百九. 1864年、上京~投影~
「高杉」
玄瑞は、野山獄に収監されている晋作を訪ねる。
「ごほ、ごほっ」
晋作は書物を片手に咳き込んでいた。ふざけた頭とだらしない顔に反して、牢の中でも勉学に勤しんでいる。
「夏風邪でも引いたのか?」
玄瑞は格子の内を覗き込みながら訊いた。
「いや、噎せた」
晋作が咳の残る声で答える。どかっと玄瑞が格子に寄り掛り背中合わせに坐った。からかう様に
「齢かよ」
と、言う。
「そう言うお前も、なんか妙に老成したんじゃにゃーかえ」
「うるせえよ」
玄瑞は笑った。・・・既に手を回してあるとはいえ、晋作に尻拭いをさせる事になる事に軽い罪悪感を抱く。
玄瑞が京に発つにあたって、晋作を一時的に釈放し、来島・真木の御癸丑以来に対抗させる事が藩主敬親公との間で決った。詰りは、玄瑞不在時の仕事を晋作が肩代りするのだ。
・・・もう、晋作にしか頼れない。
「流石は異例の出世を遂げた敏腕政務役。犯罪者を獄から出すのも御手の物てか」
「小田村の兄さまの御蔭さ」
晋作は既に野山を訪れた小田村 伊之助より事情を聞いている。小田村は藩主敬親の側近となっており、歎願を聞き入れて貰えるよう取り計らってくれた。
玄瑞が頭を下げて訴えている時、敬親公は
『―――十余年前の寅を想い出す』
と、呟き、愉しげに破顔われた。10年以上前に松陰が脱藩騒ぎを起した時も、敬親公は全く同じ理由を言われたのだと云う。
『―――友人を、待たせている為』
『そうせい。そうせい』
と、敬親公は即答なされた。長州男児として他国の友人を大切にせよと云われた。
師が師なら弟子も弟子である。
『・・・待たされる方も叉、師弟とは』
と、敬親公は可笑しがった。・・・玄瑞も、つられて切ない表情で笑った。
「・・・済まないな」
玄瑞は謝る。晋作はいんや。と首を横に振った。
「毎日読書しか遣る事無くて詰らんところだったけぇな。其に、何も彼もが大楽の思い通りになるのは気に食わん」
・・・・・・。玄瑞は涙を堪えた。らしくもなく裏切られた様な心持ちになる。大楽は幼かった頃の自分にとって矢張り大きな存在だった。
「・・・・・・なんで大楽さんは、彦斎に執着するんだろうな」
玄瑞は唇を噛み締める。併し、零れる言葉を止める事は出来なかった。晋作は怪訝な表情をして、玄瑞の方を見る。そして
「は?」
と、間の抜けた大きめの声を上げた。
「お前、そんな事も分らんで今迄大楽の相手してたの?」
玄瑞は顔を上げ、驚いた表情で晋作を見る。晋作は頬を引きつらせて「えっ、マジかよ!?」と叫んだ。
「何つーか・・・お前、悪意に対してホント疎いよな・・・友達甲斐ねぇわー」
「えっ?」
藩主公からは友人想いとお褒めを受けたのに。晋作の友達甲斐無い発言に、玄瑞は意外と地味に傷ついた。
「大楽が執着してんのは、彦斎じゃねぇよ」
・・・晋作は書物を閉じ、呆れた声で言った。
「松陰先生だ」
玄瑞は直感的な理解に苦しんだ。松陰はもう此の世の人でない。執着も何も居ないではないかという医者ならではの思考が玄瑞の中で働いていた。
「・・・大楽は、松陰先生を嫉妬んでんだよ」
「其と彦斎を捲き込む事に、何の関係が・・・」
「堤が死ぬ事になったのは、俺が堤と関ったからだ」
「意味が解らない。解る様に話せ」
「解んねえか」
・・・晋作は溜息を吐いた。元より、玄瑞に理解しろという方が無理な話か。才覚に恵まれ、比較されても常に優位に立ってきた秀才に。
「大楽の奴は、松下村塾生に松陰先生を、肥後勤皇党の人達に宮部先生を重ねていんのさ。松陰先生は、藩内では随分前から評判の御人ではあったが、藩外で初めて松陰先生を認めたのは宮部先生を始めとした肥後の人達だった。其から瞬く間に松陰先生の名は全国に拡がった―――・・・お前も、宮部先生の伝手で松下村塾に入塾ったんだろう。大楽にしてみりゃ、松陰先生も気に入らないが、松陰先生の派閥の拡大に手を貸した宮部先生も気に入らなかったんだよ」
玄瑞は雷に打たれた様にぴくりとも動かない。・・・晋作の方が息苦しくなり、胸を押えて再び咳をした。
「大楽は、お前が松下村塾に入塾る前に戻したいんだ」
