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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
二章 珠洲原陽鳥という女
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六十四話 外で曲がるもの

六十四話


64-1 外で曲がるもの



本部の外周は、中より静かで、中より誤魔化しが利く。


壁沿いの補充線、詰所裏へ回る細通路、掃除道具の出入り口。どれも人目の中心から半歩外れている。半歩外れている場所は、誰の仕事か曖昧になりやすい。曖昧な場所は、手順を盗む側には都合がいい。逆に言えば、盗まれている側には、最初に崩れる場所でもある。


羽場桐は、詰所裏へ続く細通路の入口で一度だけ足を止めた。


朝の湿り気がまだ壁に残っている。陽の当たらない面の匂いだ。乾いた土と、古い木箱と、掃除用の薬液が少し。本部の人間なら鼻で通り過ぎる匂いだが、今日は匂いの順番まで神経に引っかかる。場所が持っている癖を、自分の身体が先に読もうとしている。それが分かるのは、少し嫌な兆候だった。慣れてきている証拠だ。


「見える線を最初に出します」


護国が頷く。返事の代わりに顎を引く癖が、ここ数日で羽場桐にも読めるようになっていた。

高倉は帽子を被り直し、通路の奥を見た。目だけが鋭く動いて、身体はのんびりしている。あの落差は本物だ。


志摩は端末を耳へ当てたまま、壁に肩を預けて立っている。立っているのか壁に溶けているのか分からない姿勢で、ちゃんと全部聴いている。


紺野は少し後ろ、わざと目立つ位置だ。今日は束を持たない。顔と足だけ使う。それだけで十分だと、本人も分かっているはずで、分かっているから何も言わない。


「運び順は、古い方を一回だけ」


羽場桐が紙を確認する。順番を間違えると意味がない。


「詰所裏の補充箱を先、掃除箱を後。今の本部では逆が普段です」


高倉が低く言う。


「"わざと古く戻す"ってことだな」

「ええ」


羽場桐は頷く。声に出すほどのことではないが、高倉に言葉にしてもらうと輪郭が固まる。昨日からそれに気づいていた。


「見せるのは一回だけ。二回やるとこちらの癖になります」


紺野が壁の角を見たまま言う。視線を動かさずに喋るのが、紺野という人間の常で、それが奇妙に説得力を持つ。


「見てるやつが近いなら、一回でも十分か」

「その可能性が高いです」


護国が引き取る。


「昨日の本部内は、追従が速すぎました。外で拾って中へ返しているなら、接続線のどこかに目と口がある」


志摩が端末をずらし、半笑いで言う。


「目と口って便利な言い方だな。耳も手もあるだろ、たぶん」


べつに反論ではない。ただ言いたいだけだ。それが分かるから誰も答えない。


東雲が詰所側から補充箱を押してくる。後ろに三つ子。今日は運ぶ役ではない。位置取りの補助だ。三人とも昨日より静かだが、静かな子供は静かなりに目立つ。背が小さい分、かえって視線を集める。


「一葉、前に出ない」

「出てない」

「双葉、壁を見すぎない」

「……壁の方が信用できる」

「三葉、笑うのはいいけど、足を先に」

「はーい」


東雲の声は柔らかい。柔らかいが、位置が先に入る。言葉より身体が先だから、三つ子はそれでちゃんと動く。荒臣が言っていたのはこれだと、羽場桐は改めて思う。あの人の言葉は、後から正しくなる。


珠洲原主任は本部内にいる。今日は外へ出さない。出せば早いが、早さに頼りすぎると他の線が育たない。代わりに端末の向こうで、外周に置いた受信部の反応を拾っている。それだけで十分すぎるくらい有用で、それが少し恐ろしい。


