六十五話 飲み込む言葉
六十五話
65-1 飲み込む言葉
搬入口の朝は、声が多い。
荷台の減速音、札束を数える声、補充線の指示、掃除担当の返事。全部が重なって、全部が流れていく。紺野健太郎はその中に立って、今日初めて、自分の声がどこにあるか意識した。
いつもは考えない。声は出る。止まれと言えば止まる。それだけだ。
今日は違う。今日は「止まれ」を飲み込んで、別の言葉を出す。
「そこで待て」
昨日から何度か頭の中で試した。試すたびに、自分の声じゃない気がした。温度が低すぎる。柔らかすぎる。「止まれ」は出力だが、「待て」は何かを計算している言い方だ。計算している声は、自分には似合わない。
それが分かっていて、羽場桐中尉は使えと言った。
「紺野少尉。試す言い方は二つだけです。"そこで待て"と"そこへ置け"。それ以外はいつも通りで」
いつも通り、と言われたのに、今日はどこも通り通りではない。搬入口の声の量は同じなのに、自分の声の置き場所だけがない。
最初の荷台が来る。
補充札の貼り位置が左下だ。古い型。昨日と同じ仕掛けだが、今日は位置が一台分奥にある。昨日より距離を取っている。見ている。
紺野は一歩出た。
喉の奥で「止まれ」が先に来る。それを飲み込む。飲み込んだ言葉は、胸の少し上のあたりで止まった。変な感触だ。
「そこで待て」
声に出た瞬間、自分の耳に引っかかった。音が丸い。圧がない。こんな声が自分から出るとは思っていなかった。
運転手の肩が止まる前に揺れた。小さく、一度だけ。
次の瞬間、女声が来る。
「大丈夫、そのまま」
搬入口の正面ではない。右の壁沿い、少し奥の角だ。声だけが来て、人の気配がない。上手い。声だけを空間に置く技術がある。
運転手の手がハンドルを切りかける。
紺野はそれを見て、何かが腹の底で動いた。怒りではない。もっと冷たい何かだ。「待て」と言った自分の声より、「大丈夫」の方が先に届いた。その事実が、静かに気に入らない。
真名が横から運転手の正面に入る。音がない動き方だ。
紺野が重ねる。
「そこへ置け」
今度は自分の声が少し変わっていた。「待て」より低い。温度が下がっているのではなく、何かが混じっている。混じったのが何か、まだ分からない。
運転手の手が迷う。止まり方が半拍遅れる。
「来たな」
志摩が低く言う。耳だけで聞いている声だ。
端末が震える。護国からの短文だ。
外壁沿い一名、搬入口の声と同時に停止
掃除札の棚へ移動
羽場桐が静かに言う。
「護国少尉、搬入口維持。高倉さん、掃除札棚へ。紺野少尉はここで顔を残してください」
ここで顔を残す。
動くな、ということだ。分かっている。それでも足が一瞬だけ出かかった。出かかった足を戻す時、昨日飲み込んだ「止まれ」が、また胸の上のあたりで揺れた。
高倉が生活みたいな歩き方で掃除札棚へ回る。急がない。ああいう歩き方ができる人間は、現場の空気を知っている。知っているから、急かない。
紺野は搬入口に立ったまま、次の荷台を待つ。
声の量は変わらない。荷台の音も変わらない。女声はもう来ない。
来ないのは、こちらが動かなかったからか、相手が距離を取ったからか。どちらかは分からないが、どちらにしても相手は見ている。
「紺野少尉。次の荷台を通します。"そこで待て"は使わないでください」
羽場桐の声が来る。
「もう終わりか」
「十分反応が出ました」
次の荷台が来る。
「止まれ」
自分の声が、搬入口の空気に当たって跳ね返った。いつもの音だ。さっきの「待て」とは全然違う。こちらの方が、自分には似合っている。
荷台は迷わず止まった。
女声は来なかった。
紺野は補充札の左下貼り位置を一度だけ見る。
「待て」と言ったとき、相手はすぐ動いた。「止まれ」と言ったとき、相手は動かなかった。温度の差が、そのまま相手の反応の差になった。
自分の声が武器になる感覚は知っている。
自分の声を道具にして試される感覚は、今日が初めてだった。
65-2
高倉が戻ってくる。手に薄い紙片と小さな木片。
「札束の角に噛ませてた。補充の人間が気持ち悪くて直しに来るのを待ってる仕掛けだ」
護国が封入する。手つきが静かだ。乱さない動き方を知っている人間の手だ。
陽鳥の声が端末から来る。
『今日の女声、昨日より遠い。外壁の角から一段奥に下がってる』
「距離を取ったのか」
紺野が言う。
『そう。昨日こちらが動いたのを見てる。でも声は来た。距離を取っても、やめなかった』
「やめない理由は」
『止まれる可能性があったから。健ちゃんの「待て」が、昨日の「止まれ」より柔らかかったから』
紺野は黙った。
柔らかかった。それは事実だ。自分でも分かっていた。「待て」を出した瞬間に、自分の声が思っていたより丸いと気づいた。気づいていたのに、訂正できなかった。
「声の温度を下げると、相手は入ってくる」
羽場桐が引き取る。感情のない確認だ。
「訂正ではなく、安心を上から足してくる。"大丈夫"は命令ではないから、こちらの命令と正面からぶつからない。横から入ってくる」
真名が言う。
「言葉に勝つんじゃなくて、言葉の隙間に入ってくる」
志摩が顔をしかめる。
