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第1話 父が死んだ。坊主になった僕。

「信仰心? 御冗談を。神や仏が今期の売上目標を達成してくれますか?」


西新宿、地上三十階のガラス張り会議室。眼下に広がるコンクリートジャングルを見下ろしながら、僕、阿出川雅英あでがわ・がえいは、目の前のクライアントに向かって冷たく微笑んだ 。


ITソリューション営業。それは、数字という絶対的な神を信仰する修羅の道だ 。僕はその道で、入社以来トップの成績を叩き出し続けている 。情など必要ない。必要なのは、相手の弱みを握り、最適なアルゴリズムで解決策を提示し、高額な契約書にサインさせることだけだ 。


「阿出川くんの言う通りだね。君に任せよう」


白旗を上げたクライアントを見送り、僕は腕時計に目を落とした。午後二時。次のアポまで少し時間がある。最高級のイタリアンローストのコーヒーでも飲もうと立ち上がった瞬間、スーツのポケットでスマートフォンが震えた。


ディスプレイに表示されたのは『母』の二文字 。 舌打ちが漏れた。


実家——茨城県常総市にある新政寺しんせいじからの連絡など、ろくなもんじゃない 。どうせまた、頑固親父が「帰ってきて寺を継げ」と喚いているのだろう 。


「もしもし。今、仕事中なんだけど」


『雅英……っ!』


受話器の向こうから聞こえたのは、いつもの小言ではなかった。母・芳子よしこの、過呼吸寸前の泣き叫ぶような声だった 。


『お父さんが……お父さんが、倒れて……っ!』 コーヒーを飲む予定は、永遠にキャンセルされた。


ガタゴトと頼りない音を立てて走る一両編成のローカル線に揺られ、実家に辿り着いた時、すでに日は完全に落ちていた 。「村の駆け込み寺」を自称していた父・義正ぎしょうの顔は、白い布の下で、ひどく安らかだった 。


心筋梗塞。あまりにもあっけない幕切れだった 。


厳しい修行と、「お寺の子」という逃れられない重圧を嫌い、実家を飛び出して5年 。最後に言葉を交わしたのは、あの時の大喧嘩だ 。


『お前のような冷徹な人間に、人の死に寄り添う住職が務まるか!』


『ハハ、大層なご身分だね。じゃあ、その立派な精神で、このボロ寺を一生守ってればいいさ。僕は僕の人生を、実力だけがモノを言う世界で証明してみせる!』


そう吐き捨てた僕の背中に、父は何も言わず、ただ背を向けた 。それが、生きて言葉を交わした最後だった 。


「ごめんね、雅英。忙しいのに……」


すっかり小さくなってしまった母が、僕の袖を掴んで涙を零す 。 悲しくないと言えば嘘になる。だが、僕の頭の中はすでに、葬儀の手配、檀家への連絡、そして相続の手続きという「タスク」の処理へと切り替わっていた。そうやって感情に蓋をすることが、僕なりの自己防衛だったのかもしれない。


しかし、本当の地獄は、通夜と葬儀をそつなくこなし、親戚連中が帰った後の本堂で待っていた。


「……母さん。これ、何かの間違いじゃないのか?」


線香の煙が冷たく漂う本堂の片隅。金庫から引っ張り出した帳簿と、金融機関からの督促状の山を見て、僕は頭を殴られたような衝撃を覚えた。


借金、総額2億円 。


「お父さん、本堂の雨漏りの修繕費とか……あと、生活が困窮した檀家さんの借金の連帯保証人にまでなってて……」


母は申し訳なさそうに視線を泳がせ、震える手で湯呑みを握りしめている 。


2億円 。

僕が東京でどれだけ身を粉にして働き、トップセールスを維持したところで、一生かかっても返せるかどうかという莫大な数字だ 。しかも、この寺の年間維持費や檀家数の減少推移を計算すれば、完全に債務超過 。ビジネスのセオリーで言えば、答えは一つしかなかった。


「相続放棄だ」 僕は冷徹に言い放った。


「母さん、現実を見てくれ。この寺はもう、倒産寸前どころか完全に破綻している中小企業だ 。ここに残れば、僕たちまで人生を狂わされる。一刻も早く相続放棄の手続きをして、東京に引っ越そう。それが一番合理的な解決策だ」


母は、寂しそうに微笑んだ 。


「そうね……雅英の言う通りだわ。あなたの人生を、この古いお寺と、お父さんの我が儘で縛るわけにはいかないものね。お寺、なくなっちゃうのは寂しいけれど……仕方ないわね」


引き止められると思っていた。


だが、母のその「諦め」の言葉が、なぜか僕の胸に鋭いトゲのように刺さった 。 その夜、僕はかつて自分の部屋だった、今は物置のようになっている和室に布団を敷いて横になった。天井の木目を睨みつけながら、一睡もできなかった。


頭の中の『優秀なビジネスマンの僕』が、猛烈に警告を発している 。


(バカを言うな。2億円の負債だぞ? リスクが大きすぎる 。お前には西新宿のガラス張りのオフィスと、約束されたエリートの未来があるんだ 。こんな茨城の田舎町で、泥にまみれて坊主頭になるなんて、ドブに人生を捨てるようなものだ。)


しかし、それと同時に、もう一つの感情がじわじわと心の底から湧き上がってくるのを止められなかった。


それは、悔しさだった。


東京で死に物狂いで数字を追いかけ、誰よりも合理的に生きてきた 。コンペでは一度も負けたことがない 。欲しいものはすべて手に入れてきたはずだった。 なのに——どうして今、僕はこんなにも敗北感を味わっているのだろう。


ここで相続放棄を選べば、僕は「2億円の借金」から逃げ出したことになる 。それは、僕が父の生き方に、そしてこの理不尽な現実の数字に、「負けた」ことを意味するのではないか 。


『お前のような冷徹な人間に、住職が務まるか』


父のあの最期の言葉が、呪いのように耳の奥でリフレインする。

務まらない? 逃げ出す?冗談じゃない。僕を誰だと思っている。


窓の外から、始発列車の遠い警笛が聞こえてきた。夜が明ける。 僕は布団を跳ね除け、立ち上がった。鏡の前に立つ。高級なオーダーメイドのスーツは、昨日の葬儀の香典袋の匂いが染み付いて、ひどく煤けて見えた 。


「……やってやるよ」


僕は洗面所へ向かい、母の裁縫箱から大きなハサミを取り出した 。 冷たい鉄の感触。自分の手で、これまでの「エリート営業マンとしての自分」を切り刻むような感覚だった 。


「母さん」


朝食の準備をしていた母が、ハサミを握りしめて現れた僕を見て息を呑む 。


「雅英……? そのハサミ、どうするの……?」


「バリカンがないから、まずはこれで大雑把に切ってくれ。仕上げは近所の床屋に行く」


僕はスーツの上着を床に投げ捨て、ワイシャツのボタンを乱移に外した 。


「貸してくれ、このボロ寺。誰がこんなところで、負けたまま終わるもんか」


合理主義の仮面の下で、僕の「絶対にコンペで負けない」熱い闘争心に、最悪の形で火がついていた 。 借金2億円? 事業再生の難易度としては最高峰だ 。だからこそ、やり甲斐がある。


「僕がこの寺を、最高のビジネスモデルでターンアラウンド(事業再生)してやる」


こうして僕は、会社を辞めて、坊主になったんだ。

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