act2ーSecond
どうも、無気力ナスビです。
前回よりも、少し長めですが、続きを楽しんでいって下さい(^^)
8月6日、土曜の昼下がり。
麗かな朝日を光源に、読書を嗜む穏やかな時間。
同世代の若者がアニメや漫画を手に取る中、創作物を楽しむという点において、音宮琴海は活字を好む。
外に干した洗濯物が風に揺られ、流れるように薄い影のコントラストを文字列の上に創り出す。
それ等は映像となって脳内で再生され、特別な世界を疑似体験させてくれる。
琴海はこの本が好きだった。
何もかも欠落していた主人公が、様々な出会いの中で本来の自分を取り戻していく物語。
何度読んでも飽きることがなく、気付けば感情移入してしまっている自分がいる。
──キンコーン
「琴海ー!」
そんな至福の一時は、突然の来訪者によって終わりを迎えた。
本を置き、インターホン越しに確認すると、高橋楓の姿が映し出されている。
「はーい」
短く応えて玄関を開けると、楓はキャップを被り、ショルダーバッグを肩に掛けた姿で立っていた。
「急にどうしたの?」
「天気も良いし、こんな日は外へ遊びに行こうぜ!」
屈託のない笑みを浮かべて、楓は笑う。
唐突に遊びに誘ってくることはよくあることだし、琴海もそれに慣れていた。
察するに留守番をすることになった琴海に対して、彼女なりに気を利かしてのことなのだろう。
「いいわよ。何処へ行くの?」
琴海は心の中で感謝しつつ、その誘いに乗ることにした。
「市民公園とかどうよ? 久々にキャッチボールでもやらねーか」
「キャッチボール? いいけど、何歳になっても変わらないわね」
昔からのその誘い文句に、琴海はクスッと笑って返す。
「わっ、笑うんじゃねーよ! いいじゃんか好きなんだからー」
外の暑さからか、それとも恥ずかしさからなのか、楓は顔を真っ赤にしてふてくされる。
「ふふっ、わかってるわよ。支度するから、その間上がって待ってて」
琴海は楓を中に入れ、自分は動きやすい服装に着替えるため、自室へと上がっていった。
楓は居間の最奥にある仏壇に目を向ける。
そこに置かれた写真には、少し大人びた感じの青年が微笑んでいた。
遺影に映るその姿は懐かしくて、それでいて少し物悲しくもあって──。
「あれからもう12年か…」
畳を踏みしめ、仏壇の前で腰を降ろす。
かつては琴海にも、公務員務めの優しい父がいた。
とても明るくて、それでいて芯のある人だったと楓は記憶している。
あの頃は琴海も活発で、休みの日にはよく三人で遊びに出かけていたものだった。
しかし琴海が7歳の頃、不幸は突然に。
父娘二人で遊びに向かう道中で不慮の事故に遭い、そのまま帰らぬ人となってしまった。
「そういや、あの頃からだったかな」
その日から数カ月の間、琴海は完全に表情を消した。何に対しても無気力で、関心を持たなくなった。
その後は色々あって、何とか人並みの感性を取り戻してはいるものの、時折何処か達観してしまっている気がして、そんな親友の危うさを楓は憂うこともあった。
「ボールとグローブは持ってきた?」
髪を後ろに結び、身支度を終えた琴海が声をかける。
「グローブはいらないよ。これで遊ぶから」
楓はショルダーバッグからボールのオモチャを取り出し、振り向いて見せた。
琴海はそれに頷いて理解を示すと、二人の話に入ろうと仏間に入り、腰を下ろす。
「それで、お父さんと何話してたの?」
「あぁ、ちょっと挨拶をな」
「そう──…」
琴海は遠い眼で遺影を眺め、そして微笑みを浮かべて手を合わせた。
「行ってきます。お父さん」
✧ ✧ ✧
翌日、琴海は遅い朝食を取っていた。
昨日は楓に散々付き合わされ、帰ったときにはクタクタだった。
(まさかキャッチボールの後に、テーマパークへ連れて行かれるなんて思ってなかったなぁ)
当日券を買っていたことから、恐らく唐突に思いついたのだろう。
地元に根付いた小さなテーマパークとはいえ、夏休みシーズンということもあり、人も多かった。
別の場所を提案したのだが、楓は頑として聴き入れず、結局日が傾き始めるまで遊び回った。
(まぁ、楽しかったからいいんだけどね)
新しく出来たばかりの思い出を振り返りながら頬を緩ませていると、突然インターホンが鳴り響く。
また楓が来たのかと思い、食器を片付けてからドアを開けると、外には三人の警官と背広姿の刑事と思われる男が立っていた。
彼らの背後には一台のパトカーが見受けられ、ただ事ではない状況を感じ取る。
「突然すみません。音宮鈴音さんのお嬢様の音宮琴海さんで間違いありませんか?」
「はい、そうですが…何かありました?」
刑事と思われる男は少し間を置き、口を開く。
「貴方のお母様についてご確認して頂きたいものがありますので、署までご同行願えませんか?」
その言葉を聞いて、琴海は頭から血の気が引くのを感じた。
「あの、お母さんに何かあったんですか!?」
「それを確認するためにも、来て頂きたいのです」
その言葉を聞いて、琴海は逸る気持ちでパトカーに乗り込む。
後に続く形で二人の警官が琴海の両隣に座り、もう一人は運転席、最後に背広姿の刑事風の男が助手席に乗り込んだ。
走り出して暫く経つと、琴海は違和感を覚える。
警察署への道はとっくに通り過ぎたが、引き返す素振りも、停車する素振りもない。
「あの、警察署へ行くんじゃないんですか?」
そう聞くと、左脇腹に何か硬いものが押し付けられた。
直ぐにはそれを判別出来なかったが、やがてそれが何かを理解すると、琴海はサッと青ざめる。
「大人しくしていろ」
その言葉が合図だったのか、恐怖で動けない琴海に対し、右隣に座る警官が無理矢理猿轡を取り付ける。
突然訪れた恐怖。抵抗する事はおろか、声も出せない。
助手席に座る刑事風の男は、そんな彼女へ釘を差すかの様に睨め付けた。
「抵抗しなければ、こちらも傷つけはしない」
時間にしてどれ位経っただろうか。
数時間か、或いはほんの数十分だったのかもしれない。
暫く走ると停車し、琴海はパトカーから降ろされ、目隠しと猿轡を外される。
鼻を突く草木の香り、眼前に広がる仄暗い自然。
曇天の下、到着したのは深い森の中だった。
刑事風の男が先導し、三人の警官は琴海の両側に一人ずつ、そして後ろからは警官が銃口を向け、そのまま進むように命じる。
昼過ぎだと言うのに、森は薄暗い。
この先に何があるのか、自分はどうなってしまうのか。
奥へ進むほど、その恐怖は増していく。
「あの、私をどこへ連れて行くつもりですか?」
疑問が、口を衝いて出た。
少しでも恐怖心を紛らわすためか、これから我が身に起こる事を知ることで覚悟を決めるためなのかは分からない。
しかし、聞かずにはいられなかった。
「それを知って何になる? いいから黙って歩け」
しかし不安気な彼女に返って来るのは、あまりにも無情で冷徹な言葉。
琴海は目を伏せ、黙って従う。
暫く歩くと山をくり抜いて造られたと見られる、コンクリート建材のトンネルが姿を現す。
真夏にも関わらず、中から漂う冷気が異様な程肌寒い。
もう使われていないのか、あちこちに経年劣化の痕跡が見られ、電気も通っている様子はなかった。
異様さを漂わせる闇を孕んだその大穴は、それだけで琴海の足を竦ませるには十分だった。
「行け」
しかし無情にも背後の警官は彼女の背中を押し、琴海は仕方なくトンネルに足を恐る恐る踏み入れる。
──ピチョン、ピチョン
地下水が浸透してきているのか、辺りに滴の音が鳴り響く。
孤独に溢れたその音は、恐怖に押し潰される琴海をより物悲しく感じさせた。
最奥に辿り着くと、金属製の巨大な扉が姿を現す。
