女神パンドラと未来という名の少女
ドイツ人は己の愚行によって絶滅した。
大量の核兵器が高密度に使用された欧州は、もう人が住める環境では無かった。
最も多数の欧州人が生き残った場所は、アジア植民地になった。
だが、アジア植民地にいるフランス人やオランダ人の大半は軍人だ。
男女比と職業が極端に偏った人口構成は国家体制の維持を困難にしていた。
アメリカも主要都市が壊滅した事で誰がアメリカを統治しているのか、誰にも解らなくなった。
ソビエトも主要都市が壊滅した事で、交通網も通信網も失われ、生き残った人々は小さな村単位の自給自足で生きる近代以前に戻った。
たとえ、スターリンが生きていたとしても、彼の権力を保障する物は何も残っていない。
大日本帝国の関東地方だけは無事だった。
だが、地球上で無傷のまま残った主要都市は、帝都東京だけだった。
呉や佐世保だけでなく、大阪も京都も、札幌までもが核の炎に焼かれていた。
呉で出撃準備を整えていた戦艦大和と武蔵は初陣を飾ることなく、特攻核攻撃によって擱座していた。
日本だけでなく、朝鮮や台湾どころか、香港や上海まで、各地の都市は無線機で必死に救援要請を打てるなら、まだましだった。
音信不通になった都市すらあった。
大日本帝国は壊滅的な被害を受けた。
もう、誰も正確な被害を把握できない。
開戦から一か月で、死者は一千万人を超えるだろう。
本来の歴史では300万人と言われた犠牲者を、開戦から一ヶ月で三倍以上も超えた。
それは日本だけでは無い、他の国も同様だった。
生き残った山本五十六は悔いた。
古代ギリシア語で、パンドラは「すべての贈り物」を意味する。
『未来からの贈り物』は、開けてはならないパンドラの箱だった。
自分たちは、最初に箱の中から希望が出てきたことに浮かれてしまい。
希望の下に、人類を滅ぼす災厄が詰まっていることに気づかなかった。
これからどうするのか。
海軍省で会議が開かれることになった。
会議場に山本五十六が着席すると、目の前に未来の世界から新たな贈り物が現れた。
その場にいた人々は、最後の希望が現れたと信じようとした。
金属の箱には『最後の贈り物』と書かれていた。
この状況を打破できるものが入っているのではないか。
最後の希望を抱いて、山本は容器を開けた。
開けた瞬間、赤ん坊の泣き声が響いた。
「オギャァ、オギャァ」
中に入っていたのは、生後三か月ほどの女の子だった。
一通の手紙が添えられている。
そこには、すべての希望を打ち砕く言葉が書かれていた。
「日本の総人口は百万人を割り込んだ」
「もう、文明を維持出来るだけの人材も資源も残っていない」
「我々は静かに死んでいく未来を変えるため、残された全てを賭けたが駄目だった」
「未来をつなぐ子供を産める人間すら残っていない」
「日本人は絶滅する」
「この子が最後の子供だ」
「この子が天寿を全うできる日まで、世界が続くことを信じて、過去へ託す」
全員が絶望した。
我々の送り主は、滅亡寸前まで追い詰められた最悪の未来だったのか。
『未来からの贈り物』が途絶えていた理由。
『最後の贈り物』と書かれているのは、もう未来には過去へ送れるだけの資源もエネルギーも残されていない。
それは、最悪の現在である我々も同じだった。
我々はようやく、未来で何が起きているのかを理解した。
おそらく、タイムマシーンは科学技術が一定の水準を超えると、どの文明でも実用化できる程度の道具なのだ。
それはロケットで宇宙へ行けるのと、変わらない程度の技術なのだ。
タイムマシーンを開発した未来人は、自分に都合の良い歴史に改変しようとして、過去へ干渉した。
だが、都合良く改変された歴史は、他の誰かにとって不都合な歴史だった。
不都合な歴史に飲まれた側が、次の歴史改変者になる。
その繰り返しが起きていた。
互いに歴史改変を繰り返した結果、歴史は史実よりも悪い方向へねじ曲がり、ついには人類滅亡へ向かってしまった。
昭和十七年は、世界中で「夏のない年」と呼ばれることになった。
