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陰陽師朝霧、異世界にクレームをつけにいく ~勇者召喚の裏で女神が雑すぎる件~  作者: 和幸雄大


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第20話 元の世界に帰れるという約束

目の前の厚い台帳が、ゆっくりと開かれた。


 九百年前の勇者について記されていた最後の言葉。


『勇者、女神の導きを受け、還るべき場所へ向かう』


 その一文が、長い年月の中でどう伝えられてきたのか。


 悠真たちは、さらに後の時代の記録を追い始めていた。


「次に確認できるのは、およそ七百年前の記録です」


 神官が別の台帳を開く。


 先ほどのものより新しいとはいえ、それでも十分に古さを感じさせる。


 紙の端は茶色く変色し、何度も補修された跡が残っていた。


「この台帳にも勇者の記録が?」


「はい」


 悠真が身を乗り出して台帳を見る。


「この時代にも、大きな災いに対して異界人が召喚されています」


「魔王? この時代にもいたんですか?」


「当時の記録では、魔王と呼ばれた存在です」


 神官が指で文字を追っていく。


「魔王との戦いはおよそ三年続き、最終的に勇者一行が魔王を倒したとあります」


「その後は?」


 悠真がすぐに尋ねる。


 神官は頁をめくった。


「王都へ帰還し、褒賞を受けています」


「それから?」


「大神殿にも訪れております」


 悠真は思わず前のめりになる。


「帰ったって書いてあります?」


 神官は少しだけ黙った。


「こちらには……」


 指が止まる。


「『勇者は女神の導きへ身を委ね、その務めを終えた』と」


「また曖昧ね」


 ミツネが言った。


「はい」


「元の世界へ帰ったとは?」


「書かれておりません」


 悠真は小さく息を吐いた。


「じゃあ、この人も分からない」


「そうなります」


 神官が頷く。


 ミツネが腕を組んだ。


「九百年前は『還るべき場所へ向かう』」


 指を一本立てる。


「七百年前は『女神の導きへ身を委ね、務めを終えた』」


 二本目。


「似てるけど、まだ『元の世界へ帰った』とは書いてない」


「はい」


 エリシアも記録を見つめていた。


「では、いつから今の言い方になったのでしょう」


「それを確認いたします」


 神官がさらに別の台帳を取り出し、記録を確認していく。


 記録は時代が下るほど増えていく。


 勇者が召喚された理由。


 どの国が支援したのか。


 誰と戦ったのか。


 どの町を通ったのか。


 どこで祝宴が開かれたのか。


 細かなことまで記録されている時代もあった。


 反対に、名前と戦果だけしか残っていない時代もある。


 その中で、ミツネは帰還に関する記述だけを拾っていった。


「ここ」


 神官が一つの記録で止まる。


「およそ五百年前です」


「何て?」


「『役目を果たした勇者は、女神の御許へ還った』」


 悠真が眉を寄せた。


「女神様のところ?」


「そうとも読めます」


 神官が答える。


「元の世界とは違いますよね」


「はい」


 ミツネが少し考える。


「亡くなったって意味にも読める」


 悠真がミツネを見る。


「死んだってことですか?」


「可能性の話」


 ミツネはすぐに続けた。


「宗教的な文章なら、亡くなった人を『神のもとへ還る』って表現することもあるでしょ」


「あ……」


「でも、本当にそういう意味だったかは分からない」


「決めつけない」


「そう」


 悠真は頷いた。


 それからさらに記録を追う。


 四百年前。


 三百年前。


 二百年前。


 文章は徐々に今の言葉に近づいていった。


「こちらです」


 神官が一冊の記録を開いた。


「およそ二百五十年前に編纂された教本です」


「教本?」


「各地の神殿で、神官へ教えを伝えるために使われたものです」


 エリシアが顔を上げる。


「今も使われているのですか?」


「現在のものは改訂版ですが、基礎となったのはこちらです」


 神官が一節を読み上げる。


「『異界より招かれし勇者は、世界を脅かす災いを退けた後、女神エルシアナ様の御導きによって、あるべき世界へ帰還する』」


 部屋が静かになった。


 悠真が顔を上げる。


「あるべき世界」


「はい」


「元の世界、とはまだ書いてない?」


「この版では」


 ミツネがすぐに尋ねる。


「次は?」


 神官が、今度は比較的新しい冊子を開いた。


「およそ百五十年前」


