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「連載版」いつも後回しの私に、公爵様だけが気づきました  作者: 夢見叶
第1章 空のグラスに、公爵家の目が止まった

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第1話 空のグラスに、公爵家の目が止まった

 6客目の白磁を棚に戻して、フィリーネは自分の分がないことを確認した。


 毎朝のことだ。来客用は揃いの6客。自分の茶碗は部屋にある——取っ手を小麦糊で継いだ古い陶器で、半分より上に注ぐと漏れる。


 窓辺のグラスに、枯れたカモミールの茎が入ったままだった。先月、客間で余った1本を差しておいたが、水を替える暇がないうちに枯れた。捨て忘れている。


 今日は姉のお見合いだった。


 公爵家の紋章にアネモネが入っていることは紋章録で調べてあった。だから花は白のアネモネにした。花言葉は「期待」。姉の席にはちょうどいい。


 ――自分のお見合いに選ぶなら、カモミールがいい。花言葉は「逆境に耐える力」。似合いすぎる。


 誰かが選んでくれたら、と。思った。


 手が動いた。花弁の角度を直した。茶托の位置を拳ひとつ分ずらした。窓の開き具合を確かめた。午後の光が椅子の背に落ちる角度を計算して、カーテンの丈を片側だけ3寸詰めた。焼き菓子にはレモンの皮を入れた。


