第38話 元妻のヒステリーと自滅
初夏の陽光が、アビス領代官所の分厚い石壁を温め始めていた。
広く清潔な私室で、セレスティアンはダークネイビーの執務用スラックスに足を通し、糊の利いたシャツの袖口のボタンを留めていた。
出勤前の静かな時間。窓から差し込む朝の光の中に浮かぶ埃の粒を無心に目で追っていたのは、黒と茶色の被毛に覆われた毛玉――ポチだった。
厳しい冬を越え、立派な若犬へと骨格が成長しつつあるポチは、ここ最近、劇的な行動の変化を見せていた。
乳歯が生え変わる時期の、あの手当たり次第にブーツや絨毯に噛み付く乱暴な振る舞いはすっかり影を潜めた。代わりに彼が習得したのは、主の行動パターンを完全に把握し、最も効率的に「撫でられる」ための極めて知的な立ち回りだった。
セレスティアンがネクタイを締め終わり、鏡の前から一歩身を引いて上着に手を伸ばそうとした、その瞬間。
ポチは音もなく短い四肢を滑らせ、彼の足の間に自分の頭をスポンと滑り込ませた。そして、磨き上げられたブーツの甲に顎を乗せ、琥珀色の丸い瞳で下からじっと主を見上げる。
「ひゃんっ、くぅん」
決して騒ぎ立てず、控えめに、しかし強烈な要求を込めた短い鼻鳴らし。
彼が身支度を終え、執務室へ向かう直前のわずかな間隙。この数秒間だけは、彼がどれほど多忙であっても必ず立ち止まることを、ポチは完全に学習していたのだ。
「……賢いことだ」
セレスティアンは低く呟き、屈み込んでポチの耳の後ろから首筋にかけてを、ゆっくりと撫で下ろした。
ポチは目を細め、喉の奥で満足げな音を鳴らしてその大きな手のひらに体重を預けてくる。前世の激務の中では決して得られなかった、純粋な体温と絶対的な信頼。それは、冷徹な経営者である彼の精神を底辺で支える、ささやかな、しかし確かな楔だった。
「朝から犬の相手? 相変わらず余裕そうね」
少し開いていた扉の隙間から、ソフィアが顔を出した。少年風のサスペンダーパンツを着こなした彼女の腕には、今朝各村から届いたばかりの分厚い報告書の束が抱えられている。
「少しは焦ったらどうなの。王都の方じゃ、今頃あなたを潰すために大騒ぎしてるはずよ」
「騒ぐだけの余力が残っていれば、だがな」
セレスティアンは立ち上がり、軽く衣服の皺を払ってからソフィアの持つ書類の束へ視線を向けた。
「領内の物流に遅滞は」
「ゼロよ。昨日も予定通り、ゼノア公国側のギルドへポーションの納品が完了したわ。逆に、私たちが供給を絞った王都向けの穀物価格は、今朝の段階で先月の3倍に跳ね上がってる」
ソフィアは報告書の一番上にある数字を指先で弾き、皮肉げな笑みを浮かべた。
「向こうの金庫は、もう完全に底が見えているわ」
★★★★★★★★★★★
同時刻。王都、王城の中心にある豪奢な執務室。
「なぜ! なぜどの家も金を出さないというの!?」
エリシア王女のヒステリックな絶叫が、美しいステンドグラスを震わせた。
彼女の足元には、丸められ、引き裂かれた羊皮紙が散乱している。強硬派の貴族たちへ送った緊急の資金提供要請への、事実上の拒絶状だった。
美しく結い上げられていたはずの金髪は乱れ、ドレスの裾がインクで汚れていることにも彼女は気づいていない。
「お労しや、エリシア殿下。あのような欲深い老いぼれ共に、殿下のお心を痛める価値などございません」
激昂するエリシアの背後に歩み寄り、その華奢な肩を優しく揉みほぐしたのは、側近の一人である若手貴族、マリアンだった。
透き通るような金髪と柔和な顔立ちを持つ彼は、強い香水の匂いを漂わせながら、甘い言葉でエリシアの承認欲求を満たすことにおいて右に出る者はいない。だが、その頭脳には実務の欠片も詰まっていなかった。
「しかし、金庫が空なのよ! このままでは近衛の給与すら……!」
「ご案じなさいませんよう。そもそも、なぜ我々が他人に頭を下げて金策に走らねばならないのですか。アビス領には、我が国の国家予算を凌ぐほどの莫大な富が積み上がっているではありませんか」
マリアンはエリシアの耳元で、毒のように甘く囁いた。
「あのような辺境の泥に塗れた成り上がり者どもに、法的根拠や道理を説くから相手も調子に乗るのです。殿下には、王家が誇る最強の剣があるではありませんか。正規軍を動かし、辺境の代官所を制圧し、全ての資産と特産品を『没収』してしまえば良いのです」
その言葉に、エリシアの目が不自然に輝いた。
かつてセレスティアンが全ての実務を完璧に回していた頃、彼女は「命じるだけ」で全てが思い通りに動いていた。その成功体験が、彼女の現実認識を致命的に歪ませている。魔法の杖を振るように命じさえすれば、兵士たちが勝手に富を奪い取ってきてくれると思い込んでいるのだ。
「……そうね。その通りだわ。王家の威光と軍靴の音を聞けば、あの生意気な元夫も、辺境の薄汚い領民どもも、這いつくばって許しを請うはずよ」
エリシアは立ち上がり、扉の前に控えていた文官に鋭く命じた。
「今すぐ、近衛騎士団長をここに呼びなさい! 全軍に出兵の準備を命じます!」