刑事風の男は扉の前で立ち止まり、袖を捲ると、蒼く光る腕輪をその脇にあるパネルに近付けた。
『隔壁を解除します。下がってお待ち下さい』
機械的なアナウンスと共に重厚な扉がゆっくりと上がり、その中に入って行く。
隔壁を潜った向こう側には広大な空間が広がり、周囲には乱雑に置かれた貨物用のコンテナが散見される。
そして奥の方には、大型トラックが2台は入りそうな鉄柵に囲まれた空間が存在し、その最先端にはレバーの付いた台座が鎮座していた。
「ほら進め」
背後から促されるまま、琴海は仕方なく異様な空間に足を踏み入れ、その最奥へと向かう。
前を歩いていた刑事風の男は、琴海と警官姿の男達が鉄柵の内側に入ったのを確認すると、台座のレバーを降ろした。
──ゴゴゥン
僅かな振動の後、鉄柵で囲まれた空間がゆっくりと降下を始める。
時間にして僅か数十秒だろうか。
暫く降下した後、琴海は突然眼前に広がった光景に思わず息を呑み込む。
そこには、巨大な研究施設と思われる空間が広がっていた。
✧ ✧ ✧
その頃、同研究所内にある支部長室にて。
「どういうことか説明してもらおうか……紫藤龍之介よ」
緊迫した空気が満ちていた。
八鍬秀雄の睨んだ先、机を挟んだ向こう側で紫藤は冷や汗を流す。
「何の……ことでしょうか……」
「とぼけるなよキサマァ!!」
怒声と共に凄まじい気迫が膨れ上がり、バンッと手にした資料を机に叩き付けて愛刀の白狼を抜く。
紫藤だけでなく、例え大の男が相手だったとしてもこの老人の覇気を受けた者は震え上がり、縮み上がるだろう。
それ程までの凄まじい怒り。
「わしの支部は人手が足りん。はるばるイギリスから応援に来てくれた事には感謝しよう、しかしだな」
敵意を込めた視線を叩き付け、紫藤の喉元に刃を押し付ける。
首元に滲む赤は、それが警告の類では無い事を表していた。
「貴様が赴任した日から全ての実験体に異常が起き、尚且つ緩やかに研究員の数が減っておる。わしが気付かぬとでも思うたか?」
その言葉に、紫藤は俯く。
完璧だと、上手くやれたと思い込んでいた。
ダイモンドに所属する重鎮の中で、唯一紫藤の信仰する教祖の邪魔をしてくる男、八鍬秀雄。
彼の派閥をダイモンドから抹殺し、関東支部を乗っ取るのが紫藤に課せられた任務。
だがあと一歩の所で気付かれてしまうとは、予想外ではあった。
今ここで殺されるのは、恐くない。
例え死んだとしても、【保険】を用意してある。
しかし何よりも無念なのは、教祖の役に立てなかったこと。
それを想うだけで、悔しさと申し訳無さで狂い果ててしまいそうになる。
「チク……ショ……ウ」
口から漏れ出た、小さな呻き。
秀雄はそれを聞き逃さない。
「最後の言葉はそれで良いのだな。ならば死ねぃ!」
首に当てた白狼を思い切り引こうと力が込められたその時だった。
──ピルルルルルッ、ピルルルルルッ
突然机に置いてある通信機が鳴り響く。
「取り込み中だ! 後にしろ!」
『申し訳ありません。ですが、この付近を嗅ぎまわっている男を発見しました。いかが致しましょう?』
不可解な被検体の増量、実験体が示す異常な数値、そして奇妙なタイミングで現れた謎の男の存在。
(コイツの手の者だとすれば、悪戯に部下を向かわせるのは愚策。ならば──)
「わしが直接出向こう。それと例の廃墟に【1835J】も配置しておけ」
『承知致しました』
忌々しそうに通話を切った秀雄は大きく息を吐くと、冷淡な眼差しを紫藤に向ける。
「何か企んでいるようじゃが、無駄であると知れ」
そう吐き捨てて、秀雄は部屋を後にした。
「ク……クフフ……クハハハッ」
少しの静寂の後、紫藤の貌が狂喜に歪む。
天井へ腕を広げ、ドス黒い雰囲気を纏って。
「ハハハハッ、アハハハハハ!」
哄笑高らかに。
一人になった部屋の中、深めた笑みを貼り付けて。
「来た、彼が来た! 如何に奴が強くとも、彼には勝てない!」
そう、紫藤は自身の計画が失敗した時のために、この世で最強の処刑人に依頼を送っていた。
彼が動き出したとするならば、もう表舞台に立つことは叶わないだろう。
「あぁ……だが、それで構わない。例え私がどんな目に逢おうとも、我が主の御心に叶うのであれば、それで……」
その時、紫藤の携帯が振動し始めた。
画面の表示を見てニヤリと笑い、耳に当てる。
「紫藤です」
『音宮琴海を連れて来ました。部屋は予定通りで?』
「えぇ、直ぐにお通ししなさい」
そう言うと通話を切って。
「やっと……やっと手に入れましたよ。これで成功すれば、我が主にお褒め頂けるっ!」
恍惚とした笑みを湛えて歓喜した後、紫藤は支部長室を後にした。
「八鍬も愚かな男です。私を警戒する余り、自ら死へと赴くとは」
✧ ✧ ✧
場面は変わり、関東北部に位置する山。
その麓に建てられた古い病院。
表向きは廃墟となっているが、実際はダイモンドの職員が地下に広がる研究施設に出入りするための隠れ蓑として設定されている場所だ。
たまに街の若者が肝試し気分で入り込むが、他の心霊スポット同様、壁に落書きをするか周りを荒らして帰る者がいる。
そのお陰か、隠し通路の偽装はより完璧なものに仕上がっていた。
そんな廃病院から市街地を挟んだ先にある丘の上、木々が影を落とす草むらの中。
そこから廃墟となった病院の四階右端、元院長室と思われる一際立派な部屋を狙う男、叛真定紡。
カムフラージュのため、自身の装備と構えたDNE・SNカスタムに土を被せ、目立たないように偽装を施している。
彼が狙うその部屋は現在でも使われている様に見え、事前に入手した情報や近隣住民の噂により、秀雄が何度もその部屋を利用しているのは明白だった。
廃病院との距離は、約630メートル。
その間に草木や建物等の遮蔽物があり、こちら側からは数ミリ単位でしか的が見えない。
但し、それは裏を返せば相手に見つからず、こちら側からの狙い撃ちが容易であるということ。
程なくして、八鍬秀雄がその部屋に姿を表す。
焦らず、冷静に絶好の機会を伺う。
秀雄は小さめの黒いソファーに腰掛け、煙草をくゆらせ始めた。
頭部に焦点を合わせ、秀雄の吸っている煙草の煙と、自身の周りにある木々のざわめきから、二人の間を流れる空気の動きを読む。
弾が確実に当たるタイミングを見計らい、息を止め、全身に力を入れて引き金を引く。
──バスッ
サプレッサーのお陰で、銃声はかなり抑えられた。
反動で僅かに外れた視界を戻し、確認する。
秀雄は生きていた。
窓が防弾性ではない事は、着弾した衝撃で割れている事からも見て取れる。
秀雄は抜刀した白狼を、頭上に掲げていた。
今度は胴体に向けて照準をずらし、引き金を引く。
草木の僅かな隙間を通過し、住宅街の上空を飛び越え、割れた廃病院の窓枠を越えた弾は、確かに秀雄に対して命中はしていても、おかしくはなかった。
だが秀雄は白狼を使い、弾が刀身に当たる瞬間に角度を僅かに傾ける事によって、軌道をずらして躱していた。
攻撃が防がれたという事は、恐らく既に居場所は勘づかれている。
しかし初撃から防がれたということは、他の場所に移動したとしても結果は同じであろう。
より確実な方法も無くはないが、それを実行すれば定紡の信条に反する事となる。
故に使うとするなら、あくまで最終手段。
悩みながらスコープを覗いていると、秀雄がこちらに視線を向け、口を動かしている。
定紡は読唇術でその意味を読み取った。
『チャンスをやろう、ここまで来い』
明らかな罠。
絶対に相手を殺せるという自信があるからこその、余裕に満ちた挑発。
