第41話 席の名前が、変わった日
「渡したいものがある」という言葉は、翌朝になっても消えていなかった。
馬車に乗った。窓の外を景色が流れた。セドリックが隣に座っていた。手帳を膝に置いていた。フィリーネも窓の外を見た。訊かなかった。昨日廊下でヘルマンに告げられてから、1度も訊いていなかった。訊けなかった、という話ではなかった。今日は——訊かないことを、選んでいた。選んでいる、ということを今朝気づいた。昨夜まで気づいていなかった。言えなかったことと、言いたくなかったことの間に、違いがある。昨夜だけ、それがわかった。
訊かないまま、馬車が止まった。
◇
会場の正面で、リナルドが手帳を開いた。
「本日のご席次でございます」
小声だった。円卓の図と席の位置が書いてあった。上手寄りの1席。来たことのない場所ではなかったが、名前の書かれた席として来るのは——初めてだった。
広間に入った。来客が多かった。カミーラが去ってから初めての社交の場だったが、何がどう変わったかを確かめる余裕はなかった。視線が集まることはわかっていた。「格不足の婚約者」という空気が消えていないことも、わかっていた。その視線の中を、フィリーネは歩いた。円卓の前に来た。名札があった。
「フィリーネ・ヴェルティーン公爵婚約者」。
当然の表記だとわかっていた。婚約者として来ている。席があるのは当然だった。わかっていた。それでも——名前を見るのに、3秒かかった。3秒、ただ見た。リナルドが後ろにいたが、何も言わなかった。3秒が過ぎて、椅子を引いた。座った。
座ることに3秒かかったことを、誰にも言えなかったが、かかった。
◇
広間は明るかった。
セドリックは別の方向の席についていた。斜め向かいだった。来客に囲まれていた。フィリーネの方は見ていなかった。
右隣の婦人が軽く頭を下げた。返した。家名と名前を着席した瞬間に確認した。当たり障りのない挨拶が2往復あって、婦人の目がフィリーネの胸元に落ちた。
「お花が、よくお似合いですわね」
「……ありがとうございます」
「これは、何の花でしょう」
カモミールだった。リナルドが今日のために用意した1輪だった。「来客のために」ではなく「あなたがつけるために」という言い方で、朝に渡された。その区別がまだよくわからなかったが、つけていた。
「カモミールです。野生種に近い品種で、白くて小さい花です。園芸種より葉の幅が細くて……」
続きが出そうだった。日照と水はけの好みのこと、開花のタイミングのこと、野生種と園芸種で香りが違うこと——全部出てきそうだった。来客に話す内容ではなかった。止めた。
「詳しいのですね」と婦人が言った。
「……好きなのです」と言った。
言ってから——修正しなかった。
「好きなのです」と言った。管理者として調べた、ではなかった。役立てるために把握した、でもなかった。「好きだから知っている」という順番で言葉が出た。22年間ずっと「必要だから調べた」という順番で言ってきた。今日は逆だった。逆のまま、置いた。修正のための一拍が来た——来たが、言い直す言葉が出なかった。出なかったまま、過ぎた。
婦人が「素敵ですわね」と言った。「公爵邸の庭も、きっと美しいでしょう」
「……おかげさまで」
「ご自分で管理なさっているのですか」
「今は、少し変わっております」
変わっております、の続きがなかった。「2人で、庭に出ることがあります」と言えるだけの言葉がまだ足りなかった。茶を一口飲んだ。
婦人からは「管理者として」は来なかった。「詳しいのですね」と言われた。次の話に移って、そのまま会話が流れた。管理者としての評価とは少し違う場所に、今日の会話は着地した。
斜め向かいでセドリックが来客と話していた。視線は向けなかった。向けなかったが——いる、とわかった。
◇
夕方、広間が解け始めた頃に廊下へ出た。
燭台の光が等間隔に並んでいた。整った廊下だった。靴の音だけがしばらく続いた。次の挨拶の相手を探していたが、誰もいなかった。
「……よろしゅうございましたわ」
後ろから声がした。振り返った。
侯爵夫人だった。白い手袋。背筋が真直ぐだった。今日ここにいたとは気づいていなかった。——いなかったわけがなかった、と思い直した。
「……本日は、ありがとうございます」
侯爵夫人が一拍置いた。
「公爵夫人として、ご立派でございましたわ」
来なかった。
「管理者として」という言葉が、来なかった。
フィリーネは1秒固まった。「……ありがとうございます」と返した。声の形が業務報告のままだった。感情に名前をつける前に、返事が出た。
侯爵夫人は微笑んだまま歩いていった。手袋が一度も外れなかった。
フィリーネはその場で、燭台を見た。
言わなかった。今日は言わなかった。諦めたのか、別の何かを始めたのか。諦めたとは思わなかった。侯爵夫人は諦める人ではなかった。そういう人だと、初めて会ったときから知っていた。手袋が外れないのと同じように、変わらない人だった。
では今日の「なさ」は——何だったのか。
その問いを廊下に置いたまま、フィリーネは歩いた。
◇
帰路の馬車は静かだった。
セドリックが窓の外を見ていた。フィリーネも窓の外を見た。
「……椅子に座ることに、3秒かかりました」
言うつもりではなかった。馬車の揺れの中で出た。
「……3秒か」とセドリックが言った。
「はい。席に名前が書いてありました。見慣れない名前でしたので」
「慣れる」とセドリックが言った。短かった。余計な言葉がなかった。
「……そうですね」と返した。
夜道が流れた。「管理者として、が来ませんでした」とも言いかけた。言いかけて——止めた。言葉にすると、自分で確認することになる気がした。確認して、信じてしまう前に——もう少しだけ、わからないままにしていたかった。わからないまま抱えている時間が、今日はまだ必要な気がした。
◇
帰宅してすぐ、ヘルマンが廊下に来た。
「伯爵家からお手紙が届いております」
フィリーネは受け取った。便箋の柄が少し華やかだった。姉の筆跡だとわかった。開封した。
婚約した、と書いてあった。相手の名前と家名があった。先月にお会いした方だと書いてあった。話が良い方向に進んだと書いてあった。家も、父も、喜んでいると書いてあった。
フィリーネは手紙を持ったまま止まった。
「……姉が婚約しました」とセドリックに言った。「……おめでとうと言っていい話か」とセドリックが訊いた。「……はい」と言った。「お父様が、カモミールに水をやっているそうです」とも言った。「……毎日」とも言った。言わなくていいことを言った。——言いたかったから言った。




