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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
二章 珠洲原陽鳥という女
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九十五話 戦闘の終わった足で歩く


九十五話


95-1 戦闘の終わった足で歩く



沈砂池の縁を離れる時、御親領衛は誰も「撤収」と言わなかった。


連絡橋の中央から圧が消えた時点で、残っていたのは仕事の順番だけだった。崩れた足場を切る。戻り線を通す。外周の見物を散らす。中央の二人を歩かせる。声を足すより、足の置き方で済む段だった。


羽場桐妙子は、工区の南側通路へ出るまで振り返らなかった。

振り返って何か変わる相手ではない。凛藤義貞が退いたあとに残るのは、追跡可否ではなく「追う値段」だ。今夜の御親領衛にその値段は合わない。判断はもう済んでいる。


「東雲さん、先に紺野少尉を歩かせてください」


羽場桐が言う。


「護国少尉、後ろ。綾瀬さん、右壁側の崩れ見て」


短い指示が続く。


「志摩さん、端末線は外周へ。高倉さん、河岸の見物を切ってください。真名さん、樋道さん、人目だけ薄く」


返事は大きくない。だが全員すぐ動く。

紺野健太郎は自分で歩いていた。

歩ける、ではなく、歩こうとしている足だ。肩と脇腹の損傷は重い。血も止まり切っていない。それでも担がれる形を嫌うのは、紺野の性格でもあり、いまの戦場の余熱でもある。


「紺野少尉、右足の着地を少し短く」


東雲が半歩先に出て、振り向かずに言う。柔らかい声だった。


「いまの長さだと、次の角で膝が抜けるぞ」

「……分かってる」


紺野は舌打ちを飲み込み、歩幅を一度だけ直した。言いながら、直した。そこが今夜の変化だった。

珠洲原陽鳥は端末を抱えたまま、紺野の斜め後ろを歩く。

顔色は悪い。喉を焼いた時の白さが口元に残っている。親機群の逆流を受けたあとに無理をしている顔だ。だが、本人はその顔を隠す気がない。隠す余力を別に回している時の歩き方だった。


「今日はやめとけ。橋落ちるぞ」


高倉は工区の出口寄りで、見物に寄った河岸の男二人を市井の声で切っていた。本当でも嘘でもない言い方だ。


「明日見りゃ瓦礫は逃げねえ」


河岸の人間が引く理由だけを置いて、肩で人を散らす。

護国は紺野の後ろ、半歩ぶん広い距離を保つ。

手を貸せる距離。だが勝手には触らない距離だ。紺野がよろけた時だけ入るための位置取りで、視線は前より足元を見ている。戦闘中に凛藤へ口を挟まなかった分、いまは「どこで崩れるか」だけに神経を寄せていた。


工区を出る頃、志摩の端末から外周のノイズ報告が一度だけ入った。


『追尾の気配なし。外周は静か』


半笑いのない声だった。


『静かすぎて逆に腹立つけどな』

「静かなうちに帰ります」


羽場桐は頷くだけで、足を止めない。


「今夜の仕事は、ここで増やしません」

「……逃がした感じがする」


紺野が前を向いたまま低く言った。


「はい」


羽場桐は即答した。否定しない。


「その感覚で合っています。ですが、追って崩すより安いので、今夜は持ち帰ります」


冷たい返しだった。

冷たいが、いまの紺野はそれに噛みつかない。喉の奥にざらつきはある。あるが、戦場で払った値段の直後に、さらに別の値段を積む段ではないと、体の方が先に理解している。


「……健ちゃん」


陽鳥が端末を見たまま、小さく言う。外だ。耳はある。だが呼び方が一瞬崩れる。


「あとで話す」


紺野は返事をしない。

しないまま歩幅だけをもう一度直した。東雲の言った通り、右足の着地を少し短くする。会話に応じない代わりに、崩れない順番だけは守る。そういう返し方だった。


95-2


本部へ戻った時、夜はもう深くなっていた。


配車場の石畳は昼より広く見える。人が少ないからではない。残っている人間が皆、急がないふりをして急いでいる時の広さだ。灯りの下で、血の色だけが妙に落ち着いて見える。