本来ならば受ける道理は無いが、この機を逃せば次は無いかもしれない。
定紡は、誘いに乗ることにした。
✧ ✧ ✧
地下研究所内部にて。
三人の男に連れられた琴海はロビーを抜け、実験施設に足を踏み入れていた。
周りでは沢山の研究員達が行き交い、何かの資料を読み込んだり、実験室の様な部屋から恐ろしい見た目の異形を観察したりしている。
通路の両脇には、ホルマリン漬けのケースに入れられた大小様々の化物や、体の一部が変異して苦悶の顔を浮かべる人達の姿。
それらを見て、身も凍るような恐ろしさのあまり、涙が滲む。
「連れて来ました」
男達が止まった。どうやら目的地に到着したらしい。
目の前には白い壁の部屋が広がっている。
室内には大小様々な機械がズラリと壁際に設置され、部屋の中央には簡素なベッドが置いてある。
そのベッドの前にはにこやかな笑みを浮かべて立つ、冷たい目つきをした白衣の男性。
「始めまして音宮琴海様、私は紫藤龍之介と申します。あなたの事は、お母様からよく聞き及んでおりましたよ」
紫藤の発したその言葉に、琴海は思わず目を見開く。
「今……何て……?」
鼓動が早まる。
玉の汗が浮かび、頬を撫でる。
初めて味わう感覚だった。
すぐ側まで迫り来る、更なる恐怖の予感。
これが、戦慄。
「あなたのお母様と私は一緒に働いていましてねぇ。その際に何度かあなたのお話を聞いていたのでよく存じていますよぉ」
「……馬鹿にしないで下さい、お母さんはダイモンド社の社員です! こんな怪しげな研究所でなんか──」
そこまで言いかけて、琴海の頭に嫌な考えが浮かぶ。
「そんな……もしかして……」
恐る恐る紫藤を見上げると──。
「ご名答! ここは我がダイモンド社が保有する、秘密の研究所です」
紫藤はパチパチと手を叩きながら微笑む。
「さぁ、始めましょうか」
「嫌っ、放してください!」
貼り付けた笑顔をそのままに紫藤の気配がドス黒く変質し、嫌がる琴海を無視して腕を強引に掴む。
「貴方には、新人類への進化を手助けしてもらいましょう」
紫藤の言葉が合図だったのか、三人組の男は力づくで琴海を拘束。
必死に抵抗するが、これまで争いとは無縁の生活を送ってきた彼女の力ではどうすることもできない。
琴海はベッドの上に拘束され、手足をベルト状の拘束具で縛りつけられた。
「放してっ、お願い!」
必死にもがいていると、紫藤が鼻歌交じりに、ステンレス製の注射器を取り出す。
その中に視える、淡い桃色に光る水溶液。
「い……一体何を……」
恐怖のあまり全身に鳥肌が立つ。
あの液体を注入されたらどうなるのか。
もしかすると、自分もあの怪物の様にされてしまうのかと。
「何をするつもりかって?」
嘲る様に返しながら、紫藤は琴海の首元に針を突き立てた。
「あっ──!」
苦痛に身をよじる琴海を押さえつけ、ゆっくりと注入しながら耳元に口を近付ける。
「あなたはこの私の手で生まれ変わるのです」
凶悪な笑みを浮かべながら離れていく紫藤。
それは謎の薬液が全て体内に入ってしまったことを意味し、絶望が彼女を支配した。
「あ…そんな……」
その瞬間、彼女の全身に激痛が走る。
衝撃と振動。
身が引き裂かれるかと思う程に。
「────────!!」
バチバチとした断続的な痛みが全身を駆け巡り、それはより一層激しさを増す。
逃れる事の叶わない苦痛を前に、琴海の意識は遠退いて行った。
✧ ✧ ✧
鼠色の空から雫が地表を叩き始める頃、定紡は最大限に警戒しつつ、廃墟のロビーに入り込んでいた。
既にDNEのカスタムパーツは取り外しており、小回りが利く拳銃仕様に換装している。
中はかなり荒れている様子で、それがこの場を訪れた不良によるものか、それとも別の要因によるものかは定かではない。
ロビーは通常の病院よりもかなり広めな造りで、最上階までが吹き抜けとなっている。
吹き抜けの先にあるステンドグラスの屋根は、定紡が狙う男の頭上へと七色の光芒を降り注いでいた。
「待っていたぞ、客人よ」
荘厳な造りのロビーの中、刀を手に佇む翁が一人。
常人であれば、彼が纏う鋭利な殺気だけで恐怖し、逃げ出していたに違いない。
「そいつは光栄だな」
しかし定紡はそんな男を前に臆することなく、淡々とした態度で応じる。
「復讐に来たのかな? それとも誰かに頼まれたか」
秀雄は愛刀である白狼を構え、ほくそ笑む。
その貌に浮かぶは強者としての余裕か、それとも敵対する相手への憐憫か。
「銃を持つ相手に刀一本で挑むなんて、随分と余裕そうだが」
定紡はその言葉に応じることなく、冷ややかな視線で白衣の刀剣使いを見た。
「ならば試してみるかの?」
秀雄がそう言った瞬間、定紡は動いていた。
床を滑るように黒の外套が奔り、背後を取ると銃口から弾丸が放たれる。
だが、受け流された。
間髪入れずに二発。
秀雄はそれらも受け流し、電光石火の如く刃を斬り上げる。
定紡は身体の角度をずらして左に避け、そのまま距離を取りつつ敵の背後に回る。引き金を引き続けて。
秀雄は弾幕を防ぎきると、疾風の如き踏み込みで接近し、放たれた一閃が銃士の首に迫る。
──ギンッ
定紡は辛うじて銃身で受け止めるが、あまりにも重い一撃。
僅かでも気を抜けば、押し切られそうな程に。
「不思議かな? 何故反応しきれる上に、刀も折れぬのか」
更に白狼に力を込めながら、秀雄は敵意を秘めた笑みを浮かべた。
定紡は刀身にDNEを押し付けたまま発砲し、その反動に自身の力を加えて白狼を弾くと、秀雄を蹴り飛ばして後方へ跳躍する。
「冥土の土産に教えてやろう、この世界に隠された真実を」
白衣を整えた秀雄は煙草を取り出してそれを咥え、胸のポケットからライターを取り出す。
「わしの髪はな、別に年老いているから白髪というわけではない」
そう言って旨そうに煙を吸い、満足気に吐き出して、続けた。
「超能力者になった後遺症なのじゃよ。この能力を知る者の間では、【ゼノ・スフィア】と呼ばれておる。そして人為的に能力者にされた儂等は、【サバイバー】と名乗っているのじゃ」
✧ ✧ ✧
【サバイバー】。それは、我々ダイモンドが真の悲願を達成するために創り出す、人工の能力者。
その方法は様々だが、被験者からすれば総じて過酷であると言えよう。
大半の場合は死に至り、生き残ったとしても肉体が負荷に耐え切れず変異してしまい、この世成らざる怪物に変わり果てる。
それ等はArtifical Biolojical Wepon(通称ABW)と呼ばれ、生物兵器として各国へ秘密裏に売られている。
【サバイバー】の語源は、その成功率の低さ故のものではあるのだろう。
彼等の特徴として、染色体異常による体毛や虹彩の後遺症が挙げられる。
それ等は総じて皆、通常ではあり得ない色の体毛と眼を持つ。
そして、それぞれのゼノ・スフィアには強力な物が多い。
〈とある一族の手記より一部抜粋〉
✧ ✧ ✧
定紡は銃身を開き、弾倉を切り替えて口を開く。
「まるで自分達だけが特別だと言いたげだな」
「特別なのじゃよ」
秀雄は白狼を掲げ、そのまま刀身を肩に預けて嗤う。
「お前はただの人間。そしてわしは、サバイバー」
秀夫は絶対的な死の気配を漂わせつつも、緩やかな足取りで迫る。
怪しく輝く白狼は、警戒する銃士の姿を写し出していた。
「わしのゼノ・スフィアは【神認眼】。自身に危害を与える出来事が危険である程、それらは鈍化する」
定紡の間近まで近付いた秀雄は首を僅かに傾け、見下して続けた。
「例え貴様が何者じゃろうと、わしが遅れを取るわけが無かろう?」
「どうかな」
そう言うと定紡は素早くDNEを低く構え、速射。
