絶望
もう嫌だ。
貧困も、低知能も、怠惰も――自分のすべてが嫌になった。
俺は何もかもを投げ出すように家を飛び出した。
こんな世界に、俺を受け入れてくれる場所なんてなかった。
気づけば、家族でよく訪れた岬に来ていた。
海はいつもと変わらず、荒々しい波を岸壁に叩きつけている。
すべてを叩き潰して、揉みくちゃにして、俺という存在ごと消してくれ。
そう願いながら、俺は岬のフェンスへ向かって歩き出した。
胸あたりまであるフェンスによじ登る。
その向こうには、何もない。
もう俺を守るものは何もなかった。
一歩、踏み出す。
「さよなら……」
――ふっ。
はっ!!
……いつまで経っても、痛みが来ない。
耳を打つはずだった、せめぎ合う波の音もない。
何も俺を消してくれなかった。
「……チュン、チュン」
鳥の囀りが聞こえる。
「……え?」
恐る恐る目を開ける。
そこに広がっていたのは、朝日も届かないような深い森だった。
「……天国?」
天国って、こんな場所なんだ。
そう思った瞬間、
「チクッ……」
足首に鋭い痛みが走った。
「痛っ……」
落ちるときに岩にでもぶつけたのか。
足首を押さえる。
痛い。
つまり――
「……生きてる?」
俺は死んでいなかった。
「なにここ……? 森だよな……?」
周囲を見回しても、見覚えのあるものは何一つない。
「もう、わけわかんねえ……」
考えても仕方がない。
とりあえず、進んでみるしかない。
痛む足に力を込め、俺は森の奥へ歩き出した。
しばらく進んだ、そのときだった。
暗闇に差し込む閃光のような光が、突然、目の前を走った。
「うわっ!」
反射的に目を覆う。
「なんだ……今の……。逆光か?」
だが、妙だった。
さっきまで聞こえていた鳥の声も、風の音も、いつの間にか消えている。
森が、異様なほど静まり返っていた。
気味が悪い。
それでも俺は歩き続けた。
しばらくすると、
「……チロチロ……」
水の流れる音が聞こえてきた。
「川……?」
少し進むと、小さな小川があった。
「やった……!」
水を見た瞬間、少しだけ安心した。
「これを下っていけば、麓に降りられるはずだ」
俺は川沿いを下っていった。
ところが――
「……なんだ、これ?」
そこにあったのは、奇妙な泉だった。
大きさは小さなカーペットラグほどしかない。
こんこんと水が湧き出している泉の中央には、大きな石が鎮座していた。
そして、その石には古びたしめ縄が巻かれている。
「……信仰か?」
気になって、俺はしゃがみ込んで泉を覗き込んだ。
その瞬間――
「……え?」
ずるっ。
足元が引かれた。
まるで何かに足首を掴まれ、引っ張られたような感覚。
「うわっ!」
バランスを崩し、
――バシャァン!!
俺は泉へダイブした。
「なんなんだよ、もう!」
訳の分からない森。
突然現れた泉。
そして、足を引っ張る何か。
積み重なった苛立ちが、一気に爆発した。
俺は泉の中央にある石へ手を伸ばす。
そして、巻きついていたしめ縄を掴んだ。
「こんなもん……!」
力任せに引きちぎり、
「どっか行け!」
遠くへ投げ捨てた。
――ピカッ!
「……え?」
――ピカピカッ!
――ピカピカピカピカッ!!
突然、何百ものカメラが一斉にフラッシュを焚いたような閃光が森を埋め尽くした。
「まぶっ……!」
俺は両腕で顔を覆う。
十秒ほど経っただろうか。
恐る恐る目を開ける。
「…………」
そこには、何百もの光る玉が浮かんでいた。
薄透明な球体。
淡い光を放ちながら、森の中をゆらゆらと漂っている。
そして――
泉の中央に残された石の上には、ひときわ強く輝く光の玉があった。
「……やっぱ俺、死んでるんじゃ……」
思わず乾いた笑いが漏れる。
「ふふ……ひひ……」
その瞬間だった。
「ふふふ……」
光の玉から、声がした。
「お前、捨て身子だろ?」
「……は?」
「君が来たときから、仲間たちが教えてくれたんだ。だから知ってるよ」
「……!」
やばい。
本能的にそう思った。
俺は立ち上がり、逃げようとする。
しかし――
――ピカッ!
再び無数の閃光が走った。
「うわっ!」
踏み出した足が滑る。
「痛ぇ!」
「逃げるなってさ」
光の玉が、楽しそうに笑った。
「すべてを捨ててきたのに、まだ逃げるの?」
冷や汗が背中を伝う。
俺は覚悟を決め、目の前の光を睨みつけた。
「……お前は、なんだ?」
「僕?」
光の玉がふわりと浮かぶ。
「僕は、この森に遥か昔から住んでいる精霊の王さ」
周囲の光の玉が、一斉に揺れた。
「そして、こいつらは僕の仲間たち」
「怖がらなくていいよ。僕たちは、君に何もしない」
「……じゃあ、なんで俺にまとわりつく?」
「君が僕を助けてくれたからだよ」
「……助けた?」
「昔ね。僕を怖がった人たちに、ここへ閉じ込められたんだ」
精霊の王は、少し寂しそうに笑った。
「だから、お礼がしたい」
「……いらない」
俺は首を振った。
「俺は一人になりたいんだ。ひっそり消えたい。邪魔するな!」
妙な現実を受け入れたくなくて、俺はヒステリックに叫んだ。
すると、精霊の王は静かに言った。
「……そんなに、嫌なことがあったの?」
「……」
「だったら、僕たちが君を幸せにしてあげる」
その瞬間。
周囲の光が、ゆっくりと俺を取り囲んだ。
「僕たちは肉体を持たない精霊だから……」
声が、少しずつ変わっていく。
「たださ……」
「キミ、タマシイ……ハンブン……ジュニク……」
「……え?」
ぞわっ。
腹の奥が混ざり合うような、強烈な寒気が全身を駆け抜けた。
「受肉させてよぉ……」
「……!」
光の玉たちが、にじり寄ってくる。
俺は恐怖で動けなかった。
「もらった以上の寿命を、受肉したらあげる!!」
「や、やばい……」
食われる。
そう思った瞬間――
――ピカァッ!!
凄まじい閃光が俺の視界を覆った。
「うわぁぁぁ――!」
そこで、俺の意識は途切れた。




