番外編エピローグ
あの激しい戦いから、三日が過ぎた。
一週間以上に渡って繰り広げられた、ニートの存亡と誇りを賭けた聖戦に終止符を打ったことで、美貴理たちは安息の日々を取り戻していた。
時刻は午後二時。美貴理の部屋、揺れるカーテンの隙間から、白い陽光がほんの僅か差し込んでいる。
数日前まで争いの渦中にいたその少女は、我々の期待を裏切らず机に突っ伏して鼻ちょうちんを浮かべていた。恐らく夜通しPCと睨めっこを続け、そして夜明けとともに寝落ちしたのだろう。よい子は真似してはいけない。
美貴理の安らかな寝息だけが規則的に響く静かな室内に、不意にノックの音。
が、熟睡しているのか美貴理は気づかない。寝息とノックが、しばし間の抜けた二重奏を生む。
やがて音が止むと、部屋の扉が無遠慮に開かれた。
そこから姿を見せたのは、全身タイツスーツの男――佐無柄家に居候中のハロワマン・タクだ。
「いつもノックをしろと言うが、どうせ気づかないじゃないか」
こっそり愚痴をたれたタクは胡乱な目で、爆睡する美貴理の背中に目を向ける。本来ならばもう社会復帰の授業の時間なのだが――しかしその穏やかな寝顔に、意図せず口角が緩む。長い髪の間に覗いた彼女の表情に、ふと思い出したのだ。三日前の夜の決着、その顛末を。
「風邪ひくなよ」
ベッドから拝借した毛布を美貴理の肩にかけてやる。
そして彼女の頭を優しく撫でると、タクは脳裏に浮かんだ記憶を回想した。
確執を残した濃澄一味との関係に、このしがないニートが運んだささやかな奇跡を。
★
雲間に霞む、沈みかけの半月。その淡い月光を双肩に受け止め、地面に手をついた濃澄は誰にともなく呟いた。
「私は……間違っていなかったはずだ……」
その呪詛じみた独白に言葉を返す者はいない。マアヤは無表情のままその容貌を伏せ、俺の方はいまだ消えぬ敵意の炎を両眼に宿し、彼の小さな背中を睥睨していた。
「腐り堕ちた人間の屑、ニート……その寄生を野放しにしては、日本もまた朽ちてしまう……。社会の害悪は、我々が潰さねばならなかったのに……」
「…………」
絶えず吐き出される彼の言葉は憎悪に満ちていた。至極当然だ、ハローワークを利用してまで一掃しようとした非労働者への怨恨が、簡単に掻き消えるはずがない。
しかし、そんな危険思想に同調する者などもういない。腹心であるマアヤとて、ニートへの敵意ではなく濃澄への忠誠心で動いていたのだ。
掲げた大義名分に誰も動かない孤独な元・総理大臣の声は、ただ緩やかな夜風に吹かれて消えていく――
「まったく、その通りだよ」
――消えていく、はずだった。
唐突な賛同に俺も、マアヤも、絶望に打ちひしがれていた濃澄すら声の主を振り仰いだ。
そこに佇むのは――いつ目覚めたのか――茫洋とした瞳で微笑む美貴理だった。
波濤のように押し寄せる謎。よりにもよって美貴理がなぜ濃澄の肩を持つのか。ニートの身である彼女自身が、彼の痛烈な悪罵の対象であるというのに。
頭にすこぶる大きな疑問符を浮かべる三人をそっちのけに、美貴理は緩慢な足取りで濃澄へと歩み寄る。
そして、提示される逆接。
「でもさ」
不意にしゃがみこんだ美貴理と、呆然と大口を開ける濃澄の、目が合った。宿敵が眼前にいるというのに濃澄は硬直したままで、一介のニートと大御所の政治家が対面する光景は異様だった。
無意識に唾を呑み下したのは、誰だったか。自覚がないだけで、実際は俺だったのかも。
とにかく、続けられた美貴理の台詞は、そんな小さな懸念を容易く吹き飛ばした。
「うまく言えないけど、支えてくれる人たちと一緒に、駄目人間なりに――あたしなりに頑張るから……どうか、ニートたちを大目に見てやってください」
その声は慈愛に溢れていて――ようやく俺は彼女の心境を悟った。
美貴理は既に自分のことを社会の最底辺だと卑下し、その上でこの道を選択したのだ。ハロワマンの自分とは違う。彼女はとっくに、濃澄の思いの丈を享受していた。
勝利をもぎ取った上で、すこぶる謙虚な懇願。