至近距離からの、回避が不可能な筈の連射。
しかし、秀雄はそれ等を全て見切ると余裕の笑みを湛えて躱し、即座に反撃。
その様子を他の人が見ていたのなら、何が起こったのかすら分からない程の、一瞬の出来事だっただろう。
秀雄の反撃を紙一重で躱した定紡はその瞬間、煙のように闇の中へ姿を消す。
ゾワリ、と秀雄を悪寒が襲った。
(こやつ…さては普通の人間では無いな)
気配も姿も、完全に闇に溶け込んで掻き消えている。
秀雄の経験からして、ここまで気配を完璧に遮断するのは、如何なる訓練を積んだとしても常人であれば、ほぼ不可能。
(考えを改めねばならんようじゃな。あの男を相手取るには、こちらも本気で迎え撃つ必要がある)
✧ ✧ ✧
ゼノ・スフィアを扱う能力者とそうでない者には明確な違いがある。
科学という力を手にしてから数百年に渡り、我々人類は自然界という掟を幾度となく克服してきた。
だがしかし、町ひとつを焼き尽くす現代兵器にさえ、彼等は後れを取らない。
本来ならば科学者程度が成し得るはずもない、奇跡を自在に行使してみせる者達の総称、最強無比の存在。
その力は強大であり、異質だ。
多くの場合は死を克服した者に、僅かな確率で宿る現象であり、その能力を手にした者は【ネイチャー】と呼称される。
先述した【サバイバー】は、彼等を手本としているため、如何にその能力が発現しようと科学を元に造られた存在である彼等では、根本からして【ネイチャー】に敵う程の能力は到底持ち得ない。
とはいえ、そのどちらも強大なことに変わりはない。
科学の理も、自然界の摂理も彼等の前では意味を為さない。
人の肉体を有していても、それを遥かに超える強靭さと破壊力を秘めて、能力者は思うがままに生を謳歌する。
だが、他の存在と同様に彼等もまた万能ではない。
人の肉体を持って存在を成し、同じく肉体によって活動する彼等は、食事によるエネルギーの摂取が必要不可欠である。
また他の身体の部位を使用するのと同様に、頭脳を司令塔として行使するため、その強大さのあまりにどれだけ修練を積んだとしても、行使できる範囲は精々全体の10%が限度である。
それでも尚、物理法則さえも殺してみせる現象を成せることには変わりはない。
能力者としては最弱に位置する者でさえ、到底人類が敵う相手ではないだろう。
現代兵器を豊富に揃えた軍隊であっても、能力者と相対すれば死あるのみ。
ゆめ忘れるな。
どう足掻いたとしても、人間は能力者を斃すことは出来ないと。
〈とある一族の手記より一部抜粋〉
✧ ✧ ✧
琴海の連れられた実験場。
この時、この場に於いて、世界を揺るがしかねない程の奇跡が生まれ落ちようとしていた。
「今度こそ、成功するんでしょうか」
意識を失っても尚痙攣する琴海を眺めながら、刑事風の男は隣でタバコを吹かす紫藤に疑問を投げかける。
「まだ何とも言えませんね。あの音宮鈴音の庇護下にあった娘ならば、今回投与する新型細菌薬によって覚醒する可能性は高まるでしょう」
「そうなればまた紫藤さんの株が上がって、ダイモンド社の中での地位が上がると?」
刑事風の男の返答を聴いた瞬間、紫藤の拳がその顔面に飛ぶ。
突然のことに狼狽する男達に向け、紫藤は懐に仕舞っていた小型の銃を取り出した。
「なっ何を!?」
「私は我が主様のために行動しているのです。次に浅慮なことを口走れば、容赦はしませんよ」
「紫藤さん…今の発言は、ここのボスである八鍬さんを裏切るということになりますよ!」
「裏切る? その言葉は相手が存命ならば適しているのでしょうが──」
そこで言葉を切り、細い笑みを浮かべた。
その時点で男達は紫藤が元から裏切っていた事を認識し、その表情を険しい物にする。
張り詰めた空気が支配する状況下で、突然壮大な音が響いた。
全員が思わず視線を向けると、さっきまで苦悶の表情を浮かべて苦しんでいた琴海がカッと目を見開き、音はその口から放たれていた。
「成功…ですかね」
✧ ✧ ✧
静寂が支配する、闇夜の廃墟。
だがこの時だけは、二人の戦場として激しい破壊の音が響いていた。
蠢く影が、闇の中を縦横無尽に駆け巡る。
風の動き、反響する僅かな音。
身体全体で周囲の状況を感じ取る。
様々な怪物や超人を屠るため、定紡は特殊な訓練と実戦を積んできた。
それにより鍛え上げられた、鋭敏な知覚能力。
彼が繰り出す完全なる闇からの奇襲による連撃は、視覚に頼る存在にとっては脅威ではあるだろう。
しかし防戦一方であるはずの秀雄もまた、そんな窮地の中で勝機を見出す。
定紡が姿を消した際、秀雄は既に特殊なフェロモンが入った小瓶を取り出していた。
そして蓋を指で弾くと、攻撃を防ぐのと合わせて周囲にばら撒く。
前方から迫る弾丸。
秀雄が首を傾けて躱したその刹那、既に後方へ回り込んでいた定紡が、螺旋状に捻じ曲がった短刀を突き立てんと迫る。
最早避ける事は叶わない絶体絶命の窮地。
そんな状況下に於いて、作戦勝ちとばかりに秀雄は口角を吊り上げた。
全体重が乗った刃の切っ先は、確実に秀雄を捉えていてもおかしくはない。
故にその瞬間に起きた光景は、定紡の反応を僅かに鈍らせた。
通常では有り得ない動き、有り得ない速度で秀雄の身体が舞い上がる。
定紡は視界の隅に、秀雄の背中に貼り付く肉々しい紐の様な何かを捉えていた。
攻撃が反れたことで崩れたバランスを瞬時に立て直し、秀雄の姿を追うようにして視線を向ける。
その視線の先、二階と三階にある割れた窓辺が囲う、吹き抜けとなった空間。
中央に位置するステンレス製の天井は、暗いコントラストを異形の存在に堕とす。
巨大な蜘蛛のような不気味な姿。
毒々しい棘に覆われた外殻を有し、穴だらけで腐臭を放つ剥き出しの腹部からは、内部から羽虫が次々と姿を現す。
体長は数メートル。
割れた窓辺に掛けた4対の脚を入れれば、その倍はあるだろうか。
「わしが何の策も無しに誘い込むと思うたか? キサマには蟲の餌がお似合いよ!」
秀雄の声が響き、異形の背から白衣が見下ろす。
自らが戦場の支配者とでも言うように、悠然と怪物を足場にして。
正確無比な狙いで、定紡は人影に引き金を引く。
しかし放たれた弾は、秀雄が僅か半歩ほど身を引いたことで、大蜘蛛の外殻に当たって明後日の方向へ弾かれた。
「丹精込めて開発した我が製品を無視するとは、作法がなっとらんぞ」
鋭利な背棘を片手に、秀雄は呵々笑う。
「どうやら、相当な自身があるみたいだな」
静かに、定紡が口を開く。
その貌には恐怖どころか、より一層冷酷な殺意が色濃く表れていた。
「無論。キサマはどうだ、暗殺者」
「答えるまでもない」
秀雄の挑戦に、定紡は弾倉を切り替えて応える。
「確かに、愚問であったな」
翁が笑みを深めて告げる。
言葉を続けながら、大迎に両腕を広げて。
「良かろう。強敵を打ち破り、天を越えてみせよ! その果てで、わしは待ち受ける」
高笑いを残し、秀雄は蜘蛛の脚を伝って三階へと身を翻すと、その奥へと姿を消す。
定紡はその研ぎ澄まされた感覚から、秀雄が屋上へ向かうのを認識していた。
「手間を増やしてくれる」
定紡は面倒くさそうに舌を打ち、後方へ跳び退る。
その直後、先程まで定紡の立っていた場所には重力に従って大蜘蛛が降り立ち、牙を剥き出した。
未知の敵を警戒し、定紡はDNEを構えて対ABW戦に意識を切り替える。
大蜘蛛は時折立ち止まって腐臭を放つ腹部を震わせるが、その他には単調な動きで飛び掛かって来た。
充分に距離を取って数発撃ち込んでは見るものの、鋭利な外殻がそれを受け付けない。
唯一柔らかいと思われる腹部を狙うが、有効なダメージを与えられているとは思えなかった。
