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「留架……どうして……?」
「ふふっ、驚きましたか? 理葉さんの弟ですし、血縁による影響もあるのではないかと、研究に協力してもらっていたのですよ」
答えてくれたのは、所長さんだった。
「まだ小学生ではありますが、随分としっかりしてますから、エルヴァーになっても大丈夫だろうと判断したんです」
とかなんとか言っている所長さんの声は、あたしの耳にはほとんど届いていなかった。
なぜなら、留架×蚊の着ぐるみ、という最高のコラボレーションを施された物体が、あたしの目の前に光臨していたからだ。
「どうして留架が、蚊の着ぐるみを着てるの!? はう~~ん、可愛い! 可愛すぎる!」
あたしや萌波さんに与えられているものより小さなサイズの着ぐるみに身を包み、素肌が唯一出ている顔の部分に見えるのは、恥ずかしいのか頬を赤く染めた留架の憮然とした表情。
つり目でぶすっとした、ひねくれた性格を如実に示している目が、なんとも言えずいい味を出している。
ゆるキャラとして売り出したら、すぐにでも年間数億円の利益を生み出せるのではないだろうか。
「はう……、留架、パーフェクトだわ……。さすが、あたしの弟……」
ぎゅ~~~~~っ。
花の蜜の匂いに引き寄せられる蜂のように、ふらふらと歩み寄っていき、着ぐるみから露出している留架のプニプニほっぺにすりすりと頬をこすりつける。
「ぎゃ~~~~っ! 姉ちゃん、やめてってば! 汗臭すぎ! 死ぬ!」
「もう! 留架ってほんと、素直じゃないわね~! 嬉しいくせに!」
「嬉しくない! っていうか、姉ちゃん、今日はどうしてこんなに臭いんだ!?」
「臭くはないでしょ~? 確かに今日は、トレーニングをいつもの倍くらいこなして、練習試合までしたから、汗はたっぷりかいたと思うけど~。……そういえば、トレーニングのあと、汗を拭くの忘れてたかも……」
「そのせいか~!」
あたしの汗の匂いで興奮したのか、留架が暴れ出す。
でも、素直じゃないだけだもんね。思う存分、すりすりしてあげないと。
「ああ、もう! ほっぺた、ベタベタしてるし! 早く離れてよ、姉ちゃん!」
これはあれだよね?
押すな押すなという芸人さんみたいな感覚だよね?
「わかったよ、留架!」
すりすりすり、べたべたべた。
「うぎゃ~~~~っ! 全然わかってないじゃんかよ~~~~! 頬が腐る~~~~!」
いくらやっても素直になってくれないなんて。意地っぱりだな~。ほんと、愛い奴!
「あんたたちって……いつもいつも、仲がいいわよね~」
「そ……そんなことないです! っていうか萌波さん、ニヤニヤしてないで、止めてくださいよ!」
「見てて面白いから嫌よ」
「そんなぁ~~~~~!」
あたしと留架の絡み合いを、木乃々さんや所長さんも、ほのぼのとした表情で見つめてくれていた。
「姉ちゃん、ほのぼのじゃないから! あれは呆れてる目だから!」
そんなことを言う留架を、あたしはより一層力強く抱きしめ、すりすりぺたぺたもふもふし続けるのだった。
留架は以前から、所長さんのもとでトレーニングしていたのだという。
思えば、あたしがこの研究所に来る際、留架は必ずついてきていた。
最初の頃こそ拒絶しているような素振りを見せていたけど、ここ最近は文句も言わずに同行するようになっていた。
それは所長さんに誘われ、密かに訓練していたからだったのか。
「あれ? でも、ムスティークは? あっ! ミルちゃんを使うとか言われても困りますよ? ミルちゃんは留架より格上の家族なんですから!」
「姉ちゃん、ひどい……」
あたしの当然の言葉に、なぜか留架は不満げな顔をしていたけど。
それはともかく、謎は難なく解ける。
「留架くんにも、ミルちゃんとは別のムスティークを与えていますよ。この研究所で培養したムスティークをね」
その言葉に呼応するかのように、一匹の蚊が留架の肩の辺りへと飛んでいき、そっと止まる。
蚊……というか、ムスティーク。戦うために生まれし、小さき戦士。
「これが僕のムスティーク、チョコクレープだよ。愛称はチョコ」