晋作は静かな声で言った。
「・・・・・・松陰先生の影響力が大きくなる前に―――な」
玄瑞が松下村塾に入塾した事で松陰の思想は実現へと大きく舵を切った。玄瑞が遺志を継がなければ、松陰は単なる狂人の扱いを受け松下村塾勢力は一代で絶えた。
「大楽の中で、お前は松陰先生で、彦斎は宮部先生なんだ」
―――故に、その関係を壊す事で松下村塾勢力を白紙に戻す。現に、大楽はこののち晋作が四境戦争を経て病に臥した頃、西山書屋という塾を宮市に立ち上げ、松陰と同じ遣り方を用いて一大政党を築き上げる。その政党が明治に入り、大村 益次郎の暗殺に走る事になるのだが。
「・・・っ、じゃあ、象山先生の暗殺というのは―――・・・」
玄瑞は絶句した。・・・・・・。晋作はそんな玄瑞を気の毒な眼で見る。玄瑞自身は特に道を外してはいない。ただ周りが―――兄である玄機も含めて―――色々と極端だったのだ。
「――――松陰先生の、師だから――――・・・・・・?」
「其は知らん」
晋作は半ば喰い気味に言った。
「象山先生は大楽が最も嫌う開国論者だ。そんな詰らん理由なら、俺が大楽を殺してやる。・・・・・・只、彦斎を捲き込んだのは、お前と彦斎の関係に亀裂を入れる為かも知れん。・・・・・・松陰先生と宮部先生の、共通の師を失う事にもなるしな」
・・・・・・だから只の他藩人だと忠告したのか―――・・・
玄瑞は遂に完膚無き迄に叩きのめされる。最早、涙も出なくなった。
「・・・・・・・・・一体、俺は何処で間違ったんだろう・・・・・・・・・」
玄瑞は掠れた声で呟いた。松下村塾に入塾した事か。九州に遊学した事か。抑々(そもそも)平安古に生れた事か。もう、分らない。
「間違っているのは責任の所在を自分に求めているところだ!確りしろ!!大楽が偶々(たまたま)嫉妬深い男だっただけの事だ!!」
晋作が格子をがんがん叩いて弁明する。併し、晋作と違い玄瑞は、大楽に昔年の面影を歴然と感じている。恩もあるし、いつからこんな風になって仕舞ったのだろうという疑問も浮ぶ。何より、自分は先走っていただけで実は何も視ていなかったのではないかと疑う。
「・・・・・・・・・」
「久坂!!」
・・・・・・玄瑞は再び顔を上げる。先刻、夕陽を前に誓ったばかりだ。自分が沈む事はあっても、決してこの国を沈めてはならない。
この国は、まだまだ沢山の血を必要としている。自身の血だけでは到底足りない。だから天誅を実行してきた。
天誅に於いて遣ってはならない事は、殺めるべき対象を間違える事である。
この刻、玄瑞ははっきりと天誅の対象を見極めた。
「・・・・・・其でも」
玄瑞は晋作に言った。
「俺が決着をつけなければならない事だ」
・・・・・・今日、発した中で最も穏かな声だった。大楽の所為にしようとせまいと、玄瑞の側から出来る事は限られている。叉、大楽からは既に色々と受けた。今度は玄瑞が遣らねばならぬ番だ。
「大楽さんは俺が連れて往くよ」
・・・は?と晋作は間抜な声を出した。だが、見る見る表情が険しくなってゆく。・・・次に発した声は震えて
「・・・おい、早まるなよ」
「死に急ぐ気はねぇよ。・・・・・・でも、相手は御癸丑以来だからな」
・・・宮部の言った“誘爆”とはこの事か、と実感する。まさかここ迄直接的に暴発に捲き込まれるとは思わなかった。
自身や他人を大楽に引き摺らせないだけの強い力も無く、私情を排して暗殺者を差し向けるだけの強い心も叉、持てなかった。
―――俺はなんて勝手な人間なんだろうな
「・・・・・・其に、大楽さんともいつか議論をしたいと思っていたんだ」
玄瑞は大楽と心中する覚悟を決めた。その形跡が禁門の変時の隊の編制に見られる。玄瑞は自ら率いる山崎隊に大楽を所属させ、その中でも書記係という自身の側近に近い位置に置いた。
蓋を開けてみれば、以前に述べた通りである。
「―――若し、俺だけ先に逝った時は、肥後さんに迷惑が掛らないよう、頼むな」
玄瑞もある程度の想像はしていたらしく、晋作に最後にこんな言葉を遺した。
「・・・・・・馬鹿」
晋作は袖で顔を覆い、呟く。
「そうやって、いつでも俺に後始末をさせるところがお前に唯一年下と感じる部分だよ―――」