「フィリーネ、あなたの支度はいいのよ。席に出るのは姉が先でしょう」


 母の声を、焼き型を竈から引き出しながら聞いた。


 知っている。私の順番はいつも「あとで」だ。あとで、あとで、ずっとあとで。


 ――そして「あとで」は、まだ1度も来たことがない。



 セドリック・ヴェルティーン公爵は、時間ぴったりに到着した。


 フィリーネは隣の小部屋で茶葉を量りながら、壁越しに会話を聞いていた。


「お花が綺麗ですわね」


 姉の声だ。


「ええ」


「公爵様のお好みをお伺いして、アネモネをご用意いたしましたの」


 フィリーネの手が、止まった。


「このお花を選んだのは、あなたですか」


 低い声だった。短い。余計な音がない。


「えっ? ええと、フィリーネが――あ、妹です。妹が選んだのかしら。私、お花のことはあまり」


「お茶も」


「それもフィリーネに。私、お茶の種類がよくわからなくて」


「菓子は」


「フィリーネが焼きました。フィリーネ、お菓子の上手な妹がおりまして」


「――カーテンの丈が、左右で違いますが」


「フィリーネだと思います」


「窓の角度も」


「……フィリーネだと思います。あの子、窓の角度にうるさいんです」


 フィリーネは小部屋で額を押さえた。


 姉。お見合いの席で、全部の功績を妹に返さないでほしい。もっとも、嘘をつけないのは姉の美点のひとつだ。


「この部屋を整えた方に、会いたい」


 セドリックが言った。


 母が「はあ」と間の抜けた声を出した。


 フィリーネは1煎目の温度を確かめてから――80度、公爵領の作法に合わせた――客間に向かった。


 扉を開けた瞬間、紺色の視線がぶつかった。


 その目が「やっと」と言っているように見えたのは、気のせいだったと思う。



「茶托の向きが逆ですが」


 着席したフィリーネに、セドリックはそう言った。


「左利きでいらっしゃいますので、左向きにしております」


「紋章録に利き手まで記載があるのか」


「ございません。2度目のご訪問の際、右側からお茶を取られなかったのを確認してございます」


 母が、茶碗を置いた。


「あなたの職業は」


「伯爵家の次女です」


「それは職業なのか」


「……この家では、はい」


 答えながら、指先が、一拍、止まった。


「屋敷を案内していただけますか」


 姉と母の顔が「えっ」という形になった。フィリーネは立ち上がった。


「承りました。散らかっているところもございますが」



 厨房には棚が3列あった。47本の壺が並んでいる。


 セドリックが棚の前に立った。壺をひとつずつ目で確認している。


「管理カードがある」


「来客ごとに作っております。体調の変化、好みの変化、前回お出しした菓子の反応」


「ヴェルティーン」


「はい。第3列の中段です。レモン系統を好まれる。甘みは控えめ。左利き。茶は80度厳守」


「3ヶ月前のご訪問の後に書いた」


「はい」


「それより前の分は」


「先々月の分もございます。雨の日でしたので、リンゴの砂糖煮をお出ししました。その前はジンジャーのビスコッティを。お疲れの顔色でしたので」


「……」


 セドリックは棚を離れた。もう少し何か言いかけて、やめた。


「あなた自身の分はあるか」


「私は来客ではありませんので」


「自分の好みの茶は」


「選んだことがありません。来客用の残りを飲みますので」


 目が一瞬だけ細くなるのを、フィリーネは見た。茶葉を量る指が、一拍だけ遅れた。



 庭に出ると、風があった。


 フィリーネは歩きながら、枯れた花殻を摘んでいた。気がついたら、手の中に3つあった。


「いつもそうするのか」


「何をですか」


「歩くたびに手を入れる」


 花殻を見た。いつ摘んだか、覚えていない。


「――癖です」


 バラの植え込みの前で止まった。


「同じものを植えたことがある」とセドリックが言った。「枯らした」


「枯らされたのですか」


「1日に3度水をやった」


 フィリーネの喉が、一瞬詰まった。


「――3度は溺れます」


「溺れた。根が腐って1列全滅した。植え直す方法がわからず、そのまま」


 口を押さえた。押さえたが、間に合わなかった。


「笑っているか」


「笑っておりません」


「口元が動いている」


「――風です」


 セドリックが前を向いたまま、口の端を少しだけ上げた。


 その横顔を、2秒だけ見た。


 花殻が、手の中にまだ3つあった。


 屋敷の裏手に差しかかった。フィリーネの部屋の窓が見えた。


「あの鉢は」


 窓辺の小さな鉢に、何も植わっていない。土が乾いて白くなっていた。


「私の部屋の窓です」


「何も植えていない」


「――時間がありませんでしたので」


 セドリックは何も言わなかった。乾いた鉢を、ただ見上げていた。


 フィリーネは次の場所へ向かおうとして、向かえなかった。


 動かなかった。1秒か、2秒か。


 それから歩き出した。


 雨が降り始めた。


 フィリーネは傘を開いた。


「どうぞ」


「あなたは」


「来客が濡れるわけにはまいりません」


「あなたは濡れてもいいのか」


「私は慣れております」


 セドリックは傘を受け取らなかった。フィリーネの手から傘を取って、2人の間に差した。


「来客をやめる」


「は?」


「今は来客ではない。案内人と案内人だ」


 傘の柄が、手から離れていた。


「公爵様、傘が小さいので寄らないと意味がございません」


「なら寄ればいい」


 半歩、寄った。肩が触れそうだった。息が、一拍だけ止まった。雨の匂いがした。



 書斎に入ると、本棚が目に入った。


 来客の関心に合わせて並べてある。上の段は政治と農業。中段は地誌と商業。下の段に、1冊だけ場違いな本が押し込んであった。


「何の本だ」


「――花の図鑑です。私物ですので、来客の目に触れないよう下においております」


「花の図鑑を読むのか」


「……好きなのです。花の名前を調べるのが」


 言った後、口が閉じた。


 取り消す言葉が、出てこなかった。


 セドリックは何も言わなかった。2秒か、3秒か。


「もう1箇所、見せてほしい場所がある」


「どちらですか」


「あなたの部屋だ」


 フィリーネの足が、止まった。



 自室は狭かった。


 窓辺の小さな机。書きかけの帳面。繕い物の籠。お下がりを丈詰めしたドレスが椅子にかかっている。


 セドリックは入ってから、部屋をゆっくり見回した。


 窓のグラスに、枯れたカモミールの茎。


「花瓶がない」


「花は全て客間に使います」


「全て?」


「全てです」


 セドリックが、黙った。


 フィリーネは棚を見た。来客の壺が47本。自分の分はない。グラスには枯れた茎。茶碗は割れている。


「茶碗はこれか」


