第11話 清算という言葉が、部屋に残った
封書は、机の角に置いたままだった。
翌朝、手が伸びた。
中の書類は3枚あった。カミーラの筆跡ではなかった。公文書の写しだった。4年前の日付がある。故ヴェルティーン公爵とレオンハルト伯爵の間で交わされた、非公式の合意を確認し合った覚書だった。
3回、読んだ。
読むたびに文字は変わらなかった。変わったのは、読んでいる自分の側だった。
「フィリーネ・エアリッヒ伯爵令嬢を公爵家婚約者として迎えることは、従来の合意に照らして調整が必要である」
調整。
その一語が、紙の上で止まっていた。調整が必要、ということは、先約があったということだ。調整してまで来た、ということだ。
フィリーネは紙を伏せた。伏せた紙の裏は白かった。何も書いていなかった。
窓の外で鳥が鳴いた。朝が続いていた。
◇
「4年前のことを、話す」とセドリックが言ったのは、朝食が終わった後だった。
書斎だった。椅子が2脚ある。セドリックは立ったままだった。フィリーネが入ると、椅子の方を手で示した。座った。セドリックは座らなかった。窓を背にして立った。
「父が決めたことだ」
最初の一文が、それだった。
「故ヴェルティーン公爵が、レオンハルト伯爵と取り交わした。私は同意していなかった。ずっと棚上げにしてきた」
間が入った。短い間だった。
「——清算する必要がある」
フィリーネは聞いていた。聞きながら、書類の写しの文章が頭の中に並んだ。セドリックの言葉と、書類の言葉が、整合した。整合したから、正しいとわかった。正しいとわかって——今まで「知らなかった」という状態より重くなった。
「……外では」とセドリックが続けた。「故公爵の遺志に背く息子だと言われているらしい」
平坦な声だった。感情はなかった。事実を列挙する、公務の声だった。
「それを承知の上で、私は——」
止まった。
長い沈黙だった。窓の外で枝が揺れた。それだけが動いていた。
「私は——」の後が、来なかった。
フィリーネは待った。来るものを待った。来なかった。手が膝の上で一度だけ押さえた。0.3秒。
窓から光が差した。セドリックの横顔に当たった。左手の甲の、古い傷線が少し見えた。見えたが、聞かなかった。聞く言葉を持っていなかった。
「……わかりました」
フィリーネが先に言った。
間が長かった。その間の中に何が入っていたかは、声には出なかった。重い了解の形をした言葉だった。
セドリックが口を開きかけた。フィリーネは立ち上がっていた。
「あなたを整える側として置いているわけでは——」
「存じております」
言い終えてから、気づいた。「存じております」は、聞こえた言葉への返事だった。聞いていなかったのではなかった。「聞かなくていい」という遮断の形をした返事だった。
なぜそういう言葉が出たのか、わからなかった。
セドリックが、何も言わなかった。耳のあたりが——フィリーネからは見えない角度で——少し赤くなった。フィリーネは気づかなかった。
「失礼いたします」と言って、書斎を出た。
◇
廊下を歩いた。
棚の端に、手が伸びかけた。気づいた時には、もう動いていた。花殻を摘む癖だった。止めようとした。止まりきれなかった。手のひらを開くと、花殻が2つあった。
いつ摘んだか、わからなかった。
廊下に立ったままでいた。しばらく。
◇
厨房の近くを通ったのは、昼前だった。
リナルドが棚の前にいた。上の段に手を伸ばしていた。身体の向きが右に傾いている。腰の右側に重心を逃がす動き——長年の負荷が蓄積している。上段へ腕を伸ばすと、その負荷がさらに増える動かし方だった。
「……すみません」
声に出したのは、意図したわけではなかった。
「上の段でしたら、私が取れます」
リナルドが振り向いた。
「リナルドさんの腰の動かし方から、長年の負担がかかっていると思いましたので。上段は腕を伸ばすと右側に余分な力が入ります」
リナルドが、黙った。
長い沈黙だった。試験している目だった。ただ今回の沈黙は、前の沈黙と少し質が違った。30年間この屋敷を守ってきた人間の目が、「見透かされた」という静けさを持っていた。
「……30年間」とリナルドが言った。声が低かった。「なぜ痛むのか、わからなかった」
フィリーネは棚に手を伸ばした。目当ての器を取り出して、渡した。
廊下の端から、ヘルマンの声がした。独り言に近い声だった。
「昨日、閣下が同じ棚の前で上段を確認されておりました。同じ理由かと思われます」
リナルドが少し眉を動かした。
廊下の角からセドリックが現れた。何か言いかけた前に、ヘルマンが続けた。
「事実でございます、閣下」
「……ヘルマン」
「記録に照らして正確な情報の提供は、職務でございます」
セドリックが何も言わなかった。
リナルドが器を受け取った。少しの間、フィリーネを見た。試験の目ではなかった。別の何かを測っている目だった。それから一礼した。
「……使用人に、伝えておく」
厨房の奥へ向かった。ヘルマンが手帳を取り出してページを開いた。何かを書き込んだ。何を書いたかは見えなかった。
◇
夕方、庭に出た。
バラの根元が乾いていた。植え直しの途中のまま、土が半分だけ見えている。根がまだ落ち着いていない。
フィリーネは桶を取りに行って、戻ってきた。水を、根元だけに。少しずつ。
水が土に染みる音がした。
「4年前の非公式了解」は正しく伝わった。セドリックが同意していなかった事実も、棚上げにしてきた事実も、清算しようとしている事実も、揃った。
でも「なぜ」は、来なかった。
「私は——」の後が、来なかった。
来なかった言葉の重さが、「調整」という一語の重さと、同じくらいあった。
桶を下ろしながら気づくと、廊下の端にヘルマンがいた。
「……ヘルマンさん」
「はい」
「今日、何を記録なさいましたか」
ヘルマンが少しの間だけ考えた。
「棚の件と、バラの水やりの件でございます」
「それは記録に値することですか」
「フィリーネ様がなさったことでございますので」
それだけ言って、廊下の奥に戻った。
フィリーネはバラをもう一度だけ見た。根が落ち着くのに、何日かかるかはわからなかった。
◇
夕食の後、テーブルの上に封書が置かれていた。
侯爵夫人からの茶会の招待状だった。来週の午後。「御婚約の御披露目かねて」と書いてある。「社交界の要人各位にお声がけ」という一文がある。
フィリーネは文面を読んだ。読みながら、頭が先に動いた。場の構造を把握する。出口の位置。誰が誰の隣に立つか。主催者の意図。カミーラ・レオンハルトが来るかどうか。
「来るかどうか」より先に、「来た場合に場がどう動くか」を考えていた。
整える人間の習慣だった。22年間、変わらない回路だった。
招待状を、机の角に置いた。
窓辺を見た。グラスが空のまま置いてある。カモミールはまだ入っていない。
今日分かったことは、充分だった。分かったことが、分かる前より重い日だった。