「護国少尉、医療班へ紺野少尉。東雲さん、珠洲原主任の喉を先に」


羽場桐は玄関の段を上がる前に、順番だけを切った。


「真名さん、樋道さん、外周記録は時刻だけ暫定で。内容は後段。志摩さん、端末線履歴を保全。綾瀬さん、足場崩れの図だけ先に」


高倉へ視線を向ける。


「高倉さん、今夜はここで終わりです。店は見なくて大丈夫ですか」

「見に行っても、今夜は何も買わねえ客しかいねえよ」


高倉が帽子を被ったまま鼻で笑う。肩を竦める。


「そっちはお前らの仕事だ」

「紺野少尉」


紺野は医療班の前で止まるのを嫌がったが、護国に一度だけ肩を押されて中へ入った。

護国の声は低い。


「ここで倒れる方が後で面倒です」

「分かってる」


紺野が睨む。


「なら、先に縫わせてください」

「……はいはい」


言い方は不機嫌でも、入る。

護国はそこで余計なことを言わない。止血と固定の間に説教を挟んでも、今夜は何も得しないと知っているからだ。


陽鳥の方は東雲に連れられて資料室の隣の小部屋へ入った。

喉の熱傷は外から見えにくい。見えにくいから、本人が「大丈夫」の顔を作ると放置されやすい。東雲はそういう時ほど先に座らせる。


「珠洲原主任、声を二回出してください」


東雲が言う。


「長くなくていいので」

「……あー。いー」


陽鳥は白衣の襟を少し緩め、短く返す。二音で十分だった。


「喉、焼けてるな」


東雲の目が細くなる。


「ちょっと」

「ちょっとではないです」


東雲は柔らかい声のまま、医療班へ小さく呼びに行く。


「でも、いまは動ける顔をしてくださって助かります」


陽鳥はその背中に、少しだけ口元を歪めた。笑いではない。

助かる、と言われるのは嫌いじゃない。だが、今夜はその言葉で軽くなれるほど単純でもない。


資料室では、羽場桐がもう紙を広げていた。

ただし中央には置かない。戦闘の詳細報告書も、凛藤の介入記録も、今夜は机の端だ。中央には白紙を置く。今夜必要なのは整理ではなく、順番の固定だからだ。


「紺野少尉、縫合と固定に入りました。歩行は可能ですが、今夜の再出動は不可」


護国が医療班から戻り、短く報告する。


「珠洲原主任は」


羽場桐が頷く。


「喉と演算疲労。こちらも今夜の再戦は無理です」


東雲が戻って答える。一拍置いて、淡く付け足す。


「端末は離さない顔でした」

「でしょうね」


羽場桐の指が白紙の端を押さえる。


「で、報告どう切るんだ?」


志摩が端末を耳から外し、壁にもたれる。半笑いはない。


「内容、どこまで書く」

「段階だけです」


羽場桐は即答した。


「詳細なやり取りは今夜は書きません。こちらの学習過程まで相手の材料にする必要はない」


視線を上げる。


「結果だけ先に出します。凛藤義貞の現行介入、殺害目的なし、非致死運用のまま高位介入継続可能。中央線は有効打を二度通過、ただし決定打には至らず。撤退ではなく戦闘離脱」