これで駄目なら、濃澄とはもうなにがあっても相容れない。
「もう帰ろう」
俺は真摯な眼差しで濃澄を見つめる美貴理の肩を掴んで引き起こし、そっと告げた。
“誰もが等しく輝かしい労働の汗を流す未来”
美貴理と違って、その指標を踏みにじった濃澄を俺は許せない。まだ奴がニートをつけ狙うというのなら、彼女の代わりに幾度でも拳を交えよう。
「よろしくお願いします」
まったく言葉を返さない――いや、返せない濃澄に、もう一度美貴理は深々と頭を下げた。そんな彼女を引きずるようにして、俺は戦場を去った……
★
結果を明かせば、ブラック企業に囚われたニートたちは無事解放された。詳しくは調べていないので知らないが、大方自主退職を認めるという形だろう。
そして――
「コイツも戻ってきた」
タクは美貴理の正面に置かれたPCに目を落とした。そこに映るのは、もはや見慣れたゲーム画面、
〈Stairs to heaven〉だ。
ニートをおびき寄せる計略として濃澄が制作したネットゲームが、今度は真っ当な運営方針で復活したのだ。
美貴理はそのことを素直に喜び、またユーザーも大部分が回帰したことで、ステヘブはあっという間に以前の活気を取り戻した。
今、濃澄がどんな気持ちでこのゲームを運営しているのかは予想もつかない。
それでも確実なのは、美貴理の言葉が奴の胸中のどこかに響いたということだ。彼女の裏表のない素顔を目の当たりにして、ニートの存在に僅かでも希望を抱いてくれたのかもしれない。
濃澄の改心――俺には不可能だったこと。
成し遂げたのは美貴理の言葉。それは彼女の立派な功績だ。
「……よく頑張ったな」
タクは美貴理の背中に優しく触れた。労いの気持ちをその大きな掌に籠めて。
そして、唐突に。なんの前触れもなく。
「「え」」
美貴理が目を覚ました。
「…………」
「……………………」
「…………………………う」
視線が交錯し、数秒の沈黙。
その張り詰めた静寂を切り裂いたのは、
「うぎゃあぁぁぁぁぁぁ! なに勝手に入ってるんだよ!」
美貴理の絶叫である。
そして、狼狽に振り回される拳がタクの脳天に突き刺さった!
「ぐおう! お、落ち着け美貴理! 俺はちゃんとノックをしたぞ!」
「どっちにしろ無断で入ってるだろうがあぁぁぁぁ!」
珍しく美貴理の方が正論である。
顔面を耳の先まで真っ赤に染めて、美貴理は半狂乱できゃあきゃあと騒ぐ。ほとんどが日本語の体を成していない。
「い、いいか? 乙女には秘密ってものがごjんdヴぃおあshcぱ」
ネズミ花火さながらに暴れ回る美貴理の肘が、偶然PCのマウスにぶつかり、どこかクリックする。
すると奇跡的に、ステヘブの画面が消えた。PC壁紙が白日の下に晒された。
意図せずタクの視線が、そちらに吸い寄せられる。無理もない、威風堂々と映し出された光景は、万人を注目させるだけのインパクトがあった。現在の窮状など霞ませるほどに刺激的だった。
そこには、身体を火照らせた半裸の美男子がふたり、妖しく微笑んでおり――
「……うわ」
――直後。
佐無柄家の周辺一帯に、デシベル計測が不可能なほどの悲鳴が響き渡ったのだった。
〈はたらけ!〉
これは、回り続ける世界に翻弄されながらも毎日を楽しく生きる道化たちの、愛と涙とニートの屁理屈の物語である――
――fin
これにて〈はたらけ!〉は完結となります。これまで読んでくださった方々、ありがとうございました!
最初は『こんなつまらない物語を読んでくださり、ありがとうございました』って書こうと考えていたんですが、どうもしっくりきませんでした。
たぶん本音では『つまらない物語』だと思っていないんでしょうね。自分で言うのもなんですけど、私はこのお話が大好きです。
他人の心に残る作品ではないかもしれませんが、自分の心には残る作品になりました。執筆していて、読み返して面白かった。それだけで満足でございます。
ですが、願わくば皆さまの心の片隅にでも、美貴理さんたちの姿を置いといてやってください。
それでは、またどこかで。