『羽場桐中尉、詰所裏の奥。反響値ちょっと上がった』


陽鳥の声が端末から来る。


『人が立ち止まった時の上がり方。荷じゃない』


羽場桐は即答しない。この瞬間に返事をすると、迷いが声に乗る。視線だけ護国へ送る。護国はもう動いていた。通路の奥へ行くのではなく、手前の掃除用棚の前へ回る。相手が「奥を見てほしい」と思う場所ほど、先に手前を疑う。まっすぐ動いた人間が、わざとまっすぐを外す動き方だ。


紺野はそれを見て、口の端をわずかに歪めた。


「中尉、また性格悪くなってきたな」

「最初からです」


高倉が吹き出す。笑いは小さい。外周の空気を崩さない程度だ。狙ってやっているから、ちゃんと程度を守れる。


「では、始めます」


羽場桐が言う。


「見える線、古い運び順。声は最小限。位置先行。拾うのは"音"と"止まる場所"」


誰も返事を長くしない。仕事の前の短い頷きだけで十分だった。外周の朝の空気が、少しだけ張り詰めた。


64-2



最初に動いたのは、箱ではなく人の目だった。


東雲が補充箱を押し、樋道が後ろから掃除箱を持って続く。古い運び順だ。本部のいまの運用を知っている人間には、わずかな違和感になる。知らない人間には、ただの搬送にしか見えない。見分けがつくのは、この場所の癖まで読み込んだ目だけだ。


だから見るべきは、その目が動く方向だ。


紺野は通路の入口に立ち、行き交う人間の肩と足だけを見ていた。顔を追わない。顔を追うと自分の癖が前へ出る。今日は見える顔の役だ。顔は使うが、視線は使いすぎない。使いすぎた視線は、どこかに触れた跡を残す。


補充箱が通路の角へ入る。

詰所裏細通路は、物が先に曲がる場所だ。人間が先に曲がると肩が当たる。だから本部の連中は、箱の角を先に入れてから身体を回す。この"半拍"が、運び順を見る側にはよく見える。運ぶ側の身体の癖は、何年も積んだ習慣の形をしている。

東雲がその半拍を、わざと古い癖で長く取った。


次の瞬間、通路の奥で、かすかな擦過音が鳴った。


金属ではない。紙でもない。木の裏を何かが擦る音。乾いた木と、湿った何かが触れる音だ。護国の視線が動く。紺野も同じ方向を見る。奥ではない。右の壁、掃除用具の掛け板の裏だ。

音ひとつで空気が変わる。変わったのに、通路の外から見れば何も起きていない。


「一葉、左壁へ」


東雲が先に言う。

一葉が反射で左へ寄る。双葉と三葉もつられる。三人が通路の芯から外れた瞬間、護国が掛け板の下へ手を差し入れた。指先が止まる。触れた、という顔だ。見つけた、ではない。あった、という顔だ。