晋作は何気に玄瑞等先駆者の取り落したものを着実に補っていた。下関砲撃も、禁門の変も、四国連合艦隊戦争、幕長戦争と名を変えて後に引き摺る。玄瑞の蒔いた種を全て回収し終えた時、晋作の生は終るのだ。
そして、その間、晋作の傍には人斬り彦斎が居る。
晋作と別離れ、玄瑞は遂に京に来た。
「・・・・・・」
京中に入る事が之程大変な事だと、之迄知らなかった。・・・想い返してみれば、ここ迄こそこそしなければならない状況は、政変後の入京でも経験が無かった。・・・・・・山口や、稔麿や、彦斎がついていたから堂々と歩いて来られたのだと実感する。同時に、その誰もが自分の許を去って仕舞った現実を、改めて突きつけられた。
「・・・彦斎」
京の荒廃具合は天誅開始以来最悪となっており、夜には生きた人間が居らず死体ばかりがゴロゴロと転がっていた。墨をぶち撒けた様に路上や壁を血が黒く染め抜いて、猶一層の闇を深くしている。悪鬼が潜んでいるかの様だった。
彦斎が遣ったのだろうかという予感が過る。
「・・・っ、彦斎っ」
玄瑞は自身の身を顧みず捜し始める。もう遅いかも知れない。だが、まだ間に合うかも知れない。早く見つけておきたかった。自身の手がまだ届く内に。
壊れ、死に、遠くに往って仕舞う前に
「何処に居るんだ、おい!」
玄瑞は形振り構わず叫んだ。―――がさり、と背後で音がし、漸くふっと我に返る。
(仕舞った―――幕吏か)
普通に考えれば幕吏である。こんな処で大声を上げては捕まえてくれと言っている様なものだ。冷静さを欠いた行動を悔いる。
・・・玄瑞は刀の柄を握った。玄瑞の胸の高さ迄あるその刀は、兄・玄機の形見であった。
「!」
玄瑞は柄から手を放した。・・・玄瑞の背後に居たのは、幕吏ではなく乞食だった。ぼろぼろの衣服を纏い、其より遙かに身形の綺麗な死体達の所有物を剥ぎ取って我が物にしていた。
「・・・・・・・・・」
乞食は一通りの動作を終えてふらふらと道端に蹲る。呆然と自身を見る玄瑞と眼が合うと、ポタポタと涙を流した。
玄瑞は驚く一方で、其処は彼とない既視感を抱く。
(―――。この貌、何処かで―――・・・)
口許にほくろがあり、背は高く、併し一頃と比べると非常に痩せていた。まるで―――まるで、飼い主を失った犬の様―――・・・
「―――岡田さん?」
乞食はすくませた瞳を見開いた。間違い無い。武市の人斬りの岡田 以蔵だ。武市と連絡が絶えてから以蔵の消息も知れぬ侭となっていたが、土佐に帰らず、京の地で落魄していようとは思わなかった。
併し、履物さえ無い裸足の男は“岡田 以蔵”という名に反応こそするものの
「―――違います」
・・・・・・自身が岡田 以蔵である事を否定し
「・・・・・・私は無宿鉄蔵です」
と、頑なに言い張った。
「!?」
玄瑞は困惑する。一体、以蔵の身に何が起きたというのだ。以蔵の腰には刀が無く、其以前に袴も着けておらず、まるで死に装束の如く白い襦袢しか纏っていなかった。
「・・・・・・!」
腕を見ると、入墨が施してある。以前逢った時には無かったものだ。以蔵は名前を奪われ、土佐人としての籍も奪われ、罪人の証である入墨を彫られ、洛外追放の刑を受けていた。
「岡田さん、一体何が―――」
「長州の久坂 玄瑞だな?」
――――・・・ 玄瑞は視線をゆっくりと後ろへ動かす。完全に以蔵に気を取られていた。
京都所司代――――
「無宿鉄蔵が岡田 以蔵であるという訴えは真であったか」
・・・・・・。玄瑞は視線を戻し、今一度以蔵を見た。様々な疑問が一遍に過る。
以蔵がこの場処に居るのは態となのか。以蔵は所司代に利用されていたというのか。
―――そして自分は、とんでもない証言をして仕舞ったのではないか
「孰れにせよ“志士”と呼ばれる類は捕縛か斬殺するよう幕府より御達しがあるものでな」
役人が刃を玄瑞に向ける。玄瑞は眼を見開いた。以蔵は相当弱っておりもう戦えない。其でも脇差を一本彼に手渡した。
「・・・・・・逃げろ。その刀を使って」
・・・誰もいないという事をつくづく痛感させられる。
「覚悟せよ、久坂 玄瑞」




