project angel
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「コマンド、マスター権委譲。」
新船二葉は、いや渡辺太一という一人の人間は隣にいるはずの思念に話しかける。止まった時間の中では風は吹かない。だが、彼の耳もとにはわずかばかりの風が吹いたような感じがした。
「おーけー。いいんだよね、代弁者さん。本当にやっちゃっても。」
それをすれば彼は消滅する。そのくらい彼にもわかっているだろう。わかっていてそう言ったのだから。
「もちろん。委譲先は彼に。」
彼にとっては弟のような存在。彼であればこの力を悪用することはないと信じて。
「まぁ、そうなるよねー。了解だよー。ふふっ。一回くらいは一緒にお酒とか飲みたかったなー。」
話し相手の女性はどう見たって中学生にしか見えないのだ。実年齢がどうであろうがお酒は飲めそうにない。店側に止められてしまうだろう。
「残念ながら酒と煙草は苦手でね、飲み会でもウーロン茶しか飲まないのさ。」
彼は彼女に合わせた訳ではなく、本当に飲めないらしい。日本人の肝臓にはアルコールの分解が難しいと聞くが、そういうことでもないようだ。
「それでも付き合うよ。枝豆とか食べながらさー、ちょっとずつ日本酒とか呑んでみたりねー、あとは――――」
――――心行くまで、語りたかったなー。
楽しそうに語る彼女の笑顔は偽物で、泣きそうになっているのは誰にだってわかる。わかっていても、どうにもできないのだ。
「そうだね。それならちょっとくらいは呑んでもいいかな。」
そう言っている最中にも彼の指先は崩れていく。ただ、その体は土に還っていくことはない。分子レベルで分解され、消滅していったから。
「三十六足す二十八年。見た目からは想像できないくらいおじいちゃんなんだよね。」
見た目だけは中身と違って変わらないまま。自称する年齢よりはずっと年上に見えるが、それでも本来の年からは想像できないその顔。皺すらも肉眼では見えないほどのその顔は、見た目にそぐわない哀愁を帯びていた。
「それはお互い様、じゃないかな。なにしろ桁が違う。」
「女の子に年齢の話はタブーだよー?」
他愛ないことで笑みがこぼれる。それが彼の最期だとも知らずに。いや、知っていて笑っている。知っていたから、最後だけは笑っていようって決めていたのだから。
「でさ、あいつに会ったら言っといてくれる?」
「いいよ。」
「じゃあ、こう伝えてー?」
――――人間っていうのも、案外悪くはなかったよってね。
「消滅、確認。ふぅ。長かったなー、それでも悪くはなかったよ。」
無数にあると言われる平行世界、その片割れ。人為的に神秘が消滅した世界。ここではない、どこか遠く。
どこにでもいるような普通の若者だった彼は、神を名乗る誰かによってこっち側に連れてこられた。ちょっと強引な方法で。
「見送るって、残されるってこんなにも寂しいことなんだね。今度こそは、まともな人生を送ってくれればいいんだけど……」
あんな気まぐれな奴が神様だからなぁ。またろくでもないことに巻き込まれるに違いない。欠片も残さずに消えていった彼の面影は当たり前だが、もうここにはない。
そう言った彼女の存在も薄くなっていく。動き出す時間。それは客観的に彼の存在を否定することになった。
「はぁ、こっちもお迎えが来たかー。」
彼と違って彼女はここに残り続ける。彼女は人間の思念の統合体。人類が滅びようが決して消滅することはない存在なのだ。ただ、見えなくなるだけ。
「三十年間お疲れ様、だなー。」
彼女が見たかったのはどうしようもないバッドエンドではない。誰もが幸せでいられるハッピーエンドなのだ。でも、その夢はきっとかなわない。この世はどうしようもなく残酷で、どこにも救いは落ちていないのだから。
大昔、誰かが革命を起こした。民衆は自由を求めて立ち上がった。結果としてそれまで敷かれていた王政は廃止になった。
だが、蓋を開けてみればどうだろうか。頭がすげ替えられただけで農民は今まで通り重税に苦しめられることとなった。
欲望は人間を狂わせる。それは昔も今も変わらないこと。いや、今の方がずっと酷いか。言葉一つで人が簡単に死んでしまう世界。指一つ動かさなくても人は死んでしまうのだから。
誰かの不幸の上に日常という名の幸せは成立している。そう、彼女はすべて見てきたから知っている。
「これからの時代の担い手さん。ううん、新船を継ぐ誰かさん。――――」
――――project angelは完結した。天使は舞い降り、地には光が満ちた。でもね、彼らはそれを絶対に許しはしない。彼らはこれからも間違いなくちょっかいをかけてくるだろうね。
そして、その度に君は道を間違えるかもしれない。でも、それでいいのさ。君は全知全能の神なんかじゃあないんだから。
ただ、どうして間違えたのか、どこを間違えたのかを考えるのさ。じっくり、ゆっくり考えて次は間違えないようにすればいい。
「大事なのは、はじめの一歩を踏み出す勇気。実力なんて後からついてくるからねー。んじゃ、最後に、はなむけにでも行きますか。」
手向けではなく餞と彼女は言った。これから始まる長い旅路、それは間違いなく苦難の道となる。わかっていて、手を貸さない。彼女には貸せる手がもうないのだから。
はためく白衣は質量をなくし、彼女は鳥のように空を駆け抜けていく。その後彼女を見たものはいない。
彼女はどこにでもいるのだから。それこそ空気のように。
第一部「project angel」(完)