その手応えを例えるならば、石を投げ込まれる泥。
ふと気付くと、辺りは耳障りな羽音で満ちていた。
視線だけを送り状況を確認すると、大蜘蛛へ視線を戻す。
「厄介だな」
周囲には、先程大蜘蛛の腹から湧いて出た、大人の手の平程もある巨大な緑色の蜂が定紡を取り囲んでいた。
✧ ✧ ✧
人造生体兵器、通称ABW。
先述の通り、これ等は実験の失敗作として生まれた理性無き怪異である。
【サバイバー】の出来損ないではあるものの、その特異性、最低限の有用性、製造方法の確実性が考慮され、各国の様々な機関、犯罪組織への極秘兵器として暗に取引されている。
だがその存在は、表の世界を生きる者達であれば、決して知り得る事は無いだろう。
仮に情報が出回ったとしても、それ等は都市伝説や誤情報として扱われる。
ダイモンドの権力による、情報操作によって。
中でも【ABW1835J:堅牢なる女王】は、基地防衛に優れた能力を持つABWの一つである。
人の体に、特殊な植物の花粉を餌とする蜂の毒と、同植物の花粉により媒介したバクテリアの分泌物を使用する事で、その製法は確立された。
蜘蛛にも似た姿をしたそのABWは、指定の建造物に肉の触手を張り巡らせることで自身の縄張りとしている。
堅牢なる女王はその外皮によって、衝撃に対する高い耐久性を持つ。
それにより、堅牢なる女王を想定しなかった際のあらゆる抵抗は、無駄に終わる事が多い。
標的が自身のテリトリー内に入った場合、自身の腐蝕した腹の中に住まわせた特殊な蜂…ここでは【1835J-a】としておく。
この1835J-aを放って攻撃させ、獲物が毒で弱ると口内から肉の触手を吐き出して体内へ引きずり込み、ゆっくりと生きたまま消化する。
その消化された対象は、堅牢なる女王の腹の一部となる訳なのだが……。
但し、此れを使役することは可能と考えられる。
堅牢なる女王は1835J-aとフェロモンを通じてやり取りをしていることが判明している。
よって1835J-aのフェロモンを分析、採取し、上手く利用すれば或いは……。
〈とある一族の手記より一部抜粋〉
✧ ✧ ✧
──ゆめのなか。
走馬灯が脳裏を懸け巡る。
浮かんでは消えていく、様々な思い出。
程なくして見覚えのある風景が目に入って、その中に意識が潜り込んでいく。
そこは、小さい頃によく連れられていた水族館。
屈託の無い笑顔でお父さんの手を引く幼少期の自分と、二人の様子を微笑ましそうに見つめるお母さんの姿。
とても輝きに満ちて、幸せに満ちたかつての時間。
二度と戻ることは無い、大切な想い出。
懐かしんでいると、風景が塗り替えられる形で場面が切り替わり、自宅の居間が写る。
そこでは、感情が壊れかけて呆けてしまっている私を傍らに、お父さんの遺影の前で咽び泣く母の姿。
「安心してくださいね、あなた………琴海は…私が必ず………守りますからっ──」
お母さんの眼から涙が溢れ出す。
それでも決意の光は、その瞳の中で強い輝きを灯している。
今にして思う、この頃からだったと。
当時は死という概念が受け入れられず、無心であらゆる知識を詰め込み始めた。
いつか溜め込み続けたあらゆる情報が、心に空いた穴を埋めてくれると信じて。
ふとした時にお父さんの顔を思い出してしまうのが怖くて、誰かと話していると現実に直面してしまいそうなのが嫌でたまらなかった。
だから私は遊ぶ事にも臆病になって、誰とも関わらなくなって──。
そうなれば誰も私に寄り付かなくなって、周りとも孤立するのは必然だった。
終いには担任すら匙を投げ、皆は腫れ物を扱うかの態度を取り始めた。
それでも私は勉学に逃げ続け、渇望するかの様にありとあらゆる知識を吸収し続けていた。
今思うと、お父さんを喪ったことで壊れてしまっていたのかもしれない。
お母さんと楓は、そんな私を支えてくれた。
独りきりなってしまわないように、元気付けてくれた。毎日のように。
だから本当に、どれだけ感謝しても足りないな。
再度場面が切り替わる。
今度はリビングのソファーに座って、微睡む母の姿。仕事の疲れが溜まっているのか、少しやつれている。
ソファーの生地が真新しいから、きっと私が高校生位の時なのだろう。
この頃には、少しづつ現状を受け入れられるようになっていた。
物静かと言われる事も多かったけど、人並みに他人と接する事も出来る様にはなっていたし、また娯楽を楽しめる余裕も持てる心が戻って来てはいた。
程なくして、二階からドタドタとリビングに降りてくる足音が聞こえ、その騒がしさに母が目を覚ます。
「お母さん、第1志望受かってた!」
そっか……この時は何とか志望していた地元の大学に合格出来て、楓やお母さんと一緒の生活が出来ると喜んだんだっけ。
「え?! 良かったじゃない! 今日はご馳走ね!」
そう言って我が事の様に喜んで、同時に安堵感に包まれたお母さんの顔ときたら──っ。
振り返れば、確かな実感が私の軌跡にはある。
僅か数年の間しか一緒に居られなかったけど、当時お転婆だった私に嫌な顔一つせず付き合ってくれたお父さん。
塞ぎ込んでしまった私を信じて見守り続け、時には背中を押してくれたお母さん。
そして──
「遊ぼうぜ、琴海!」
どんな時でも一番の親友でいてくれた楓。
私が立ち直るきっかけを与えてくれた、大切な人。
私にとっての太陽。
とても大切で、暖かな記憶の奔流。
辛かった思い出も、楽しかった思い出も、全部ひっくるめてかけがえのない私の人生。
その中で皆に出会えたことが、私にとっての何にも代えがたい幸福なのだと。
やがて遠退く、かけがえのない記憶の数々。
私は悟る、ここまでなのだと。
理不尽でいて不可解な、冗談みたいに思える悪夢みたいな終わり方で、無惨な死を迎えるのだと。
……それはちょっとだけ、哀しいかな。
──いきたえた。
琴海は暗い場所に立っていた。
知らない風景、冷たい世界。
(ここが、死後の世界…?)
無数の髪が覆い尽くす黒い空の下、雪の積もった岩場の中。
足元には小川が流れ、その先に見覚えの無い一軒家が姿を現す。
(あれは……?)
ドアに向かって立ち尽くす、一つの人影。
見覚えのある、後ろ姿。
(──お母さん?)
「琴海……」
ゆっくりと振り返る母の肌に黒い筋が張り巡らされ、ジワジワと侵食していく。
「ごめんなさい」
そして悲痛な顔を浮かべると、その姿が黒い筋に埋め尽くされた。
(──駄目、逝かないでお母さん!)
だが琴海の想いも虚しく、母の姿は形を崩し、風に流れて消えた。
(どうして、こんなことに──っ)
絶望が、扉を開ける。
恐怖が、手招いている。
琴海は嘆く。
理不尽が、悪意がもたらしたこの結末を。
音宮琴海としての人生は、悪夢とも言える終わりを迎えた。
だが彼女の人間性は、意識は、自らの不幸を嘆くよりも別の思考へと至らせる。
母の突然の出張。
琴海が拐われたタイミング、その理由。
考える程不可解な点は多い。
(──もしかして、お母さんに何かあったのかも)
その可能性は、充分に有り得た。
よって琴海は絶望を振り解き、恐怖を押し戻す。
そして内側から湧き上がる、新たな決意。
(何の力も無い私に、何かが出来るとは思えない。でも、もしもお母さんに何かがあったのなら、今度は私が助けたい)
例えその不安が杞憂に終わるとしても、確かめるまではこのまま終わるにはあまりにも忍びない。
普段は大人しい彼女でも、大切な人が危険に晒されているのならば、琴海はじっとはしていられなかった。
(だから、私はまだ終われない。このまま死ぬわけにはいかない!)
