第一章 見合いの瞬間
襖が静かに滑る音は、まるでこの日のために長く息を
ひそめていた舞台の幕が上がる合図のようだった。
畳の匂い。湯呑から立つ細い湯気。
座卓を挟んで向かい合う黒田家と宇垣家の両家の
空気は縁談というよりも、どこか商談のそれに近い。
黒田喜美子は、腕を組み、まっすぐに相手を見据えていた。
視線は鋭いが、声は妙に落ち着いている。
「……で、あんたが“代わり”の娘さん、ってわけね」
その一言で、部屋の温度が一度だけ下がった。
宇垣みさとは、背筋を伸ばしたまま、軽く頭を下げる。
年不相応な落ち着きと、
年相応のしなやかな色気が同居していた。
白いブラウスの襟元から覗く鎖骨が、
ふとした瞬間に光を拾う。
「はい。急なことで、申し訳ありません」
言葉は丁寧だが、声には芯がある。
逃げてきた者の声ではない。
引き受けた者の声だ。
喜美子は、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「年はいくつ?」
「二十八です」
間。ほんの一瞬だが、確実に間。
「……あらまあ」
その“あらまぁ”には、呆れと計算が半々に混ざっている。
周囲の親族が小さく息を呑む中、喜美子だけは表情を崩さない。
(年上か……しかもだいぶ)
しかし次の瞬間、その目の奥に別の火が灯る。
(――あの女よりは、まともそうだね)
喜美子の脳裏に浮かぶのは、五十近い女。香水と酒、
男の弱さを知り尽くした笑み。あれに比べれば、
目の前の女はまだ“光”の側にいる。
「まあいいわ」
あっさりと言った。
周囲がざわつく。
「元々、戸籍の話は後回し。条件付きよ。しばらくは入籍なし。
あくまで“縁談中”って形」
みさとは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
「承知しています」
その時だった。
「お待たせしました」
障子の向こうから、低く柔らかな男の声。
遅れて現れた黒田宗平は、場の空気を一瞬で塗り替えた。
二十三歳に見える整った顔立ち、どこか余裕を含んだ笑み。
しかし、その眼差しの奥には、年齢では測れない深みが沈んでいる。
みさとの視線が、ほんのわずかに揺れた。
(……この人が)
見合いの席に現れた男は、どう見ても二十代だった。
だが、目だけが、やけに年老いていた。
宗平は座に着くと、軽く一礼し、そして迷いなくみさとを見た。
「初めまして。黒田宗平です」
その声は、穏やかで、しかし妙に距離が近い。初対面なのに、
まるでずっと前から知っている相手に話しかけるような。
みさとも礼を返す。
「宇垣みさとです。本日は……」
「事情は聞いてます」
言葉をやんわりと遮り、宗平は微笑んだ。
「妹さんの代わり、なんて言い方は失礼ですね。むしろ――」
ほんの一瞬、彼の視線がみさとの唇に落ちる。
すぐに戻るが、その一瞬がやけに長く感じられた。
「あなたが来てくれて、よかった」
空気が、ふわりと揺れる。
喜美子がその様子を横目で見て、眉をひそめる。
(……この子、また変なスイッチ入れてるね)
だが宗平の内側では、別の計算がすでに走っていた。
(強いなこの人、しかも無理してない、だが慣れてもない)
年上の女特有の余裕とも違う。どこか“守る側”の
気配を持ちながら、それでも女としての温度を隠していない。
(面白い)
宗平は湯呑を手に取り、ゆっくりと口をつけた。
「条件の話は、後で二人でしてもいいですか?」
さらりと言う。
場の大人たちが一斉に顔を上げた。
みさとは一瞬だけ驚いたが、すぐに微笑を整えた。
「ええ、構いません」
その微笑みは柔らかいが、どこか挑むようでもあった。
卓の上では、すでに別の火種が、小さく、
確実に灯り始めていた。




