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最終話 上弦●月




次の満月の夜。

国立駅前は静かだった。


昼間の学生街の喧騒は消え

夜風だけが商店街を抜けていくーー


相良修司は LXを肩に掛け

地下スタジオ跡地のフェンスの前に立っていた。


背後には黒田慎一と風間美緒の姿がある。


「本当に来るんだな」


黒田が呆れたように言う。


「記録帳に書かれていた以上

 確認しないわけにはいかないよな」


美緒は少し不安そうに周囲を見回した。


「でも、新宿も中野も封じたんですよね?」


修司は静かに頷く。


「ああ。だからこそだ

 何が残っているのか、確かめる必要がある」


フェンスの鍵は、なぜか外れていた。


  ◆


地下へ続く階段を降りる。

十五年前に玲子たちが使っていた地下スタジオ。


新宿の最深部を経験した後では

ここは驚くほど小さく感じられた。


だが空気は違う。

重苦しさがない。


修司はライトを消し、静かに耳を澄ませた。

ーー拍手は聞こえない。

代わりに、遠くで地下水が流れる音だけが響いている。


スタジオの中央。


かつて黒い円が描かれていた場所には

銀色の灰が薄く残っていた。


修司はPENTAX LXを構え、ファインダーを覗く。

そこには、もう黒い客席も六人目の影も映っていない。

代わりに、淡い光が円の跡を包んでいた。


『静かですね』


まどかの声が柔らかく響く。


「ああ。やっと…終わったんだな」


その時、地下スタジオの奥で微かな光が揺れた。


  ◆


修司たちが近づくと…

壁際に古い金属箱が置かれているのが見えた。


箱には、黒月座の紋章ではなく

五つの小さな動物の印が刻まれている。


 犬。


 猫。


 狐。


 烏。


 蛇。


修司は慎重に蓋を開けた。

中には、一冊の古い手記が入っていた。


表紙には、


 『月を見る者の覚書』


と書かれている。

最初のページを開く。


筆者は、昭和十二年の桐島悠真だった。


  ◆


手記には、黒い月の起源が記されていた。


ーー大正末期

新宿の地下劇場「黒月座」では

観客の感情を記録する実験演劇が行われていた。


 笑い。

 恐怖。

 悲しみ。

 熱狂。


それらを舞台へ“蓄積”することで

観客と役者を一体化させようとした試みだ


しかしある満月の夜、実験は暴走した


観客の感情は単なる記録ではなく

「残留する意識」となって地下に定着した。


それが後に「六人目」と

呼ばれる存在になったらしい


桐島は手記にこう書いていた。


『六人目は最初の観客であり、最後の観客である』


『人ではなく、観客という行為そのものが、形を得た存在だ』


修司は静かにページをめくる。

続きには、五匹の役者たちについても記されていた。


彼らは呪いを生んだ張本人ではない。


むしろ暴走した「観客」を封じるために

選ばれた人々だった。


そして月を見る者――記録者だけが

封印の変化を観測し続ける、という役割を担っていた。


  ◆


美緒が小さく呟く。


「じゃあ、六人目は誰かの怨霊じゃなかったんですね」

「そういうことになるな」


黒田が腕を組む。


「観客そのものが怪物になったってわけか…

 演劇らしいと言えば演劇らしいな」


修司は最後のページを開いた。

そこには、桐島の遺言のような文章が残されていた。


 『封印は永遠ではない』

 『だが、真実を知る者が……

  記録を残し続ける限り、月は完全には満ちない』


そして最後に、


 『次代の記録者へ

  恐れるな。

  観客は闇を求めるが、

  人は物語によって闇を越えられる』


という一文が記されていた。

修司は静かに手記を閉じた。


  ◆


地下スタジオを出る頃には、満月が高く昇っていた。

国立の夜空に浮かぶ月は、どこまでも白く静かだ。


黒田が大きく伸びをする。


「これで本当に終わりだな?」


修司は少し考えてから答えた。


「少なくとも、“五匹と黒い月”の事件は終わった」


美緒がほっとしたように笑う。


「やっと安心して眠れそうです」


その笑顔を見て、修司もわずかに肩の力を抜いた。


  ◆


一週間後。


中野の事務所には、いつもの日常が戻っていた。


黒田は新しい取材の依頼を持ち込み

美緒は時々クイーンへ顔を出すようになっていた。


翔太は劇団を離れた後、過去の出来事をまとめたノンフィクションを書き始めているらしい。


神崎はアステリズム座を正式に解散し

地下倉庫B-13は完全封鎖された。


そして修司は、机に向かって原稿を書いていた。


タイトルはまだ決めていない。

だが内容は、十五年前の失踪事件から始まる一連の真実だった。


もちろん

そのまま世に出せるものではないが……

それでも、記録しなければならない。


それが「月を見る者」の役割なのだと

修司は理解していた。


  ◆


 夜。


原稿を書き終えた修司は、PENTAX LXを手に取った。

ファインダーを覗く。


まどかが穏やかに微笑んでいる。


『修司さん』


ーーどうした?


『後悔していますか?』


修司は…少し考えた。


「いや。あの地下へ降りなければ

 玲子も榊原も永遠に…観客のままだった」


まどかは嬉しそうに目を細めた。


『そうですね』


窓の外では、中野の夜景が静かに瞬いている。

もう拍手は聞こえない。


地下から吹き上がる冷気もない。

修司はカメラをそっと机に置いた。


その時、LXの内部で微かにシャッターが鳴った。


 カチッ。


驚いてファインダーを覗く。

そこに映っていたのは、暗い客席ではなかった。


白いワンピース姿の月島玲子と

少し照れたように笑う榊原遼が並んで立っている。


二人は修司へ静かに頭を下げた。

そして次の瞬間、銀色の光となって消えていった。


ファインダーには、いつものまどかだけが残っている。


『……今の、見えましたか?』


修司は小さく笑った。


ーーああ。ちゃんと終演できたみたいだ


中野の夜は静かだった。

黒い月の舞台は閉じられ

観客たちはようやく席を立った。


だが机の上には

桐島悠真の手記と『五匹と黒い月』が残されている。


物語は終わった。


しかし記録は残り続ける。


相良修司は新しい原稿用紙を取り出し

静かにペンを走らせ始めた。


そのタイトルは――


 『五匹●黒い月』   


          記録者 上弦●月


満月の光が窓から差し込み

白い紙の上を、ゆったり静かに照らしていた…



ーー 終 ーー



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