 頁をめくる。


「『勇者は魔王を討ち、女神エルシアナ様の導きによって、元いた世界へ帰還する』」


 悠真は黙った。


 ついに出てきた。


 今までずっと聞かされてきた言葉に近い。


「ここで初めて?」


 ミツネが尋ねる。


「現在確認できている範囲では」


「『元いた世界』って明記されたのは?」


「はい」


 ミツネはしばらく何も言わなかった。


 悠真も、目の前の記録を見つめる。


 九百年前。


 還るべき場所。


 七百年前。


 女神の導きへ身を委ねる。


 五百年前。


 女神の御許へ還る。


 二百五十年前。


 あるべき世界へ帰還する。


 そして百五十年前。


 元いた世界へ帰還する。


「……変わってる」


 悠真が呟いた。


「少しずつね」


 ミツネが答える。


「でも」


 悠真は記録を見る。


「誰かがわざと書き換えたってことですか?」


「そこまでは言えない」


 ミツネが即座に否定した。


「むしろ逆かも」


「逆?」


「分かりにくい表現を、後の人が分かりやすくしただけ」


 神官がゆっくりと頷く。


「十分にあり得ることだと思います」


「『還るべき場所』ってどこだろう」


「たぶん元の世界だろう」


「じゃあ、そう書いておこう」


 ミツネが淡々と言葉を並べる。


「それを何百年も繰り返したら」


 悠真は続きを理解した。


「最初からそう書いてあったみたいになる」


「そういうこと」


 エリシアが静かに教本を見る。


「悪意がなくても、ですか」


「悪意がなくても」


 ミツネが答えた。


 その言葉に、神官の表情が少し沈んだ。


「我々も、その教えを疑ったことはございませんでした」


「責めてるわけじゃないわ」


 ミツネが言う。


「記録を残した人たちも、たぶん嘘を書こうとしたわけじゃない」


「はい」


「ただ」


 ミツネの指が、古い写本へ向いた。


「最初の文章と、今教えられてる内容は同じじゃない」


 神官はゆっくりと頷いた。


 悠真は少しだけ考え、それから口を開いた。


「じゃあ」


 全員の視線が集まる。


「俺は、魔王を倒せば絶対に帰れるって思ってました」


「悠真様」


「みんなそう言ってたし」


 悠真は続ける。


「俺も、それを疑ってなかった」


 胸の奥が少し重い。


 けれど、以前ほど怖くはなかった。


 分からないことを、分からないままにしない。


 今はその方が大事だと思える。


「でも、それはまだ分からないってことですよね」


 悠真がミツネを見る。


 狐面がこちらを向く。


「そうね」


 短い答えだった。


「帰れないってことですか?」


「それも違う」


「……ですよね」


「今分かったのは」


 ミツネが指を一本立てる。


「『魔王を倒せば元の世界へ帰れる』って条件を、この記録だけでは証明できない」


「はい」


「でも、女神本人は帰還の道を開くって言ってる」


「言ってました」


「だからといって、帰る方法自体がないとは言えない」


 悠真は頷いた。


「じゃあ、まだ調べる」


「そういうこと」


 少しだけ肩の力が抜けた。


 その時。


 エリシアが古い台帳を見ながら、ふと口を開いた。


「一つ、気になることがあります」


「何です?」


「過去の勇者様が、本当に皆、元の世界へ帰ることを望んでいたのでしょうか」


 悠真が目を瞬かせる。


「え?」


「いえ」


 エリシアは少し迷うように続けた。


「悠真様が元の世界へ帰りたいと考えていることは分かっています」


「はい」


「ですが、過去の勇者様も全員が同じだったとは限らないのではないでしょうか」


 悠真はすぐには答えられなかった。


 考えたことのない視点だった。


 サトリが首を傾げる。


「こっちに住みたかった人もいたかもってこと?」


「はい」


 エリシアが頷く。


「この世界で家族を持った方や、大切な人ができた方もいたかもしれません」


「確かに」


 悠真は小さく呟いた。


 召喚された時は帰りたかった。


 それでも何年もこの世界で暮らしたら。


 仲間ができて。


 家族ができて。


 戻る場所が一つではなくなった人もいたかもしれない。


「じゃあ」


 悠真は台帳を見る。


「帰還した記録がない人が、全員帰れなかったとは限らない」


「そうね」


 ミツネが答える。


「残ることを選んだ人もいるかもしれない」


 悠真はしばらく黙っていた。


 帰れるか。


 帰れないか。


 それだけではなかった。


 帰るのか。