「あります」


短い声だった。それで十分だった。


同時に、通路の入口側から柔らかい女声が入る。


「その箱、先に戻して」


声の温度は穏やかだった。命令の形をしていない。だからこそ、引力があった。


樋道が一瞬だけ掃除箱を戻しかける。身体が先に動いた。頭より身体の方が素直なのは、疲れている時か、声に慣れている時だ。


真名が横から無言で視線を切った。手で触らない。声も使わない。樋道の正面に入って、箱の進路の先だけを塞ぐ。それだけで樋道の目が引かれ、足が止まる。


「樋道君、壁」


真名が低く言う。


樋道が舌打ち混じりに従う。


「分かってるって」


本当に分かっていたか、分かってはいたが身体が負けかけたか。どちらかは判別し難いが止まった。


護国が掛け板を少し浮かせる。

裏に貼られていたのは、受信部ではなかった。薄い伝票綴りの切れ端と、小さな針金片。大きくない。だから余計に、じっくり見てきたものの痕跡だと分かる。

高倉がそこへ顔を寄せる。帽子のつばを上げて目を細めた。


「掃除棚いじるやつの手つきじゃねえな」

「ここ、普段掃除の人間はもっと手前を使う。奥に手ぇ入れるのは、置き場所知らねえやつか、わざと知ってるやつだ」

「護国少尉、針金片と紙片だけ封入。棚は戻してください」

「はい」


平静な声で答えながら、護国の手つきが丁寧だった。元の位置に戻す精度が高い。後で気づかれない元の状態に戻すのが上手い人間は、壊し方も知っている。


志摩が通路入口で端末を耳に押し当てたまま言う。


「中尉、外壁沿いで一人止まった。十秒。いま動いた」


羽場桐の背筋に何かが走る。冷たくはない。ただ鋭い。


「どちらへ」


「搬入口側。走ってない。補充の人間っぽい歩幅」


紺野の足が出かかる。靴底が石畳を踏む音が、動く前の一瞬に止まった。


「追いません」


羽場桐が先に切る。


「紺野少尉、搬入口へ先回り。顔を見せてください」

「……了解」


短い間があった。不満ではない。納得の間だ。紺野は通路を離れる。走らない。歩幅だけ大きくして搬入口へ向かう。走ったら相手も走る。歩幅の大きさなら、気づかれない。

端末が鳴る。陽鳥だった。


『いまの女声、語尾だけ拾えた。"戻して"じゃなくて"戻せる?"に寄せてる』


「命令じゃなくしてるってことか」

『そう。断定を避けてる。責任持たない言い方』

「分かってる」


搬入口の前へ出ると、補充線の荷台が一台、わざとらしく遅い速度で入ってきていた。

遅い。あの速度で走る理由がない。止まるか行くか、決めかねているのかもしれない。決めかねている人間は、止められると従いやすい。

紺野は荷台の前へ一歩出る。


「そこで止めろ」


運転手の肩が一瞬だけ跳ねる。小さく跳ねて、それから止まる。反射が正直だ。

荷台が止まる。

紺野は補充札の貼り位置を見る。右上ではなく左下。古い運び順の時の貼り方だ。紙一枚のことだが、紙一枚がここまで揃う。


「……こっちもか」


紺野は短文を送る。


搬入口、補充札の貼り位置まで古い型

見える線に反応済み

運転手は指示待ちというより"判断を借りてる"動き


荷台の横へ回る。木枠を叩くと軽い音が返る。


「高倉さん」

「何だ」

「この積み、変じゃないか」

「ああ、変だな。重いもん手前に寄せすぎだ。運ぶ側が楽する積み方じゃねえ」


重さの配分を考えて積む人間は、運ぶことを知っている。これは、運ぶことを知らないか、あるいは運ぶことより別の目的で積んだかだ。


「……分かった」


遠くで東雲の声が聞こえる。三つ子の足音が揃う。女声は重ならない。



64-3



小会議室へ戻る頃には、紙の種類がまた一つ増えていた。


机の上に広げた紙を見ていると、線が少しずつ形を持ち始める感覚がある。最初は点だったものが、並べると軸になる。軸が見えてくると、こちらを見ている目の場所が想像できるようになる。想像できる、というのは気持ちが悪い。相手を知る前に、相手に近づいている気分になるからだ。


高倉が言う。


「仕組みは分からん。けど、荷の貼り位置と帳場の書き順は、楽な方に戻る。戻ってねえ時は、誰かが"見せるため"に触ってることが多い」


羽場桐は補充札控えと記録を並べる。


「見える線に合わせています」


護国が言う。

陽鳥が写真を拡大した。


「詰所裏の掛け板は、"置き場"だけ使ってる。今日は声より運び順の確認が主目的だったっぽい」


紺野が眉をひそめる。


「声を切ったのか」


「切ったというより、薄くした」


陽鳥が答える。声の中に考えている時間がある。

志摩が言う。


「更新役、近くにはいた。でも廊下じゃなくて外周寄り、ってことか」


東雲が頷く。


「声が重なるより、運び順が先に変わった。距離を取りましたね」


昨日より慎重になっている。昨日、本部内で何か引っかかったのだ。何が引っかかったかは分からないが、相手が距離を取ったという事実は残る。


綾瀬が紙片を見ながら言う。


「この幅、やっぱり景道院寄りです」


羽場桐は深掘りせず、紙に見出しを足す。


"見せるために触る場所"


