揺らぐ覚悟
成人の儀から数ヶ月が経ったある日、エレノアは庭のベンチでおとなしく経済書を読もうとした。しかし上の空で読書は全く進まない。
成人の儀の前日にコリンに会って以来、ずっとコリンに会えていない。働いていた居酒屋も辞めてしまったらしい。
今まで次に会う約束はしてこなかったが、それでもこんなに長い時間会わない事は珍しかった。
彼はどうしてしまったのか。エレノアはコリンともう会えないんじゃないかという不安を振り払うため、必死に経済書の文字を追った。
しかし、すぐにコリンの事を考えては今日何度目かの溜息を吐いた。
「暖かい陽気の中で読書とは気持ち良いものですよね。」
急に声を掛けられ、エレノアはキョロキョロと声の主を探す。
声の主はすぐに見つかった。エレノアのすぐそばに見知らぬ青年が立っていたからだ。彼の髪は鮮やかな碧色で春の日差しによりキラキラ輝き、鼻筋が通った涼しげな顔からは碧眼が印象的である。歳はジョーイと同じくらいか、少し下くらいだろう。
エレノアは彼が誰なのか検討も付かず首をかしげる。かろうじて服装から客人だということだけは理解した。
「貴方は?」
「申し遅れました。僕はイリヤ国第一王子アルベールと申します。」
アルベールは自己紹介とともに恭しくお辞儀をすると、エレノアも慌ててアルベールに倣うよう自己紹介をした。
「ルドラ王国第一王女エレノアと申します。以後お見知りおきください。」
エレノアは慌てて立ち上がりスカートの端を摘まんでお辞儀をすると、アルベールは「座っても?」とベンチに座る許可を求めた。エレノアは「もちろん」と改めて少し詰めてベンチに腰掛ける。
イリヤ国とは二年前に共同開発プロジェクトを始動してから、今でも重要な外交先である。
「今回はプロジェクトの途中経過報告の講演会に出席させて頂いた折り、ルドラ国王陛下ともご挨拶させて頂ければと思い馳せ参じました。エレノア様にお会いできてとても光栄です。」
「私の方こそアルベール様にお会いできて光栄ですわ。」
アルベールはニッコリ微笑みエレノアに握手を求め、エレノアもそれに応えた。
「何を読まれてるんですか?」
アルベールはエレノアが読んでいた大きな本を指差した。
「こちらの本ですか?」
エレノアはよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに目を輝かせ、うっとりした表情で抱えている本について語り始めた。
「こちらの本は、百年くらい前の経済学者が書いた経済論なんですが、とても凄いんですの!今のルドラでも違和感なく通用するような市場の分析や、生産と交換の法則。希少性のある資源と人間行動の関係などを百年前から提言していて、色々なことに気づかされるんですの!それに人の心理と市場の動きは密接に関係していると初めて説き、関係ないと思われていた事柄から市場に何らかの影響が起こったりする事を具体例を交えて分かりやすく説明されてるんです!それって当時の事を考えたらどれだけ画期的なことを考えていたのか驚きですわ!それに、この本で一番好きな部分が、貿易における優位性が説かれている所で…」
そこまで言いかけてエレノアはハッとした。
『やってしまった…』
エレノアは青ざめた。つい、コリンと話す時と同じ勢いのまま一方的に話してしまった。彼はいつも熱心に話を聞いてくれていた。そして、お互いの考えを議論する。しかし、今の相手はコリンではない。彼以外の人にこのような事を話すと毎回微妙な反応が返ってきた苦々しい想いを思い出した。今回も多分、いや、絶対アルベールに引かれてしまっただろう。
「と、とにかく、とても興味深い事が沢山書いてあるんですの。」
エレノアは慌てて話を区切り愛想笑いを必死に浮かべたが、筋肉が引き連り、上手く笑えなかった。
しかし、アルベールは引く事なく、むしろ感心したようにエレノアの話を聞いていた。
「市場の分析については僕も興味があります。市場の発展は国の発展に直結しますからね。」
「そうなんですの!軍事も大切ですが、これからは市場の安定も考えるべきですわ!確かに戦争特需では絶大な効果も見込まれますが、そのような経済の成長は悲しすぎます。」
アルベールの発言にエレノアも意見を述べ、アルベールはとてもその話題に興味深そうだった。
「是非とも今度僕にも読ませてください。」
そしてアルベールは綺麗な顔で微笑み、エレノアも負けじと出来るうる限りの笑顔で「是非とも」と頷いたのだった。
「アルベール様ぁ!!」
その時、遠くの方で彼を探す声が聞こえた。
「時間切れですね。勝手に出歩いたのがバレてしまったようです。またお会い出来たら良いですね。」
アルベールは肩をすくめイタズラっぽくウィンクすると足早に立ち去った。
残されたエレノアもまた、彼との別れが名残惜しく、もっと話してみたいと感じた。
「アルベール様!どこに行ってたんですか!?探したんですよ!?」
お供の騎士だろうか、アルベールより年上で体格の良い青年は、戻ってきたアルベールを責めた。