「胸糞悪いな。動いたのは運転手なのに、判断したのも運転手ってことになる」
言い終えて、少し遠くを見た。
紺野はそれを横目で見たが、何も言わなかった。
「腹が立ちますか」
羽場桐が紺野を見る。
唐突な問いだった。感情を尋ねる声ではない。確認する声だ。
「少しな」
「どこで」
「"待て"が"大丈夫"に負けた時」
「負けたのではありません」
羽場桐が言う。
「あなたの声が丸かったから、相手が動いたのです。相手の声が強かったのではない」
「結果は同じだろ」
「結果は同じですが、原因が違います。原因が分かれば、次は変えられます」
紺野は黙った。
反論ではない。受け取る場所を探している。羽場桐が言うことは正しい。正しいから余計に、どこに置けばいいか分からない。
陽鳥が言う。
『次、温度下げるなら"責任を濃くする"言い方にして。"そこで待て"じゃなくて"そこで待て、今は通さない"。理由を一個つけると、"大丈夫"は横から入りにくくなる』
「理由をつけて変わるか?」
『理由があると、運転手が判断する必要がなくなる。判断の隙間がなくなると、"大丈夫"が入る場所もなくなる』
紺野は腕を組む。
「……つまり俺の「待て」は、判断の隙間を作ってたってことか」
『そうね』
「柔らかかったから、相手に考える余地を渡した」
『健ちゃん、飲み込み早いね』
「褒めるな。気持ち悪い」
高倉が帽子のつばを引いて笑いを堪える。志摩は堪えない。
紺野は端末を見た。羽場桐が紙に何かを書いている。
「明日もあるか」
「明日、"直させない運用"に移行します。外周観測は一度切ります」
「切ったら相手はどう動く」
「分かりません」
羽場桐が顔を上げる。
「だから見ます」
分からないから見る。それが羽場桐中尉という人間の動き方だと、紺野はここ数日で覚えた。分からないことを分からないまま動ける人間と、分かるまで動けない人間がいる。自分はどちらかと問われたら、たぶん後者だ。だから今日みたいな話は、少し居心地が悪い。
65-3
夕方、人が引いた後の詰所裏は静かだった。
朝の湿り気は消えて、乾いた木と埃の匂いだけが残っている。羽場桐が掛け板の前に立つ。紺野はその横に立って、何を見ればいいか分からないまま立っている。
「昨日ここで音がしました。掛け板の裏に仕掛けが入っていた場所です」
羽場桐が掛け板を指す。
「今は何もありません。でも、ここを通る補充の人間は、たいてい一度だけここを触ります」
「なぜだ」
「ずれているからです。ほんの少し、掛け板の下端が浮いている。気持ち悪い。だから触る」
紺野は掛け板を見る。
確かに浮いている。言われなければ気づかなかった。言われた後は、気になって仕方がない。
「なるほど、触りたくなる」
「そういうことです」
羽場桐が言う。
「"つい直す"は、場所が持っている引力です。引力に気づかない人間は、引かれたことにも気づかない。引かれた手が、証拠になる」
紺野は掛け板の下端を見たまま言う。
「俺は今日、"待て"を飲み込んだ」
羽場桐は返事をしない。続きを待っている。
「"止まれ"が先に来た。それを飲み込んで、別の言葉を出した。その時、胸の上のあたりで止まった感触があった」
「はい」
「それと同じか。掛け板に触りたくなるのと」
羽場桐が少し間を置いた。
「似ていると思います。身体が先に動こうとする。それを止める時に、何かが残る」
「残ったもので、見える」
「見えます。触った手も、飲み込んだ声も、どちらも跡が残る」
紺野は掛け板から目を離した。
搬入口で「待て」を出した瞬間の感触が、まだ胸の上の方にある。飲み込んだ「止まれ」が行き場をなくして、そこにいる。明日また飲み込む時、もう少し上手くできるかどうか分からない。上手くできたとして、それが自分の声になるかどうかも分からない。
「中尉」
「はい」
「俺が「待て」を上手く使えるようになったら、相手はどうする」
羽場桐が考える顔をした。考えてから答える。
「距離をもう一段取ります。あるいは声の種類を変えます」
「いたちごっこだな」
「そうです」
「楽しいか、それ」
羽場桐が紺野を見た。
少しだけ間があった。
「楽しくはないですが、許容は出来ませんね」
紺野は息を吐いた。
「俺も同じだ」
搬入口の方から、荷台の音が聞こえた。夕方の最終便だ。今日の補充は終わる。明日また来る。明日また女声が来るかどうか分からない。来なかった時の方が、むしろ厄介かもしれない。
羽場桐が掛け板を一度だけ触った。
ほんの少し、下端を押さえて、戻す。
「触りましたね」
羽場桐が言う。
「……触った」
「私もです。さっき」
紺野はそれを聞いて、短く笑った。声にはならない程度の笑いだった。
「中尉も"つい直す"のか」
「引力があると分かっていても、引かれます」
「引かれた方が負けか」
「気づいた方が勝ちです」
紺野は詰所裏を出た。
夕方の本部の空気は、朝より少し乾いている。乾いた空気の中で、胸の上のあたりの感触が少しだけ薄くなった気がした。気がしただけかもしれない。
明日また飲み込む。
その時は、何が残るか確かめてみようと思った。




