第2話 手を入れずに、そのままにした。初めて
目が覚めたとき、部屋は静かだった。
6時だった。伯爵家と同じ時刻に、身体が起きた。廊下の向こうで、屋敷が動き始める音がした。使用人が早朝から仕事をしている音だった。伯爵家と同じ音だと思った。ここも、誰かがずっと整えている。
窓辺に、カモミールがあった。昨夜はなかった。不揃いな茎が2本、細い花瓶に差してある。花弁が少し傾いている。茎の切り口が荒い。
不揃いな茎。荒い切り口。誰が置いたか、わかった。
直しかけた。茎の角度を、ちゃんとした切り方に。
止めた。手が空中で止まった。花の角度と、止まった手とが、同じくらいどうしようもない形で、窓辺に並んでいた。
この人間が、正しい切り方を知っていたとは思えなかった。でもこの角度で差した。——自分でやったという事実だけが、残っている形だった。
朝の光が窓に入った。カモミールが、傾いたままそこにあった。
部屋が静かだった。直さないでいると、何か起きると思っていた。何も起きなかった。止めた手が、膝の上で落ち着いていた。それだけ確認して、廊下へ出た。
厨房へ降りた。棚の前を通り過ぎるとき、47番の壺のラベルに目がいった。来客の名前がびっしりと並んだ棚。全部、誰かのために。48番の空きに、視線が一瞬止まった。来客のラベルだから当然だった。それはわかっている。でも47番の隣の空白が、何かに似ていた。気のせいかもしれないと思う前に、厨房を出た。
食堂の扉を開けたとき、テーブルの上の光景に足が止まった。
カップの取っ手が右を向いている。私は右利きだから、向きは合っている。でも角度が微妙にずれていて、慣れない人間が置いたとわかる。トーストが1枚、片面だけほんの少し焦げている。お茶の湯気が分厚い。92度はある。花瓶の水面に小さな乱れがあった。何度かやり直した痕。痕の形で、誰が用意したかわかった。
「……おはようございます」
「ああ」
壁を背にセドリックが立っていた。腕を組んでいる。耳が、少しだけ赤い。
カップを直しかけた。取っ手の角度を正確な位置に。——手が、止まった。
私は右利きだ。取っ手は右を向いている。合っている。角度だけが微妙にずれている。
——この人が、右利きだと知って、右に向けた。
取っ手を直さないまま、席に座った。焦げたトーストを1枚取った。昨夜、クッションの刺繍を直さなかったのと同じように。
直したい、と思った。手が伸びた。止めた。——止めた後、何も悪いことが起きなかった。22年間、何かが起きると思って直し続けてきた。何も、起きなかった。
「温度が」
「90度だろう。わかっている」
「92度です」
「……善処する」
「厳守と申し上げました」
「明日こそは」
「それは昨日もおっしゃいました」
沈黙が落ちた。お茶の取っ手を直さないまま飲んだ。焦げた片面を食べた。少し苦かった。——初めて、右で飲んだ。
ヘルマンが食堂に入ってきたのは、そのときだった。記録帳を胸に抱えて、いつもと同じ穏やかな顔で扉を閉める。
「閣下。本日の朝食準備について、補足の記録をさせていただきたく」
「必要ない」
「ございます」
ヘルマンが記録帳を開いた。
「午前3時42分。お茶の温度確認のため、温度計をお探しになりました。砂時計をお手に取られ——15分、お待ちになりました」
別の種類の沈黙が落ちた。
「……砂時計では温度は測れないが」
「おっしゃる通りでございます。なお今回で3度目でございます、閣下」
声が出た。喉の奥から出てきた音が、笑い声だと気づくのに少し間があった。手が膝の上で止まったまま、笑い声が続いていた。
セドリックが私を見た。耳が、さっきより赤い。
「……失礼だった」
「いいえ」
ヘルマンが記録帳の表紙をそっと閉じた。日付を声に出して確認した。その声が、儀式のようだった。毎回そうするのだろうかと思った。
「何を記録されているのですか」
「閣下の耳が赤くなった回数でございます」
「……何のために」
「いずれ、ご本人にお見せする予定で」
「本人というのは——誰のことですか」
ヘルマンが少しだけ間を置いた。
「……それは、まだ申し上げられません」
食堂を出た。
廊下に、足音があった。硬い靴音。間が均等で、感情のない歩き方だった。角を曲がると、人影が立っていた。
白髪交じりの銀髪。完璧に整った制服。左の袖口まで、1ミリの乱れもない。
「おはようございます、フィリーネ様。——あなたに、公爵閣下のお茶の温度がわかりますか。30年、私が管理してきた屋敷でございます」
声は低く、感情がなかった。試験だと隠す気がない。
私はその目を1秒だけ見た。立っているのに、手が膝を探した。
「80度厳守、左利き、レモン系統。ご存知のことと存じますが——念のため」
リナルドが黙った。
合格か不合格か、わからなかった。ただ、この沈黙の重さがしばらく続くことは——なんとなく、わかった。
廊下の角を曲がった後も、あの沈黙の意味が尾を引いていた。自分の答えは全部揃っていた。それでも何かが足りないような空気が、廊下に残っていた。その何かが何なのか、今日中にはわからない気がした。
庭に出たのは、昼前のことだった。
花壇の端に、水やり用の桶が1つ掛けてあった。
手を伸ばして——止まった。
来客の庭ではない。でも私の庭とも言えない。桶に手をかけたまま、理由が出てこなかった。22年間、理由は先にあった。来客が来る、会合がある、誰かが必要とする——その前に動いていた。今は誰も必要としていない。桶の前に立っているだけだった。
——水をやった。
桶を傾けて、カモミールの根元に注いだ。水が土に沁みていった。手の甲に、冷たい一粒が落ちた。花弁の縁にも一粒だけ残った。傾いたまま、受け取っていた。
直さなかった。
桶を戻した。石畳の上で、ぬれた手の甲が少し冷えていた。次に何をすべきかしばらく出てこなかった。22年間、次の仕事は先に見えていた。今日の昼前の庭に、次は見えなかった。
廊下に戻ったとき、書斎の扉が半分開いていた。その隙間から、誰かが庭を見ていたような気がした。
——見ていても、いなくても、私は水をやっていた。