「すまない、エディ。」
「ところで、お目当ての第一王女とやらは会えたんですか?」
エディと呼ばれた先程の騎士は呆れたように尋ねた。
「あぁ、想像以上だったよ。味方に出来れば良いカードになりそうだ。それに…」
アルベールはそこで言葉を切り、本を抱き、もの憂い気に溜息を吐くエレノアを思い出し、無意識に口角を上げていた。
「それに…?」
エディはアルベールの次の言葉を待った。
「いや、何でもない。まぁ、婚約者としては申し分無いよ。」
アルベールは、エディとともにルドラ国王の挨拶に向かった。
─────
「ミラ、さすがに、晩餐会だけで、これは気合いが入りすぎているんじゃないかしら?」
エレノアは、姿見を見て少々圧倒されている。
いつもはハーフアップの簡易的な髪型が、今日は編み込みでミラ渾身のシニヨンは最早、芸術作品となっていた。
「いえ、これでもまだ足りないくらいです。」
ミラはまだ何かを足そうとしているのか、うーんと唸っている。
確かに『アルベールにまた会いたい』と思ったが、さすがに、今日の晩餐会で会う事になるとはエレノアも思っていなかった。
「ミラ、もう大丈夫だから!!行きましょう!!」
エレノアは、まだ足りないと言っているミラを無理矢理ひっぺがして、晩餐会が行われる広間へと向かった。
晩餐会といっても、王族、グラノフ公爵など一部の幹部貴族数人、そして客人であるアルベールとの少人数での食事会とのことだ。
エレノアが広間に入ると、既に王以外の家族3人は席についていた。
そして、エレノアもパトリックの隣に腰掛けると、王とアルベールが入ってきた。
そしてそのまま晩餐会が始まるのかと思いきや、エレノアは王の側に来るように言われた。
エレノアは呼ばれた理由について特に思い当たる節もなく、とりあえず王の側へ行き、王とアルベールに挨拶をした。
「お父様、晩餐会にお招き頂きありがとうございます。そして、アルベール様、早速お会い出来て嬉しく思います。」
「僕もですり。エレノア様、先程ぶりですね。」
アルベールもエレノアにニコリと片手を上げて挨拶した。
「エレノアは既にアルベール王太子と会った事があると?」
王はエレノアとアルベールの様子から、二人が顔見知りだと察した。
「はい、お父様。先程、王宮の中庭で少々お話させて頂きました。」
エレノアは先程の事を思い出し、ニッコリと応えた。
「ならば話は早い。イリヤ国からアルベール王太子の妃として、エレノアに縁談が来ていたのだが、ルドラ王国としても、この話を受けようと思う。良いな、エレノア。」
ん?王は何を言っているんだろう。
エレノアは父親である国王が言っていた言葉は聞こえていたが、一瞬何を言っているのか理解出来なかった。
そして、脳までシナプスが繋がった瞬間、エレノアは漸く、理解したのだ。
「え!?あ…!!私がアルベール様の妃に…はい!!なるほど!!」
これは、エレノアの政略結婚がとうとう決まった瞬間だった。相手は同盟国の王太子で、しかもとてもイケメンである。これ以上にないくらいの好条件だ。
エレノアは政略結婚については幼い頃から覚悟していたつもりだった。しかし、エレノアは動揺した。
胸の奥がツキリと痛み、どうしても、コリンの事が頭から離れなかった。
─────
「エレノア様婚約おめでとうございます!しかも相手がアルベール様なんて!女性の憧れの的ですね!」
エレノアがベッドで寝る支度をしていると、ミラが嬉しそうに話しかけてきた。
「えぇ」
しかしエレノアは気の無い返事をする。
今日の晩餐会の記憶などほとんど無い。エレノアが呆然としている間に話がトントン拍子に進んだようだった。
覚えている事といえば、アルベールとの結婚はエレノアが成人する15歳になってから本格的に進められるが、それまでは婚約者であるという事。
そして、ジョーイが苦虫を噛み潰したような顔をしていた事くらいだ。
結婚が決まった心境は、前回と違っていた。
前回。それは前世での記憶。晃一にプロポーズされた瞬間は幸せで世界が輝いて見えた。
しかし、今世は違う。
前世の記憶があるエレノアは、晃一以上に愛する人が今世で見つかる気がしなかったし、そもそも、エレノアの立場上自由恋愛は出来ないだろうと、だから好きな人を作ることを諦めていた。
しかしコリンに出会ってしまった。
いつの間にかエレノアは彼に惹かれていた。
皮肉にもエレノアは婚約者を決められ、初めて自分の想いに気がついてしまった。そして、同時にこの想いは外に出してはいけないものだと悟った。
結婚した後はこの気持ちに蓋をしよう。
だが、せめて結婚するまでは、友として彼と一緒にいたい。
しかし同時に彼にはもう会えないのではないかという不安がエレノアの心に複雑に入り混ざる。
「今日はもう寝るわね。おやすみなさい」
ミラが部屋から出て行ったのを見届けると、その夜、エレノアは様々な感情を抱え声を殺して涙した。
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