「足場崩れの図は添えます」


綾瀬が小さく言う。


「お願いします」


羽場桐は頷く。


「構造物の死に方は、次に使います」


樋道が珍しく口を挟まない。

真名も騒がない。

二人とも、中央の戦闘を"見た"のではなく、"見せられた"感覚だけが残っている顔だった。自分たちが入る段ではないと分かるから、軽口で濁せない。


「今夜の客は品定めだったな」


高倉は帽子を膝に置いたまま、紙を見ずに言う。誰へともなく落とす。


「しかも買う気はある。いつ買うか決めてる顔だ」


凛藤の名を出した会話には行かない。

それでも、その言い方だけで部屋の全員に十分伝わる。今夜の戦闘は終わったが、介入そのものは終わっていない。

羽場桐は白紙へ短く書いた。


中央線、戦闘離脱後の順番固定


その字を見て、部屋の空気が少しだけ整う。

解決したからではない。次にやるべきことが、紙の上で一つにまとまったからだ。


95-3


紺野の縫合が終わった頃には、本部の廊下はほとんど音を落としていた。


詰所の灯り。資料室の擦れる紙。どこかで東雲が湯を注ぐ音。

夜の本部は静かになるのではない。音の数が減る代わりに、残る音が長く伸びる。


紺野は医療班の部屋を出ると、そのまま資料室へ向かわなかった。

向かえば羽場桐がいる。護国もいるだろう。仕事の順番の話になる。いまそれをやると、ちゃんとやれてしまう気がして嫌だった。

廊下の曲がり角で止まる。

そこへ、陽鳥が来た。


白衣の襟元を少し緩めたまま、端末を抱えている。喉を焼いた声だ。いつもの軽さが一段落ちている。

二人きりになるのを待っていたみたいに、陽鳥が先に言う。


「健ちゃん」

「……姉さん」


紺野は壁に寄りかかったまま返す。二人きりだ。だからその呼び方になる。


「あとで話すって言ったな」

「言った」


陽鳥は頷く。端末を抱える腕に少しだけ力が入る。


「今、話す」

「資料室じゃないのか」


紺野の眉が寄る。


「妙子ちゃんの前だと、順番の話になるから」


陽鳥はあっさり言った。


「今日はそこじゃない」


一拍置いて、紺野の傷の固定を見た。


「歩ける?」

「質問が遅い」


紺野は鼻で息を吐く。


「そうだね」


陽鳥は小さく口元を歪める。笑いの形だけ作って、すぐ消す。

廊下の先、整備棟へ抜ける裏口は半分だけ開いていた。夜気が入る。


「外。部屋の中だと、たぶん私が先に逃げる」


陽鳥はそちらへ顎を振る。

その言い方が妙に率直で、紺野は一瞬だけ返す言葉を失う。

逃げる、という単語をこの女が自分から使う時は、たいてい本当に嫌な話をする前だ。


「……分かった」


紺野が言う。


「行くさ」


裏口を出ると、本部裏の整備棟脇は灯りが薄い。

壁際に古い椅子が二脚、雑に重ねて置かれている。誰かが昼間に使って、そのまま戻し忘れた類の椅子だ。陽鳥はその上の一脚を引き、紺野へ押し出した。


「座って」

「立てる」

「知ってる」


陽鳥の声は低い。


「でも今日は、立ってると先に顔で喧嘩する」


紺野は露骨に嫌そうな顔をしてから、座った。

正しいからだ。正しいから腹が立つ。

陽鳥も向かいに座る。端末は膝に置く。

指はまだ端末の縁を触りたがっている。触れば仕事の話に逃げられる。逃げないために、あえて手を離した。


しばらく沈黙が続く。

本部の裏は静かだ。遠くで車輪の音が一度、詰所の方で誰かの笑いが短く跳ねてすぐ消える。室内ではない。街の真ん中でもない。仕事と私事の間のような場所だった。


「今日の戦いの話、先に一個だけ」


先に口を開いたのは陽鳥だった。喉を気にして短く切る。


「健ちゃん、前よりずっと良かった」

「褒めに来たなら帰るぞ」


紺野の顔がすぐ硬くなる。


「違う」


陽鳥は即答した。


「ここから先の話をするために、先にそこを置くの」


目を逸らさない。


「前より良かった。だから、次は今までのままじゃ死ぬ」


紺野の喉の奥がざらつく。

痛みのせいだけではない。戦場で凛藤に言われたのと似た形の言葉を、いま陽鳥の口から聞くのが嫌だった。


「……何の話だ」


低く言う。


「健ちゃんの力の話」


陽鳥は一度だけ息を吸う。喉が痛むのか、吸い方が浅い。端末に触れないまま続ける。


「使い方じゃなくて、もっと手前。どうして今の形になるかの話」

「また順番か」


紺野の目が細くなる。


「うん」


陽鳥は頷く。


「でも、今日は順番で誤魔化さない」


そこで初めて、陽鳥の声から軽口の形が完全に消えた。

研究局の主任でも、御親領衛の外部顧問でも、からかう姉でもない。紺野の前でだけ出る、いちばん面倒な真顔だ。


「私、ずっと健ちゃんに"間違った持ち方"させてた」


言い切る。


「わざと」


一拍。


「必要だったから。怖かったから。隊を壊さないためでもあった」


紺野はすぐには返せない。

怒る言葉も、否定する言葉も、先に出てこない。予想していた線ではある。だが、予想していた形よりずっと率直だったからだ。


「ほらね。こういう話、部屋の中だと逃げたくなるでしょ」


陽鳥が喉を押さえ、苦く笑う。笑いを消す。


「でも逃げない。次の戦いの前に、ここは言う」


本部裏の薄い灯りの下で、二人の間に古い椅子が二つある。

距離は近くない。近くないまま、今までよりずっと逃げ場が少ない。


紺野は膝の横で右手を一度だけ握る。

怒りを飲む合図。いまはそれだけじゃない。聞く前に立ち上がらないための合図でもあった。


「……言えよ、姉さん」


低い声だった。


「最後まで聞く」


陽鳥はその返事を聞いて、端末ではなく紺野の顔を見る。

それから、ようやく次の言葉を選び始めた。ここから先は、戦闘の外で払う値段の話になる。凛藤が切った段の続きだ。もっと面倒で、もっと個人的な段だった。


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