「あはっ、美味しそうな名前ね!」
我が弟ながら、あっぱれなネーミングセンスだ。
「姉弟揃って、なに考えてんだか……。あなたたち、蚊を食べるつもりなの?」
「家族なんですから、食べるわけないじゃないですか。バカなこと言わないでください! ね~? 留架!」
「いや、家族じゃないけど……。まぁ、食べはしないよね」
ここでひとつ、疑問が浮かぶ。
「留架って、チョコちゃんといつも一緒にいるわけじゃないよね? 家に帰るとき、連れてきてなかったと思うし」
もちろんあたしは、ミルちゃんと片時も離れずに日々を過ごしている。ちなみに、お風呂にだって一緒に入る。
あたしの質問に、留架は即座に答えてくれた。
「うん。僕は研究所にいるときだけだね、チョコと一緒なのは」
「ですが、このところずっと血を与えていますから、完全にエルヴァーとして認識されているはずですよ」
所長さんも補足してくれたけど、それなら留架なんて、練習相手にもならないだろう。
だって、ムスティーク・バタイユの世界では、エルヴァーとムスティークとのつながりが一番重要なのだから。
「家族同然……ううん、完全に家族になってるあたしとミルちゃんに、即席でコンビを組んだだけの留架とチョコちゃんが勝てるわけないじゃないですか」
「そう思うかい?」
「はい」
自信満々に答える。
これは、鮎季さんと戦ったときのような過剰な自信ではない。
今まで培ってきた、ミルちゃんとともに過ごした時間の長さから来る、至極当然の自信だった。
「だったら、戦ってみるといい」
こうして、あたしは留架との練習試合を開始した。
☆☆☆☆☆
「留架。お姉ちゃんが胸を貸してあげるから、ど~んと飛び込んできなさい!」
エルヴァーの先輩として、そして人生の先輩として、余裕を持って受け止めるつもりで、あたしはミルちゃんをその場でホバリングさせる。
すでにあたしも留架も、エスプリ・ボワットの中に入り、戦闘態勢を整えていた。
チョコちゃんの姿が目の前にある小型モニターに映し出され、その右下の端っこには別のカメラが捉えた留架の顔も表示されている。
『姉ちゃん、僕、手加減せずに行くから』
留架の生意気な発言がスピーカーから聞こえてくる。
「黙らっしゃい! こてんぱんにしてあげる!」
なお、留架はすでに、蚊の着ぐるみを脱いでいる。エスプリ・ボワット内は狭いため、六本ある足とか長い口とか、いろいろと邪魔になってしまうからだ。
もう少し広く作って着ぐるみ着用を強制にすれば、もっと蚊の気持ちになれて試合も白熱するんじゃないかとも思ったのだけど。
ただでさえ暑くてつらいのに、着ぐるみまで着ていたら、脱水症状で大変なことになる心配もあるか、と考えを改める。
……おっと、余計なことで時間を浪費している暇などない。今は留架に実力の差ってものをわからせてやらないと。
ムスティーク・バタイユの練習試合ではある。でもこれは同時に、姉弟ゲンカでもあるのだ。
姉が弟に負けるわけにはいかない。それが姉としての務めだと、あたしは自負している。
いわば、立場をわからせるためのパフォーマンス。
社会に出れば、上下関係の中に身を置くのが当然となる。兄弟姉妹のあいだで、そのための予行演習をしていると言っても過言ではない。
家庭内で両親に従うのも、同じような理由からだと言える。
だけど、憎しみ合っているわけじゃない。
ケンカのあとにはお互いに笑顔を見せ、仲直りする。だって、あたしたちは家族なのだから。
「留架、直線的な攻撃ばっかりね!」
「ぐっ……!」
やっぱり、まだ全然慣れていない。
トレーニングを続けていたみたいではあっても、おそらく実戦経験はない。それも仕方がないことだろう。
だからといって、あたしは手を抜いたりしない。
対戦ゲームなんかでもそうだ。弱いからって手を抜いて勝たせてあげても、相手には悔しさが残るだけでしかない。
ここは心を鬼にして、留架を完膚なきまでに叩きのめす。
それはあたしに課せられた使命。
留架、恨むなら考えもなしにムスティーク・バタイユの世界に飛び込んでしまった、自分の浅はかさを恨むのね!
「ミルちゃん、全力のミラージュ・アタック、見せてあげなさい!」
――ぶぅぅぅぅ~~~んっ!