十数分後。
執務室に現れた近衛騎士団長は、歴戦の武人らしい厚い胸板を持つ初老の男だった。しかし、その顔には深い疲労の色が刻まれ、頬は微かにこけていた。磨き上げられているはずの軍靴の爪先はひどく擦り切れ、手入れの行き届いていない様子が見て取れる。
「アビス領へ進軍し、代官所の制圧および全資産を差し押さえなさい。反抗する者は斬り捨てて構いません」
玉座から見下ろすように放たれたエリシアの王命。
しかし、騎士団長は跪くことも、剣の柄に手を当てることもしなかった。彼はただ、冷え切った目で王女を見つめ返した。
「……できかねます」
「なんですって?」
エリシアは自分の耳を疑った。王命が、軍のトップによってその場で直接的に拒絶されたのだ。
「聞こえなかったの!? これは王命よ! 反逆するつもりですか!」
「殿下。兵は、霞を食って戦うわけではございません」
騎士団長の地を這うような低い声が、エリシアの怒鳴り声を遮った。
「現在、近衛を含む正規軍の末端兵士たちへの給与配分が、すでに2ヶ月間滞っております。お分かりですか。アビス領の経済封鎖により、王都の物価は数倍に跳ね上がっているのです。兵の家族たちは、明日の特配のパンすら買えず、飢えに苦しんでいる」
騎士団長は一歩前に出た。その眼光の鋭さに、エリシアは思わず息を呑む。
「そのような状態で、己の家族を飢えさせたまま、遠方の辺境へ進軍せよと命じて、誰が剣を取るというのですか。兵たちはすでに、未払い給与の即時支払いを求め、兵舎から一歩も動かぬと実質的なストライキに入っております」
「ふ、ふざけないで! 騎士の誇りはないの! 逆らう者は反逆罪で処刑しなさい!」
「処刑するのは構いませんが、それを行う兵が一人もおりません」
騎士団長は冷酷な事実を突きつけた。
「王家が雇用主としての契約を果たさぬのであれば、我々にも命を懸ける義理はない。ましてや、何の正当性もない同胞への侵略など。……我々は、これ以上あなた方の無能な遊戯に付き合うつもりはありません」
「き、貴様ぁっ!!」
エリシアが金切り声を上げ、手元のインク壺を投げつけた。黒い液体が騎士団長の足元で砕け散り、磨かれた床板を汚していくが、彼は微動だにしなかった。
「失礼いたします」
騎士団長は短い一礼だけを残し、踵を返して執務室を出て行った。
残されたのは、顔面を蒼白にさせたマリアンと、自らの権力の源泉が完全に消滅したことを理解できず、虚空に向かって絶叫し続けるエリシアの姿だけだった。
★★★★★★★★★★★
アビス領代官所、円卓が置かれた会議室。
セレスティアンは上座に座り、各部門の責任者たちから提出された今週の進捗報告書に、次々と承認印を押していた。紙が擦れる音と、万年筆が走る硬質な音だけが規則的に響いている。
「――以上が、第4区画のインフラ整備に関する今週の報告です」
カイラが手元の書類を束ね、静かな声で締めくくった。
セレスティアンは最後の書類にサインを書き入れると、ペンを置いて顔を上げた。
「ご苦労だった。予定通り進んでいるな」
彼は視線を部屋の隅、影が濃く落ちる場所へと向ける。
「王都からの武力侵攻の可能性は」
影の中からエレナが姿を現し、肩をすくめた。
「ゼロよ。兵士たちは給与未払いで完全に反発していて、兵舎から一歩も動こうとしないわ。暴動が起きるのも時間の問題ね」
「そうか」
セレスティアンは表情を変えることなく、短く応じた。
ヴィオラが手に持っていた扇を開き、口元を隠しながらセレスティアンを見つめる。
「これで、物理的な横取りの線も完全に消滅しましたわね。では、予定通りこちらの最終段階へ移行しますの?」
「ああ」
セレスティアンの三白眼が、円卓の端に座るソフィアへと向けられる。
「準備はできているか」
ソフィアは足を組み直し、静かに一冊の古びた革張りの手帳を、円卓の中央へと滑らせた。
手垢に塗れ、ところどころページがすり切れたその手帳には、王都の闇に隠されていた致命的なデータが詰まっている。
「エリシア殿下たちが、過去数年にわたって王国資金を不正に横領し、私財に回していた動かぬ証拠よ。王都の裏ルートから、原本の帳簿を完全に押さえてきたわ」
会議室の空気が、一段と鋭く引き締まった。
セレスティアンは手帳を手に取り、無言でそのページをめくる。
日付、流用された王室予算の項目、そしてそれがどの貴族の私的な口座へと還流していったか。緻密な数字の羅列が、インクの染みとともに生々しく記録されている。
「……数字に矛盾はないな」
数ページを確認したセレスティアンは、手帳をパタンと閉じた。
「カイラ。この帳簿の写しを作成し、カミラへ送れ。貴族院の監査委員会へ匿名で提出させる」
「承知いたしました」
カイラが一礼し、手帳を恭しく受け取る。
セレスティアンは立ち上がり、窓の外に広がる活気に満ちた領都の風景へと視線を向けた。
「特産品の流通調整は継続。王都が自重で崩れ落ちるまで、もう何の手出しも必要ない」




