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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第2章 全部間違っていて、全部わたしのためだった

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第3話 47番の壺の隣に、わたしの名前はなかった

 昨日、リナルドが黙ったままだった。


 沈黙の意味はわからない。合格か不合格か。30年のキャリアの沈黙は、普通の人間の沈黙と厚みが違う。どちらの可能性も、重く感じた。


 厨房へ降りると、棚の前でリナルドが待っていた。


「本日は——お茶の確認をさせていただきます」


 昨日の続きだった。試験の第2段階だと、すぐわかった。


 棚の前に立った。47本の壺が並んでいる。全部のラベルが覚えている字で書かれている。字体が人によって違う。長年この屋敷に来た人間の名前が全部、このラベルに刻まれていた。


「ヴェルティーン公爵閣下のお好みをお聞きします」


 私は答えた。80度。左利き。レモン系統。甘さ控えめ。来客3度目の訪問から記録して更新している。——リナルドが一言も言わなかった。


「前伯爵家のご来客の記録はありますか」


 あった。棚の37番から41番。年代順に並べてある。私が整えたのではなく、それ以前からある記録だった。


 リナルドの問いに全部答えた後、沈黙が来た。昨日と同じ沈黙。


 廊下にヘルマンが立っているのが見えた。記録帳を持って、何かを書いている。


「……リナルドさんが黙られているのは」


 ヘルマンが記録帳から顔を上げた。


「沈黙は合格のときでございます、フィリーネ様。リナルドは不合格のとき、必ず一言言います。30年の習慣でございますので、沈黙の種類が違います」


 合格。


 その言葉が頭に入ってきて——一瞬だけ、別のことを考えた。


 ——では今まで、家族の沈黙は、全部。


 考えを止めた。厨房ではない話だった。


 リナルドが棚に向き直った。ラベルを一本一本確認するような目で見ていた。——私も、そこを見ていた。47番の壺。その隣の、空白。ラベルのない、空きの棚。


 私の名前は、ない。


 来客でないから当然だった。来客のための棚だから。でも——棚の端の空白が、22年間の椅子の空白と、全く同じ形に見えた。


 気のせいかもしれない。


 今日は、気のせいにしなかった。


 リナルドが厨房を出た後も、棚の前に立っていた。ヘルマンの足音も廊下の奥に消えた。


 47番の隣の空きに、ラベルのない小さな壺が一つある。使われた形跡がない。いつ誰が置いたのかわからない。ただ、そこにある。


 棚の下の引き出しに、予備のラベルと羽根ペンが入っていることを知っていた。2日前に整理したとき、確認していた。


 引き出しを開けた。羽根ペンを取り出した。


 手が、動いた。


 F——と書いて、止まった。


 1文字だけ残った。続けようとした手が、ラベルの上で静止している。フィリーネ・ウェーゼルまで書く権利が自分にあるかどうか、わからなかった。来客ではない。婚約者。——その言葉が、まだ身体に馴染んでいなかった。22年間、誰かのために整えることで「ここに居ていい」理由を作ってきた。理由のない居場所に名前を書く方法を、習ったことがなかった。


 だから、「F」だけになった。


「……何を書いた」


 声がした。


 振り返ると、セドリックが厨房の入口に立っていた。腕を組んでいる。廊下からこの棚が一直線に見えることは、最初の日に確認していた。いつからいたのかは、聞かなかった。


「F、だけです」


「F。」


 繰り返した。それだけで、何も言わなかった。


「……書いてはいけませんでしたか」


「——好きにしろ」


 4文字が届いた瞬間、息が0.7秒だけ止まった。昨日まで0.3秒で消せていたものが、今日は少し長く残った。消えるまでの時間が、伸びた。「好きにしろ」という言葉が、業務上の指示の形をしていなかった。それだけは、わかった。気づかないうちに、消えた。


 壺を棚の端に戻した。「F」のラベルがついたまま。書いてよかったかどうか、答えはまだ出ない。ただ、消さなかった。壺は棚の端に、ある。


 セドリックが廊下へ戻る気配がした。


 来客用でない茶葉の棚に向かった。この屋敷の常備品が4種類、並んでいる。


 何を選んでもいい。——その状況に、22年間、慣れたことがなかった。


 5秒、缶を見た。選ぶ理由がない、というのが、選べない理由になる。


 1本、取り出した。ダージリン。昨日セドリックのお茶の温度を確認したとき、隣に見えた銘柄だった。隣にあったから、というだけだった。それでいい、と思った。思った後、少し手が止まった。「それでいい」と思えたのは——22年で初めてに、近い。


 お茶を淹れた。自分の分だけ。


 飲んだ。


 温度は計らなかった。初めて、計らずに飲んだ。


 1杯で止めようとして、止めかけて——もう1杯、注いだ。


 2杯目を飲みながら、棚の「F」の壺を見た。ラベルは途中のまま。名前ではない。イニシャルだけ。でも書いた事実は消えない。棚の端に、ある。


 厨房の扉口から、ヘルマンが顔だけ出した。


「……記録させていただいてよろしいですか、フィリーネ様」


「何をですか」


「フィリーネ様が本日、ご自身のお茶を2杯お飲みになった件でございます」


 返事をするより先に、記録帳に書き始めた。


「……許可を先に取るのが順序では」


「後からでも記録は有効でございます、フィリーネ様」


 笑いが出そうになった。昨日声に出して笑ったのは、ここに来て初めてだった。今日は出なかった。出そうになった、という事実だけを確認して、カップを置いた。


 ヘルマンが記録帳を閉じた。閉じるとき、日付を小声で確認した。いつもの習慣だった。


 この日付が、どういう意味を持つことになるか。私はまだ知らない。


 厨房を出た。廊下の奥に、帳簿室の扉が見えた。半開きになっている。財務帳簿が3ヶ月分、棚に積み上がったままなのは、2日前から知っていた。手が回っていない、というのではなく——管理する役割がまだ誰にも割り当てられていない、という積み方だった。


 足が、止まった。扉の隙間から、棚の積み方が見えた。3ヶ月分の帳簿は、放置されているのではなかった。ただ、誰かの手が足りていない——そういう積み方だった。


 今日は、出さなかった。手を。


 「F」だけの壺を、一度だけ振り返った。


 棚の端で、傾くことなく立っていた。

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