるんだよな、ピカソに」
「今なんと?」
「やべっ! 声に出てた」
「なるほど高橋、お前はそんなに成績が要らないのだね? ならお望み通りにしてやろう。校外学習も不参加だと伝えておくよ」
「すんません! 補修倍にしてもらって構わないので、成績0だけは勘弁してください!」
「そうか、なら2倍絵画の課題を出そう。今日中に終わればさっきのことは目を瞑ってやる」
「しまったーっ、口から出まかせで墓穴を掘ってしまった!」
「ほぅ、出まかせねえ。ならば3倍に増やしておこう」
「グワーッ!」
こうして鬼教師による監視の下、3倍の課題を楓はこなす事になったのだった。
✧ ✧ ✧
真夏の夜を温めるじっとりとした空気。
人気の失せた山間の村。
街頭の明かりのみが光源となった通りを歩く、一人の男。
真夏にも関わらず黒いオーバーコートに身を包んだ褐色の年若い男は無感情に、無機質に、慎重な足取りで夜闇を練り歩く。
「暗いな、どの家も。誰もいないのか」
玄関の開いた家々を見回しながら進んでいると、額に当たる何か。
「……いや、それも希望的観測か」
その正体を懐中電灯で照らして、男は重い息を吐いた。
灯りの中に浮かび上がったのは、木に吊るされた首吊り死体。
先程の感触は、そのつま先が当たったことに由来するものだろう。
「甘ったるい腐敗臭、残留する虚数の痕跡……。死後数時間ってところか」
ゆっくりとライトを動かし、辺りを順に照らしていく。
街頭に吊るされた者。
電線に吊るされた者。
そして、木々から吊るされた者。
既に頭上は首吊り死体で埋め尽くされていた。老若男女問わず、数え始めればきりが無いほどに。
「さながら死のイルミネーションだな」
淡々と感想を述べ、尚も調査のために探索を続けていると。
「──っ……ひっ、うぅ……ぅぅ…………」
風に乗って鼓膜を震わせる、すすり泣く声。
音源を辿ると、そこには夫婦と思しき吊り下げられた死体と、ソレを前に佇む少女の姿。
「パパ、ママ、なんで……なんで」
「お前の両親か」
背後から声を掛けるが、少女は心ここにあらずといった様子で男の存在に気付かない。
「辛いとは思うが受け入れろ。さ、二人を降ろしてあげ──」
「なんでここにいるの? パパもママも、お風呂で死んだんじゃなかったの……?」
涼しげな表情はそのままに、男が重心を変化させる。
呟いた少女に対して最低限の警戒をしつつ、周囲に視線を巡らせる。いつでも戦闘に入れるように。
風も無いのに揺れる、吊るされた死体の数々。
空気中の虚数濃度が先程からやけに高い。
「何かがおかしい、既に攻撃は始まっていると見るべきか」
泣き続ける少女、振り子のように振れ幅が増大していく死体達。
実に不気味な状況だが、だからこそ男は冷静沈着に事象を観察する。
──パタパタパタパタ
街路樹の陰から響き出す、乾いた小さな足音。
ビクっと肩を震わせた少女とは対照的に、男は少女を庇うため静かに体を移動させた。
物音を立てている存在こそが、この異常の元凶であることを察知して。
「え、うそ……やだ、やだよ」
少女は音の方角へ恐る恐る振り返りながら、ゆっくりと後ずさる。
そこで少女はようやく男の存在に気付いたのか、縋るような目で男に訴えかけてきた。
「アイツが、来ちゃう。お願い、逃げて」
「あの音の主のことか。何か知っているのか?」
男の疑問に答えず、サッと視線を前に戻す少女。
その眼は恐怖で大きく見開かれ、青白かった肌は更なる恐怖で土気色に染まっている。
「もう……おそい…………」
掠れた震え声で少女が指し示す。
男は街路樹へ目を戻すと、その根元には異様なカラスが一羽。
八咫烏と呼ばれる類の、三本足のカラス。両眼からは目玉が飛び出し、ぷらぷらと左右で揺れている。
──クーチャンダヨ
鼻声に近いしゃがれた鳴き声で頭を傾け、
──アーソビーマショ
リズミカルに頭を左右に振っている。
「いや、いや! いやああああああ!!」
少女がその場にしゃがみ込む。耳を塞ぎ、恐怖を見ないようにと身を縮こませて。
──ブランコデー、アーソビーマショ
「くっ、呪言か」
ぐらりと男の意識が揺らぎ、身体は崩れ落ちるようにたたらを踏む。
──クーチャンダヨ、アーソビーマショ ブランコデー、アーソビーマショ
「やめて、まだ死にたくない! オバケになんかなりたくないっ!!」
耳を塞いでいる少女の両手に、力が入る。
そのままゆっくりと、ゆっくりと、後ろへ向けて捻っていく。自らの意志とは無関係に。
「お兄さん、助けて……」
消え入りそうな、か細い少女の声。
それを最期に、少女のものではなくなった両手は完全に彼女の頭部を捻りきった。
──ゴキャッ
頸椎が完全に砕ける音。それが何を意味するのかは、誰にとっても明白であろう。
──クーチャンダヨ、アーソビーマショ ブランタコデー、アーソビーマショ
ぷらぷらと目玉を揺らし、馬鹿にした調子で頭を振り続ける八咫烏。
周囲で死体が振り子の様に大きく揺れる中、動かなくなった少女のしなびた首に、頭上から垂れ下がって来た縄が引っかかる。
「なるほど。洗脳によって対象を死に至らしめ、死因に関係無く首吊り死体に変えてしまうのがキサマのやり口のようだな」
守ろうとした少女が絶命したにも関わらず、男は残酷なまでに冷静沈着だ。
落ち込む意味などない。
護りきれなかったのならば、弔いのための敵討ちとして確実に仕留める。
そのためには、とにかく非情に徹するのみ。
──ガァッ?