 机の上の古い陶器を、セドリックが見た。


「来客用は白磁の揃いですが、自分の分は別に」


「持っているのか」


「――割れております。取っ手だけ糊で継いで」


「6客揃いの中に、あなたの席はない」


「……はい」


 セドリックは、何も言わなかった。


 枯れたカモミールの茎を見た。空のグラスへ目が動いた。継ぎ接ぎの茶碗で、止まった。


「――伯爵殿と、話がある」



 客間に戻ると、父が待っていた。


 セドリックは椅子には座らなかった。


「問題がないことが問題だ」


「1人の人間が全てを支えている。自分のための茶碗も花も持たない人間が、22年間この屋敷を整え続けている。それは問題ではないと、伯爵はお思いですか」


「……」


「フィリーネ嬢を、私の屋敷にお迎えしたい」


 父の眉が寄った。


「次女を手放すわけにはいかぬ。フィリーネがおらねば、この家が回らぬのです」


 セドリックは、黙った。


「……おっしゃる通りだ」


 1歩、退いた。


「フィリーネ嬢に22年分の負債があるのは、この家であって私ではない。次の22年をどう過ごすかは、ご本人が決めるべきことだ」


「その選択は――私の隣でなくてもいい」


 踵を返した。


 フィリーネの心臓が、止まった。


 背中が、遠ざかった。


 立ち上がった。椅子が、後ろに引いた音がした。


「お待ちください」


 声が出た。震えていた。


「お父様」


「何だ」


「私は――椅子ではありません」


 父が振り返った。


「この家を支える椅子ではなく、この椅子に座る人間です。私の順番を、私が決めてはいけませんか」


 足が震えた。膝が、笑っていた。それでも立っていた。


 父の口が、半開きのまま、閉じなかった。


 セドリックが振り返った。


「あなたは今、『私の隣でなくてもいい』とおっしゃいました」


「言った」


「――あなたに、私の選択を決める権利はありません」


 セドリックの肩が、わずかに動いた。


「私が選びます。後回しではなく、今。――もう1度おっしゃってください。なぜ、私を」


 セドリックは口を開きかけた。閉じた。耳が赤くなっていた。


「――ヘルマン」


「はい、閣下」


「全部言え」



 ヘルマンが黒い手帳を開いた。


「視察報告書にこうございます。『当屋敷の管理者は極めて有能。茶の温度管理は芸術の域。なお、管理者の容姿については報告書の範囲を逸脱するため割愛する』」


「……それは逐語で読まなくていい」


「帰路の馬車の中で閣下が仰った言葉を正確に再現いたしますと、『あの家の菓子をもう1度食べたい。できれば毎日。毎日は不自然か。月に1度は理由が作れるか。国境視察を月例にできないか』」


「ヘルマン」


「2度目のご訪問には公務上の理由がございませんでした。3度目に至っては出発前に靴を3足お履き替えになりました」


「ヘルマン」


「なお、1度目の帰路に閣下が自ら茶を淹れようとなさった結果、やかんが1つ犠牲になっております。蓋を閉めずに火にかけ、蒸気で厨房の天井が黒くなりました。2度目の帰路では温度計を鍋に落とし、鍋も1つ犠牲に。茶葉は7種お取り寄せになりましたが、閣下の感想は全て『違う』でした」


「――事実を申し上げたまでです、閣下」


 セドリックの耳が真っ赤だった。


 フィリーネは息を忘れていた。


 やかんを爆発させた。温度計を鍋に落とした。茶葉を7種取り寄せて全部「違う」。靴を3足履き替えた。報告書に容姿のことを書きかけて消した。


 全部、この人が、帰った後にやったことだ。


「フィリーネ嬢。1度目は帰路の立ち寄りだった」


 セドリックの声が、低くなった。


「茶托が左を向いていた。花が紋章の花だった。菓子にレモンの皮が入っていた。――帰ってから、同じ茶を淹れようとした。できなかった」


「2度目は、用はなかった。本棚が私のために並んでいた。花の図鑑が下の段に押し込んであった。帰ってから、花を自分で活けようとした。枯らした」


「3度目は――もう、理由がなかった」


 1歩、戻った。


「あなたの部屋を見た。空のグラスがあった。枯れたカモミールの茎があった。継ぎ接ぎの茶碗があった。――管理者が欲しいのではないとわかった」


「他人のために全てを整えて、自分には枯れた花しか残っていない人を――」


「放っておけなかった」


 口が、閉じた。


 息を吸った。目が一度だけ床に落ちて、また上がった。


「――違う」


 耳が真っ赤なままだった。目は逸らさなかった。


「放っておけなかったのではない。あなたのために、花を選びたかった。私が。――やかんは壊すが、花は選べる」


 フィリーネの目の奥が、熱くなった。


 姉が口に手を当てていた。父はまだ、口が閉じないままだった。


「……それは、お見合いのお言葉ですか。それとも人事の面接ですか」


「見合いだ」


「やかんを壊す方が、お見合いで花を選びたいと仰るのは」


「言っている」


「――お受けいたします」


 ヘルマンが扉の脇で、声を殺して笑っていた。


「条件があります」


「聞く」


「お茶の温度は80度を厳守してください。90度では茶葉が死にます」


「善処する」


「厳守です」


「……承知した」


「本棚を主題別に並べ替えます」


「好きにしろ」


「花の図鑑は、上の段に置いてよろしいですか」


「――当然だ」


 姉が、にこにこと小さく拍手した。



 翌朝、いつもの時間に目が覚めた。


 厨房へ向かった。47本の壺が並ぶ棚の前で、手が伸びかけた。止めた。


 今日は来客のために選ばなくていい。


 母が入ってきた。


「ジャスミンの壺は、どのお客様にお出しすればよかったかしら」


「4番目の棚の札に書いてあります、お母様」


「湯の温度は何度にすればいいのかしら」


「それも札に」


 母の顔を、見た。手が、棚の方へ伸びかけた。止めた。


 振り返りはしなかった。


 庭に出ると、父がじょうろを持って花壇の前に立っていた。


「フィリーネ。バラには――何杯だ」


「根元に1杯です。葉にはかけないでください」


「……この白い花は」


「カモミールです、お父様」


 父は黙った。じょうろを、持ったまま。


 玄関に戻ると、姉が待っていた。


「お花の水替え、何曜日だったかしら」


「毎日です、お姉様」


「……毎日?」


「毎日です」


 姉が遠い目をした。それからフィリーネの手を握って、少しだけ泣いた。


「ごめんなさいね。知らなかったの。本当に」


 フィリーネは姉の手を握り返した。温かかった。


 それから、振り返らずに門を出た。



 婚約の正式発表は3日後に予定されていた。

 その3日で、ある館では別の動きが始まっていたが、フィリーネはまだ知らない。

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