──ときはきた。
もしも、もしも救いが在るのなら。
強い意志が芽生えることで、何かが聞き届けてくれるのだとするのなら。
その何かは、暗闇に放り込まれた彼女の想いに、きっと応えてくれるだろう。
✧ ✧ ✧
廃墟は生者を許さぬ地獄となっていた。
絶え間なく続く、蜂による強襲。
定紡は躱しつつ応戦を試みるものの、一向にその数は減らず、寧ろ増幅する攻撃の嵐となって漆黒の銃士を絶え間なく襲う。
いくら定紡が常人を超える身体能力を有しているとはいえ、全てを躱し切るのは流石に困難を極める。
「埒が明かないな」
闇を駆けながら、気怠げに中央の吹き抜けを見やる。
堅牢なる女王は高みの見物と言わんばかりに肉糸を張り巡らせた足場を造り、頭部を擦っていた。
「もう勝ったつもりでいるとは…やはり畜生に変わりはないか」
定紡はホールの中央まで一気に駆け抜けると、コートの内側からガスグレネードを取り出し、ピンを抜いて放り上げる。
宙に舞ったグレネードは花開き、粉々となった破片と共に神経ガスを飛散させた。
定紡を襲わんと接近していた蜂達は、その尽くが神経を引き裂かれ、その身を落としていく。
ガスの範囲外で慢心していた堅牢なる女王は本能的に察知する。
眼下に広がる黄土色の空間の中から、こちらを見据える視線を。
獰猛なる大蜘蛛は空腹だ。
自らの眷属が役に立たないのなら、自らで仕留めれば良い。
狙いを定めて、触手を吐き出す。
手応えあり。そのまま啜るようにして触手を体内に引き上げていく。
好都合なことに、獲物が抵抗する素振りはない。
久し振りにありつけた食事だ。
そのまま前脚まで使って、上半身を口に押し込んだときだった。
──バキンッ!
口内に広がる火薬の香り、奇妙な金属音を共にして。
危険を感じても、時既に遅し。
力が入らず、身体のあちこちがまともに動かなくなる。
「叛真定紡の名において告げる」
先程まで微動だにしなかった獲物が口内から抜け出し、自らの複眼に奇妙な黒い筒を押し付ける。
「永眠れ」
とっくに人としての記憶を失った筈の大蜘蛛は、その鳴き声を聴くと妙に落ち着いた気分になった。
心が残っていれば、きっとその感覚は安堵と呼べるものに違いなかっただろう。
しかし、もう壊れきってしまったこの肉体では思い出すことも叶わない。
筒から明滅した複数の光を最後に、堅牢なる女王は本当の最期を迎える事となった。
(やっと、終われる)
意識の奥底で蠢く、自らが主食としていた獲物の鳴き声と共に。
✧ ✧ ✧
ABWの大半は、人間をベースに作製される。
素体の量産という一点だけで見るならば、増殖が容易な下等生物を採用するのが効果的と考える者は多いだろう。
しかし昆虫や小中型動物等を使用した場合、彼らは生産工程に耐えられず死滅してしまう。
対象の体格が大きければ、その分だけ生存率も上がるが、手に入れるには莫大なコストを必要とし、兵器としての数の確保も困難となる。
では、生産コストを抑えつつ、安定した兵器としての質や量を確保するのに最も適した生物は何か?
それこそが、人間である。
死刑囚、人身売買、貧民街からの誘拐。
ルートは様々だが、それ等は顧客の前金と共に提供される。
それによる我々ダイモンドが受けるメリットは二つ。
一つは、研究資金の確保。
そしてもう一つは、サバイバーの開発。
同じ手順を行ったとしても、サバイバーへの覚醒は稀にしか発生しない。
なので、様々な方法を何度も試すためにも、ABWの開発、販売はダイモンドにとってはなくてはならない資金源の一つなのである。
〈とある一族の手記より一部抜粋〉
✧ ✧ ✧
「──────────!!」
響き渡る、美麗な咆哮。
おびただしい数の天使による賛歌、或いは歓喜に震える大地の鳴動による幻想曲。
その場に居合わせた者は錯覚する。
世界に渦巻く命の叫び、魂の奔流が彼女の身体を経由し、音という形で現れたのだと。
桃色に輝き出すその瞳は、何を想うのか。
黄金色に塗り替わるその髪は、どれだけの希望を抱くのだろうか。
それはあらゆる人類の叡智。
種の存続を願い、連綿と紡がれてきた想いの到達点。
現代兵器をも超越した、能力者としての強制覚醒。
新たなるサバイバーの誕生。
(おかしい…)
本来であれば望ましい状況下において、紫藤は嫌な汗を滲ませる。
能力者として適正の無い者を無理矢理覚醒させる技術。
特殊な変異を意図的に促すことから、多くの場合被験者は命を落とすか、或いはABWとなって軍事兵器として扱われる。
だが奇跡的に適応することで生還できた場合、身体における染色体異常はあるものの、現代兵器をも超越した存在となった者はサバイバーと呼ばれ、管理されることになる。
その際確かに変色はするが、覚醒の際に光り輝くことなど、これまでには無かった。
(ABWに変質しなかったのは良いとしましょう。ですが、何か嫌な予感がしますね)
紫藤の直感の通りに、状況は動き出す。
コトミが口を閉ざすと同時に、彼女の周囲に5つの歪みが生じた。
そして、それぞれの歪みの中心から小さな存在が姿を表す。
仄かな光を纏い、無機質な部屋に浮かび上がる小さな5つの人影。
人間よりもやや大きな瞳。
淡い光を放つ、透き通った両翼。
愛らしい少女を連想させる滑らかな肢体、柔らかそうな髪。
精練な妖精を想起させるそれらは、それぞれ赤、青、黄、緑、白の服を纏っている。
初めに、青の妖精が動いた。
次々とコトミを拘束する枷に接吻し、溶解させていく。
コトミが起き上がると、妖精達は周囲に集まって口々に声をかけ始めた。
『こんにちわ』
優しげな口調で。
『はじめまして』
穏やかな声で。
『やっとあえた』
喜びに満ちた表情で。
『たすけてあげる』
まるで、悪夢を照らす花の様に。
幻想、此処に顕現せり。
最早彼女の在り様は人の領域を逸脱し、妖精の女王が如くして自らの眷族と共に有った。
圧倒的存在を前に、紫藤の思考は一つの可能性に行き着く。
音宮鈴音が自身の愛娘に対し、保険を掛けていたということに。
「──っ、やってくれましたね」
✧ ✧ ✧
「体の造りが、昆虫の類と同じで良かった」
足下で動かなくなった大蜘蛛を見下ろし、安堵の言葉を漏らす。
外部からの攻撃は意味を成さないと判断した定紡は、わざと捕食されることで体内に入り込み、恐らく神経が集中していると思われる、頭と胸の境目に内側から発砲したのだ。
それにより敵の全身体機能を停止させ、息の根を止めたのである。
「任務を続けるか」
肉々しい大蜘蛛を蹴り落とさんばかりの強力な踏み込みで跳躍すると、天井のステンドグラスを突き破って屋上に降り立つ。
視界いっぱいに飛び込む、灰色の風景。
真っ平らなコンクリートの床と、周囲に張り巡らされたフェンス。
かつて景色を望むために使われていたであろう錆びたベンチの他には、何も無い。
土砂降りの雨を浴び、ゆらりと視線を上げると…いた。
だだっ広い空間の中央にポツリと佇む、人型の姿。
豪雨を歯牙にもかけず、白衣の剣士は雷鳴が轟く空を背に、障害を乗り越えてきた漆黒の銃士を迎える。
「来るとは思っていたぞ。上手く能力を使ったようじゃな」
濡れた刃を構える秀雄。
その表情からは余裕を消し、本気の殺意が伺える。
「誘ってくるからどんな罠があるかと思えば、大したことはなかったな」
嘲るように定紡は返す。
「まったくじゃ、もう少し苦戦するかと思っていたのだがのぅ」
首を振り失笑するしたかと思うと、次の瞬間秀雄の姿がブレる。
背筋に冷たいものが駆け抜け、反射的に身を低くした瞬間、刃が定紡の頭上を掠めた。
そのまま左へ転がって回避し引き金を絞るが、秀雄の残像のみが残され攻撃が当たらない。
秀雄は駆ける、弾丸のように。否、それを遥かに凌駕する速度で。