普段の数倍の速度で羽をはばたかせ、ミルちゃんは残像を残して不規則に動きまくる。
直線的に飛ぶことしかできないチョコちゃんの背後に、易々と回り込む。
「これで終わりよ!」
七色の輝きを放ちながら、チョコちゃんに突撃するミルちゃん。
爆発音と衝撃波が、オートエフェクト機能によって周囲に広がっていく。
チョコちゃんはスフィアの底部へと向けて落下、そこで勝負は決まる……はずだった。
『残念でした!』
ミルちゃんの攻撃が炸裂する瞬間、チョコちゃんが飛んだ。
一直線に。
スフィアの外周部分を目がけて。
凄まじいスピードで球形の外周にぶつかったチョコちゃんは、同じ速度で弾き飛ばされる。
何度も、何度も。
いや、弾き飛ばされているわけじゃない。これは……自らの足をバネにして、反動をつけてる!?
速度は徐々に上がっていく。
最初はどうにか目で追っていたものの、すぐにチョコちゃんの姿を見失ってしまった。
「うぐっ……!」
続いて襲いかかってくる、連続打撃。
『秘技! ストレート百烈キック!』
「蚊がキック~~~~!?」
あたしの視界……というか、ミルちゃんの視界である小型モニターの映像には捉えられていないけど。
ミルちゃんはチョコちゃんのキックを連続で食らい、やがてスフィアの底へと落下した。
そしてモニターに表示される、『You Lose』の文字。
あたしは留架を相手に、負けてしまったのだ。
「どうして……?」
エスプリ・ボワットから出たあたしは、その場に膝をついて倒れ込む。
「そりゃあ、姉弟ゲンカだって、絶対に姉ちゃんが勝つわけじゃないじゃん。下克上だってありえるんだよ」
留架が勝ち誇ったように言い捨てる。
でもすぐに、
「姉ちゃん、大丈夫? ケガはない? ……って、エルヴァーはケガなんてしないか。ほら、手を貸すから、立ちなよ」
あたしに気遣いの言葉をかけ、優しく手を差し伸べてくれた。
「……うん」
留架の手につかまって、あたしはゆっくりと立ち上がる。
五歳も年下になる弟の手は、とても大きく、そして温かく感じられた。
「留架くんは、かなり筋がいい。しかも、とても真面目に取り組んでくれました。理葉さんの試合の録画映像を何回も見返して、研究し続けていたんですよ。だからこそ、勝てたのです」
「そう……なんですか……」
所長さんからの言葉に、あたしは落ち込む。
すなわちこれは、役立たず宣言?
あたしに代わって、これからは留架が戦っていく、ってこと?
そう考えると、自分が情けなく思えてくる。
トレーニングや研究をしていたとはいえ、実戦経験のなかった留架に負けるなんて。ミルちゃんだって、呆れていることだろう。
――あたしには、ムスティーク・バタイユを続ける資格なんてないんだ。
涙を流し、「今日はもう帰ります」と小さくつぶやいたあたしに、誰も声をかけてはくれなかった。
知念さんに車を出してもらって、あたしと留架は家に帰った。
いつもどおり、木乃々さんも同乗していたけど、その道中でも車内はずっと沈黙に包まれていた。
たまに、
「姉ちゃん……」
と、留架が心配そうに声をかけてきたりはしていたけど、結局なにも言えないようだった。
あたしからエルヴァーの座を奪ってしまい、心苦しく思っているせいだろう。
――ぶぅぅぅ~~~ん……。
ミルちゃんが、弱々しい羽音ながら、あたしの周囲をくるくると飛び回る。
あたしを慰めようとしてくれているのだ。
それでも、あたしはうつむいたまま、顔を上げられなかった。
今日は、夕飯を食べてお風呂に入ったら、すぐに寝てしまおう。
いつもの倍のトレーニングに加え、二回の練習試合までしたことで、すごく疲れている。だから頭が働いていない状態なのだ。
考えたくないだけだとは、思いたくなかった。
家にたどり着き、夕飯とお風呂を終えたあたしは、二段ベッドに上がってタオルケットを頭からかぶった。
なにも考えていないはずなのに、悶々としたモヤが頭の中で渦巻き、全然眠れなかった。
夏だから、寝苦しい。
それだけが原因じゃないのは明らかだった。
「明日、どうしよう……。留架だけ研究所に行かせて、あたしは休もうかな……。その後も、ずっと……」
後ろ向きな思考ばかりが、頭をよぎる。
二段ベッドの下側では、留架がすでに安らかな寝息を立てている。
留架の息遣いと時計の音だけが響く重苦しい時間は、ただただ無意味に過ぎ去っていった。
どれだけの時間を無駄にしただろうか。
どんなに心配事で胸がいっぱいになっていても、人間にとって睡眠は必要なもの。空が明るくなる頃には、あたしはいつしか眠りに就いていた。