大量の核兵器の使用は、地球規模の環境変動を引き起こした。
急速な寒冷化。
日照不足。
降水量の減少。
世界の平均気温は大きく下がり、農作物に甚大な被害を及ぼした。
核兵器によって一億人が死に、その後一年で十億人が餓死する。
地球環境が元に戻るまでには、十年以上かかるだろう。
その間に、人類の半分が死ぬ。
それ以上に、食糧危機は地方農村よりも都市部の人口密集地帯を直撃した。
都市部の食糧危機により、高度な技術や科学知識を持つ人間が次々と消えていった。
それは、文明を維持するために必要な工業力の喪失と同じだった。
ビルや工場は次々と廃墟になっていった。
タイムマシーンによる歴史改変を繰り返せば、最後にはタイムマシーンが生まれない世界へ行き着く。
その瞬間、歴史改変は終わる。
人類滅亡こそ、タイムマシーンが生まれない最後の歴史だった。
百年後には、誰もいなくなる。
山本五十六は、赤ん坊を見た。
小さな手。
頼りない泣き声。
未来から送られてきた、最後の命。
山本五十六は決断を下した。
「人類が犯した愚行を教訓とし、人類滅亡を防ぐ。それが、我々の取るべき唯一の道である」
日本には、最後の希望が残されていた。
世界の主要都市の中で唯一、無傷で残った帝都東京である。
無茶な要求を世界に飲ませるためには、大日本帝国が世界で唯一の核保有国になることが必須条件だった。
東京湾に停泊する航空巡洋艦メアリー・イーストマンは、名前を改めた。
核攻撃艦パンドラ・ピトス。
この船に積まれた三十発の核兵器が、人類に残されたすべての核兵器になった。
それは、決して開けてはならない「パンドラの箱」となった。
皮肉にも、パンドラの箱に残された最後の希望は、最悪の災厄と同じものだった。
それから、壊滅した世界は年月をかけて少しずつ形を取り戻し始めた。
新たに帝都へ作られた国連本部に、世界中で生き残った人々の代表者が集まった。
そこに集まった代表たちは、勝者ではなかった。
敗者でもなかった。
全員が、生き残っただけの人々だった。
大日本帝国は、東京に残されたすべての兵力と、核攻撃艦パンドラ・ピトスを国連管理下に置くと宣言した。
国連憲章にタイムマシーンの禁止が明文化された。
未来を知ることは、希望ではない。
未来を奪い合う戦争だった。
それが、世界が血で学んだ結論だった。
山本五十六は周囲の反対を押し切り、グラディスに核兵器を託した。
自分達に祖国は無かったと悟った彼女達こそが、全ての国に対して公正中立な存在であると確信したからだ。
そして、最後の核兵器を永遠に使わせないためには、それが最善だと信じたからだ。
数奇な運命に弄ばれたグラディスは、国連軍司令官に任命された。
反対する人々を前に、グラディスは国連軍司令官に重い制約を課した。
「核攻撃は、国連軍司令官が自ら操縦して行う」
会議場が静まり返った。
「核を使う時、私は死ぬ」
彼女は続けた。
「そして、私の後任も同じ制約を受ける。命令する者が死なず、死ぬ者だけが遠くにいるから、人は核を撃てる。ならば、命令する者が最初に死ねばいい」
その制約を前に、人々は黙るしかなかった。
彼女は、人々から神話の女神のように「パンドラ」と呼ばれるようになった。
最後の贈り物となった少女は「未来」と名付けられ、山本五十六の養女になった。
彼女が天寿を全うできるまで平和な時代を守ること。
それが、人類に残された最後の使命になった。
人類は最悪の愚行から学んだ。
だが、本当に滅亡が回避されるのか。
タイムマシーンで未来を知ることができなくなった人類には、もう何もわからない。
ただ、未来という名の少女が笑った。
その笑顔を見た時、山本五十六は初めて思った。
未来とは、送られてくるものではない。
守り、育て、まだ見ぬ明日へ渡すものなのだと。
人類が最後に手にした『未来からの贈り物』は人類の半数を血のインクにして書かれた教訓だった。
パンドラの箱には希望だけが残されていたが『未来からの贈り物』には、希望と教訓が残されていた。
おわり