異常なまでの超高速戦闘にも関わらず、秀雄の眼はそれに適応し、その剣舞には一切の無駄が無い。
「フハハハ! この場は既にわしの独壇場じゃ! キサマはまんまと誘き出されたのじゃよ」
超速による動きで周囲の空間に溶け込み、命を刈り取る斬撃を残しながら秀雄は嗤う。
激しい大粒の雨は、時に人の痛覚を僅かに刺激する。
秀雄はこれを自身に対する攻撃であると定め、雨粒の落下速度をも超える速度で状況を認識し、行動していた。
ABWをけしかけ刺客の体力を削り、圧倒的な力量差で一気に叩く。
これこそが秀雄の作戦。
そんな猛攻の中、定紡が本能だけで回避出来ていたのは、ある意味奇跡とも言えよう。
「キサマがただの人間でないことは、これまでの動きでわかっておる! それとも、闇を創り出す影が無いから能力もまともに使えぬか?」
絶対的な死が満ちる中、定紡は銃を下ろした。
「観念しても良いのかな? わしはこのままいたぶり殺すこともできるのだぞ?」
秀雄は彼の間近にまで接近し、刃先を軽く額に押し付ける。
つぅ、と朱色の筋が定紡の顔を撫でていった。
「一つ、勘違いしているようだから訂正しておく」
顔色を変えることなく、定紡が口を開く。
予想外の反応てはあったが、どう反撃しようが至近距離でも躱せるため、最後の戯れ言として秀雄は付き合うことにした。
「ほう? わしが何を勘違いしているのか、是非とも教えて欲しいものじゃな」
「俺はまだ、能力を使ってはいない」
言うが早いか、定紡は手にしていたDNEを高く放り上げる。
相手の銃に気を取られていた秀雄は反応に遅れ、咄嗟に身を引いた。
秀雄は自身の眼に意識を収束させ、神認眼を発動させた。
減速していく視界の中、秀雄は認識する。
流れるような動きで、コートの内ポケットから螺旋状の刀身をしたナイフを取り出し、こちらに迫る男の動作を。
(暗器を隠し持っていたか、じゃがそれが何だというのだ)
今回も変わらず回避出来そうではある。
身体の方向を変えれば問題は無い。
立ち位置を変え、自身の前方を短刀が素通りしていくのを眺める……筈だった。
──ズブリ
突如胸部に生じる異物感。
遅れて生じる、電流が突き抜けるが如き痛み。
「グ─ッ、ァァァア……!」
絞るように喉を駆け抜ける絶叫。
苦悶に喘ぐ中、事態を把握する。
秀雄の左側に居る筈であった定紡の姿は変わらず正面にあり、軸を中心に捻れ曲がった刃が胸に深々と突き刺さっていた。
視界が揺らぎ、事象の速度が元に戻る。
「俺の持つ仮想概念は、既に解除されている」
そう言って、定紡は乱暴な蹴りと共にナイフを引き抜いた。
ヤークトコマンドナイフ。
毒に頼らずとも一撃必殺が可能な武器と呼ばれ、これによって傷を受けたほとんどの者は生き延びられず、必要以上に苦痛を感じながら死に至る。
それ故にこのナイフは、国連が定めた軍事協定にて、戦争で扱う事を禁止された武器の一つになっている。
空中を上がりきった銃が、落下を始める。
仰向けに倒れた秀雄にとってそれは、今の自分の姿と重なって見えた。
「まだだ…まだ終わっては……おらぬ」
しかしその事実を、受け容れるわけにはいかない。
白狼を支えに立ち上がり、よろめく足を踏み締めて、立ち上がる。
「ヌアアアア!」
最期の力を振り絞り、秀雄は全てを認識した。
途端、風が止む。
雨粒が、静止する。
銃も宙に留まり、それを捕らえんとする定紡もまた、秀雄に視線を向けたまま左腕を天へ伸ばした姿勢で止まっている。
鋭敏を極めた秀雄の認知能力は時すらをも置き去りにし、場の絶対的な支配者となった。
愛刀として慣れ親しんだ筈の白狼は重く、悲鳴を上げる傷口は秀雄の動きを緩慢なものにしていた。
それでも尚、秀雄の動きは常人には知覚し得ない程に加速する。
定紡に眼を向ける、決死の覚悟を持って。
鈍速に落下を続ける銃は、今まさに天へ掲げる彼の手に収まろうとしていた。
「死ねぇぇえええい!」
気合一閃。白狼の刃は、確かに敵の首を捉えていた。しかし手応えは無い。
返す刀で背後から両断せんと振り抜く。
ところが刃は、彼の胴体を通り抜けていた。
(なん…じゃと……!?)
驚きと共に目眩が秀雄を襲う。時間切れだ。
一旦距離を取り、神認眼を解除する。
「今の一瞬で何をしていたかは知らんが、無駄な足掻きだ」
世界の速度は元に戻り、定紡はDNEを捕えて銃口を向けた。
「フ、フゥフフ…ァハハハ……」
精神が、恐怖に侵食される。
人は、想像も及ばない困難に対面すると、笑いが込み上げて来るものなのだろう。この時の秀雄の様に。
彼には勝てないと、思い知った。
これまでの様々な状況を繋ぎ合わせても、存在しない突破口を改めて認識するだけに終わる。
「いや、流石じゃよ。まさかネイチャーに命を狙われていたとはのぅ!」
皮肉を含んだ賞賛。
定紡はそれに応えることなく、足を撃ち抜く。
引き金を引いた時とは少しずれた地点で、秀雄が地に伏していた。
どうやら能力を行使したが、定紡の能力の特性によって避けられなかったのだろう。
数多のABWを排出し、その第一人者として人造生体兵器の開発を先導した男、八鍬秀雄。
それは数多の人々が犠牲にされてきた事と同義でもある。
そんな悪人にも、命を持つ者の一人として敬意を払うのが定紡のポリシー。
「叛真定紡の名に於いて告げる…永眠れ」
黄金が迫る。秀雄の頭蓋を打ち砕かんと一直線に。
秀雄には視えている、ゆっくりと。
回避、防御共に間に合う速度、余裕を持って。
防げる脅威ではあった、常ならば。
秀雄は軌道上に白狼を構える。
しかし弾は刀身を通り抜け、そのまま直進する。
咄嗟に秀雄は上体を反らす。
防げぬのなら、せめて避けなければと。
それでも目の前には、眉間に向かって直進する弾丸が見えたまま。
軌道が変わろうと弾丸の速度、威力は変わらない。
その時点で、秀雄はそれ以上の行動が全て無意味であると悟った。
悠久と思われる程の、永い最期の時。
その果てに、よりゆっくりと脳を砕かれる感覚を味わう。
無限に続く苦痛。
神認眼の効果により、意識すらも気の遠くなる程の時間をかけて、闇へ沈んで行く。
仰向けに倒れ込んだ秀雄は更に、無限の刹那の中で苦しみ続けた果てに、ようやく安息を得た。
✧ ✧ ✧
ネイチャー。それは、先天的にゼノ・スフィアの適性を持つ者達の総称。
瀕死の状態から生還しなければ発現しない上に、適正者自体も極少数しか存在しないため、その存在は非常に稀有である。
ネイチャーの外見は常人と大差が無いため、その能力を行使するまでは誰にも見分けることが出来ない。
故に戦闘においては、無闇に自身の能力を行使する者よりも、使い方次第ではあるが、秘匿しながら行動する者の方が、戦略的に優位に立てる場合もある。
〈とある一族の手記より一部抜粋〉
✧ ✧ ✧
定紡はDNEを仕舞い、依頼主に任務完了の連絡と共に秀雄の写真を撮って送付する。
引き返そうかと思ったその時。
──ゴォォォォ
微かに奇妙な音が響いた。
警戒して周囲を見渡すが、これといった変化は見受けられない。
定紡は死体を処分しようと秀雄に歩み寄った時、白衣の内側からUSBが転がり落ちているのに気が付く。
取り敢えず回収し、撤収を試みた途端に。
──ゴゴォォォォ
先程よりも大きな音が辺りに響き、足元が大きく傾く。
体制を崩す中で周囲を確認すると、どうやら震源地はこの廃病院の正面に広がる地面からのようだった。
そして一際大きな轟音と共に地面が陥没し、爆炎が吹き上がる。
流石の定紡も、この光景には唖然とせざるを得なかった。
「何が……起きたんだ」
そして、目を見張る彼の前で一筋の雷光が、天へと登っていった。
✧ ✧ ✧
コトミが一歩、脚を踏み出す。
まるでそれが合図だったかの様に、妖精達は思い思いに散らばっていく。