 残るのか。


 その選択も、人によって違う。


「だから」


 ミツネが言った。


「過去の勇者がどうしたかは参考にはなる」


 悠真が顔を上げる。


「でも?」


「あなたがどうするかの答えにはならない」


 悠真は少しだけ笑った。


「はい」


「決めるのはあなた」


「分かってます」


「本当に?」


「最近は」


「最近は、ね」


 サトリが横から口を挟む。


「前よりは」


「お前まで言うな」


「でも本当でしょ?」


「……否定できない」


 サトリが満足そうに笑う。


 部屋の空気が少しだけ和らぐ。


 神官はそのやり取りを見た後、別の台帳へ手を伸ばした。


「帰還の方法に関しては、さらに神託の記録も確認いたします」


「お願いします」


 悠真が頭を下げる。


 ミツネは少し考えていたが、不意に懐へ手を入れた。


「そうだ」


「どうしました?」


 エリシアが尋ねる。


 ミツネが取り出したのは、一枚の形代だった。


 何重にも紙で包まれている。


 悠真にも見覚えがある。


「それ」


「村で使った形代」


 サトリの表情から笑みが消えた。


 ミツネが包みを開く。


 中から現れた形代の一部には、灰色の染みが残っていた。


 神官が眉を寄せる。


「これは?」


「ここへ来る途中の村で起きたことも調べたい」


 ミツネが説明を始める。


 眠ったまま起きなくなった人々。


 起きている者たちにも広がっていた、何もしたくないという感覚。


 森の側から村へ流れ込んでいた何か。


 そして、形代に残った灰色の染み。


 神官は途中から表情を変えていた。


「何か知ってる?」


 ミツネが尋ねる。


「……少々、お待ちください」


「あるの?」


「似た報告を、見た記憶がございます」


 悠真が顔を上げる。


「似た?」


「同じ現象とは断定できません」


 神官は立ち上がった。


「ただ、各地の神殿から届いた報告の中に」


 言葉を探す。


「人々が仕事へ出なくなった」


 悠真の表情が変わる。


「家畜の世話を後回しにするようになった」


 エリシアも神官を見る。


「店を開けなくなった者が増えた」


「それ……」


 サトリの狐耳がぴくりと動く。


「村長さんが言ってた北の村みたい」


「そうですね」


 後鬼が静かに答えた。


 神官はさらに続ける。


「そして、いくつかの報告には」


 一度言葉を切った。


「『明日でよい』と繰り返す者が増えた、と」


 部屋の空気が変わった。


 悠真は無意識に形代を見る。


 灰色の染み。


 あの村だけではなかった。


「どこです?」


 ミツネの声が変わった。


「その報告、全部見せて」


「確認してまいります」


 神官がすぐに部屋を出る。


 扉が閉じた。


「ミツネさん」


「まだ同じものとは決めない」


「はい」


「でも」


 ミツネは灰色の形代を見つめた。


「調べる価値はある」


 エリシアが小さく頷く。


「大神殿には、各地から報告が集まります」


「ここへ来て正解だったわね」


「ですね」


 悠真も頷いた。


 元の世界への帰還のこと。


 この世界の勇者召喚のこと。


 途中で立ち寄った村で起きた異変。


 大神殿へ来てから、知りたいことは減るどころか増えていた。


 けれど。


 以前とは違う。


 何も知らないまま進むよりはいい。


 自分で知って。


 自分で考える。


 その上で決めたい。


 そう思った。


 その時だった。


 ミツネが突然、顔を上げた。


「……何?」


 サトリが振り向く。


「ミツネちゃん?」


 ミツネは答えない。


 懐へ手を入れ、一枚の札を取り出す。


 白い札の端が、ほんの僅かに震えていた。


「それ、何?」


 悠真が尋ねる。


 ミツネは札を見つめる。


 風はない。


 窓も閉じている。


 それでも札は、小さく震え続けていた。


 後鬼が一歩近づく。


「ミツネ様?」


「この気配……」


 ミツネの声が低くなる。


 悠真には分からない。


 だが、サトリだけは何かに気づいたようだった。


 狐耳がぴんと立つ。


「え?」


 サトリが大神殿の外へ顔を向けた。


「まさか」


 ミツネも白い狐面を同じ方向へ向ける。


「こっちに来たの?」


 悠真が二人を見比べる。


「誰が?」


 ミツネはすぐには答えなかった。


 札の震えが、少しだけ強くなった。

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