八咫烏は微かに怯んだ。
(おかしい、先程までは確かに暗示が効いていたはず。なのに何故平然としていられる)
暗示が浅かったのだろうかと訝しんだ黒鳥は、より強い暗示を試みた。
──クーチャンダヨアソビマショ、ブランコデアソビマショ
呪言が、首の動きが、加速する。
最早周囲の死体は先程の少女を含め、互いにぶつかり合う程に大きく、激しく揺れ続けている。
中には腐敗によって首が耐えられらなくなり、頭と胴体が遠心力で切り離される者も出始めた。
「もう止めろ、不愉快だ」
途端、男から凄烈な気配が放たれる。
暗示はもう、通用しない。
「処刑開始」
オーバーコートの内側に男の手が差し込まれる。
そして引き抜かれた手には、9.6インチの黒い大型拳銃。
──クーチャンダヨクーチャンダヨクーチャンダヨクーチャンダッガァア!
刹那、興奮して羽ばたき始めた八咫烏の片翼が、高密度に圧縮されて放たれた虚数の弾丸によって千切れ飛ぶ。
「おい鳥頭、これからキサマが敗北する理由を教えといてやる。一つは人間様を侮辱し過ぎたこと」
一歩踏み出して、より明確な殺意と共に銃口を合わせる。
だが八咫烏は、足掻くのを止めない。
──クーチャンハネー、オシャベリダヨー タックサン、ヨロシクネー
一斉に男を鬼の形相で見つめる、千切れ落ちた生首の数々。そして男の脳内に直接響き出す聲。
──取れる、貴方は取れるわ。昔から捻るのが好きだったでしょう?
──そうだとも、昨日も取れていたんだから、今日はもっと楽に取れる。
──いつだって自由に、楽しく、笑いながら。
──だから早く取らなくちゃ! もちろん、
──頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を頭を
「邪視を使っても無駄だ」
百発百中。無造作に放った複数の虚数による弾丸が、刹那の内に生首を撃ち砕く。
「さて、もう一つの敗因だがな。それは俺という虚数使いを相手にした事だ」
不吉の怪鳥とて馬鹿では無い。この鳥は今、人の形をした深淵を覗いているのだと自覚し始める。
「俺は、この実数世界に危害を及ぼす虚数の獣が気に入らない。故に叛真定紡の名において告げよう。俺は、お前の存在を認めない」
男──叛真定紡は今、呪言を発した。
其れは八咫烏が用いた生半可な洗脳では無く、世界の理に刻み込まれる程の絶対的な宣言。
即ち、この村一つをたった一羽で滅ぼした三つ脚の黒鳥は、この男に勝つ事が完全に不可能となったのだ。
──クーチャンハシル ヨイショ、コラショ
踵を返し、残った片翼をばたつかせてパタパタ駆ける八咫烏。
これまでのふてぶてしさは失われ、よろめきながらも地を征くその姿からは、最早憐れみしか感じられない。
「……見るに耐えん。そろそろ永眠れ」
尚も生き延びようと足掻く鳥に向かって静かに吐き捨てると、定紡は冷酷に引き金を絞った。
✧ ✧ ✧
どうも、無気力ナスビです。
後書きでは、人によっては、理解が難しそうな用語を軽く解説したり、コメントに反応していこうかと思います。
コングロマリット:技術的にも、市場的にも、お互い関連性のない事業から形成された、複合企業のこと。
その中でも、特に巨大なグループ会社の事を、一般的に『コングロマリット』と呼ぶ。
では、また次回もよろしくお願いします。