紫藤は危険な状況であると判断し、鎮静剤を含んだ弾丸を琴海に向けて放つ。
それに続いて男達も一斉に発砲を始めた。
しかし異質なるサバイバーに対し、現代兵器は最早意味を成さない。
それを悟った紫藤は脱兎の如く部屋を飛び出し、壁のスイッチを叩いて防護壁を閉めた。
「紫藤さん!? 開けてください!」
取り残された男達は慌てて防護壁に駆け寄り必死に懇願する。
しかし哀しきかな、その声も扉を叩く振動も、外に伝わることはない。
「予定より早いですが、アナタ達はその被験体と共に死んで下さい」
そう言い捨てて紫藤は通路を駆け抜ける、管制室を目指して。
その光景を、視覚情報として琴海は認識している。
それでも微睡みの淵に立つ彼女の意識は、思考することも、身体を動かすことも止めていた。
ボンヤリとした意識の裏側で、聲が優しく囁いたから。
私達はアナタであり、その想いを支える杖なのだ。
だから君自らを信じ、私達に委ねて……と。
幻想を冠した乙女にとって、眼前で震える男達は最早脅威に成り得ない。
だが自らに対して不敬を働いた者を放っておく程、彼女の中で目覚めたモノは甘く無かった。
右手を伸ばし、男達へ向ける。
『は〜い!』
其れに呼応して、愉しげに緑の妖精が男達へと接近し、彼等の足下に降り立つ。
ニコリと華やかな微笑みを浮かべ、床へ口付けを残すと華麗に舞い上がった。
すると床には植物の特性が付与され、男達を取り囲むかのようにして蔓が生え広がる。
『わたしも〜!』
続いて緑の妖精と入れ替わるようにして白の妖精が飛び出し、蔓の一つに口を付けた。
その行為によって、床に付与された植物の特性がより上位のものとなり、生え広がった蔓はそのことごとくが細長く、丈夫な幹へと姿を変えていく。
「い、イヤだ! やめでぐれ!」
「悪がっ──グガアアアア!!」
その出来事は、男達にとっての悪夢以外の何物でもなかっただろう。
幹へと姿を変えた蔓は、螺旋を描きながら成長し、男達を纏めて締め上げる。
それでも成長は止まることは無く、天井をも侵食すると、其処には数多の幹が絡み合って出来上がった大樹がそびえていた。
それは、あまりにも一瞬の出来事だったため、瞬時に圧縮された男達は人の形を失っていた。
厳かな足取りでコトミは大樹へ近付く。
僅かに大樹の幹からはみ出た男の腕に目を留め、そのまま視線を落とす。
大樹の根元には刑事風の男が落としたハンドガンが遺され、彼女はそれを拾い上げると妖精達を引き寄せる。
白と赤、そして黄色の妖精は自動式であるその銃へと口付けをし、青と緑の妖精は肩に座ってそれを愉しそうに眺めていた。
拳銃は三人の妖精によって雷と炎の特性を得て、彼女の手中に収まる。
コトミは防護壁に其れを向けると、引き金を引いた。
──ガギュゥゥゥンンンン
雷撃による加速力で飛び出した弾丸は爆炎を伴い、ミサイルをも超える破壊の奔流を生み出し、防護壁諸共周囲に甚大な被害を及ぼした。
「冗談じゃありませんよ! こんな…こんなことがあってたまるかっ──」
管制室で一部始終を観ていた紫藤は、一人怒りで震えていた。
各所を映すモニターには、突然の出来事に混乱する職員や、暴走するABWの姿が映し出されている。
毒ガスを部屋に放つ事は容易だ。
しかし妖精を侍らせた彼女には、如何なる手段も通用しない。
こうなっては、事態を沈静化させるのは最早困難。
紫藤が極秘に受けていた命令は一つ。
八鍬秀夫に成り代わり、殺戮生物研究開発センター日本支部を支配すること。
だが既に、その任務を遂行するのは不可能となってしまった。
その事実に紫藤は発狂し、モニターに拳を叩きつけた。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
そうして息を切らした紫藤は表情を消し、天を仰ぐ。
「申し訳ございません我が主よ。 私は貴女の言い付けを守ることが出来ませんでした」
視線を落とし、徐ろに懐から鍵を取り出すと、それを操作盤の下部に位置する鍵穴へと差し込む。
「ですがせめて…せめてこの場にいる者達だけは……御教えの通りに解放致します」
断腸の思いで鍵を捻ると、外部に通じる全ての防護壁が閉ざされていく。
『緊急焼却シーケンスが作動しました。
機密漏洩防止の為、本施設はまもなく消滅します。
尚、本施設からの脱出及び生還は禁止されております……繰り返します──』
延々と流される機械的なアナウンス。
複数箇所に設置された施設の動力炉が一斉に暴走を始め、その温度を上昇させていく。
職員の反応は様々だった。
生き延びる策を何とか練ろうとする者。
無闇に暴れる者。
放心する者。
神に祈る者。
泣き伏せる者。
全員が終わりを自覚する中、コトミだけは違った。
そこには、眼前に広がる出来事を否定し、自らの慣れ親しんだ世界へ戻るという琴海の確固たる意志だけがあった。
爆音と共に天井が崩落を始め、鉄骨や土砂が大量に降り注ぐ。
更には壁からも爆煙が吹き出し始め、多くの職員やABWを呑み込んでいく。
そんな状況下でも、彼女は動じない。
『かえろ! かえろ!』
「うん、帰ろう」
琴海は嬉しそうに飛び回る妖精達へ穏やかに笑いかけると、手を伸ばす。
すると白い妖精と黄色い妖精が飛んで来て、その指先に優しく接吻をした。
それによって身体が雷の性質を帯びたのを確認し、遥か上空を見上げる。
その視線の数百メートル先には、空を顕にした崩落途中の天井が視える。
自身が雷とほぼ同一の存在となった琴海は、瞬時に雲の中へと昇り、そして爆炎に沈んでいく研究施設を後にしたのだった。
✧ ✧ ✧
翌日、目を覚ますと琴海は自室のベッドに横たわっていた。
いつの間に寝ていたのか、窓からは夕陽が差し込み、一日の終わりを告げている。
(夢……凄く生々しくて怖い夢)
部屋を出て、リビングへ向かう。
何も変わらない、いつも通りの我が家。
穏やかな刻が流れる、平和な空間。
ココアを入れ、テレビを点ける。
すると緊急速報の中で【廃病院が地盤沈下に巻き込まれ、出火】というニュースが流れ、【二十名の遺体が発見され、その内五名の身元が判明】といった報道が流れていた。
画面を前に、琴海は戦慄する。
身元画像の内の三名が、夢に出てきた偽警官とそっくりだったからだ。
(夢……そう、きっと夢の内容がニュースの内容と被っていただけ。単なる偶然に決まっている)
波打つ鼓動を落ち着かせ、淹れたばかりのココアの入ったコップを置いて、顔を洗うために洗面所へ向かう。
「ヒッ──」
しかし鏡を見て、悲鳴が込み上げた。
夢ではなかったのだ。
これまで起こった出来事は現実。
恐らく妖精達が見えていたあの夢は、全て自分のしでかしたことの記憶に違いない。
自分は、誘拐されていた。
そこで、命を奪われそうになった。
そして、如何に悪い人達だったとは言え、大半の人達の遺体すら残らない程の大殺戮を起こした。
その事実が、琴海に突きつけられる。
その恐怖が、ジワジワと琴海を蝕んでいく。
「ぁ……あぁ……あああ!」
黄金色の髪をした彼女は、悲鳴の入り混じった嗚咽を吐き出し、桃色の目からは後悔と自責の涙が流れ続けていた。
どうも、無気力ナスビです。
今回は、『ネイチャー』と『サバイバー』について、簡単に解説します。
ネイチャー:産まれながらにして特殊能力者としての素質があり、死に直面した時に、発現した者を指す用語。
素質を持って生まれる確率は、百万分の一。
サバイバー:特殊なウイルスや、バクテリア等を素質のない者に投入し、それに対して、死亡、もしくは変異せずに、完全に適合し、特殊な能力を得た者を指す用語。
適合する確率は、十万分の一。
以上です。
次回もよろしくお願いします。ノシ