詰所裏の掛け板。

補充札の貼り位置。

伝票箱の二重底。

掲示板前の置き箱。

返納台の角と棚脚。

河岸の控え板の裏。


並べると、小さくて地味で、全部言い訳が立つ場所だ。誰かに見られても、たまたま触っていた、で通る。それが狙いだと分かっていても、証拠として使いにくい。使いにくいものを積み上げて動いている相手は、焦っていない。


「大きい物を盗る気が薄い理由が、また一つ増えました」


羽場桐が言う。


「欲しいのは、現場の"触ればずれる所"です」


高倉が帽子を叩く。手のひらで叩く音が小気味いい。


「荷を持ってくより、厄介だな」


真名が頷く。


「目立たないし、言い訳が効く」


樋道が口を尖らせる。


「しかも毎回ちょっとずつ嫌な方向なの、性格悪い」


部屋にいる全員が、少し顔をそちらへ向けた。正論だった。

志摩が笑う。


「お前が言うな」

「なんでボクが言っちゃダメなんだよ」

「なんでだろうな」


羽場桐は次の紙を引く。笑いは邪魔ではない。部屋の空気が緩むと、次の話が入りやすくなる。


「この線、もう一日だけ使います。補充線と掃除線をずらして。相手が"貼り位置"まで見て追うなら、見る側の立ち位置も固定のはずです」


護国が言う。


「見る側の位置を逆算する」


「ええ。ただし追跡はまだしません。顔より、位置と役割です」


紺野が低く言う。


「また顔は後か」


声に不満はない。確認だ。


「後です。顔を取っても、役割が分からなければ線が残ります。今は線を削ります」


紺野は湯呑みを取る。中身を確かめてから口をつける。自分の手元を見るのではなく、手元を見ているふりをしながら机の上の紙を見ている。その目の動き方が、いちいち作業だ。

陽鳥が言う。


「紺野少尉、明日、搬入口で止める時、言葉変えて。"止めろ"じゃなくて"そこで待て"とか。命令の温度を一段下げた時、相手が追従を足すか見たい」


紺野が眉を寄せる。


「俺に柔らかい言い方をしろと?」


高倉が吹き出す。椅子が鳴る。


「見てみてえな」


志摩も笑う。


「逆に事故るだろ」


真名が肩を竦める。


「でもデータにはなるね」


東雲が柔らかく言う。


「紺野君、言葉だけでいいですよ。顔はそのままで」

「顔はそのままって、どういう顔だと思われてるんだ」

「とても良い顔だと思いますよ」


紺野が東雲を見た。何か言いかけて、止めた。言葉より先に負けた顔だ。高倉がまた笑った。

羽場桐は紙に一行を足す。


本部搬入口/補充札貼り位置:古い型へ追従


端末へ短文を送る。


外周接続線で追従確認

声より運び順・貼り位置の更新が先行

本部内失敗後、更新役は距離を取った可能性高

明日もう一日、外周の古い型をずらして観測


三つ子の声が奥で重なる。東雲が位置を言い、三人の足音が揃う。揃うたびに少しだけ上手くなっていく。それを毎日見ている東雲は、きっと毎日少し誇らしいのだと思う。羽場桐にはそういう感情の置き所がよく分からないが、見ていると少し分かる気がする。


紺野は補充札の控えを見下ろし、左下の貼り位置をなぞる。


「中尉」

「はい」


羽場桐が顔を上げる。


「明日の搬入口。俺の言い方、温度を下げる」


言い方が変わっていた。了解ではなく、宣言に近い。


「お願いします。相手が何を足すか、見ましょう」


紺野は頷き、湯呑みを空ける。空にしてから机に置く音が、部屋の中で少し大きく聞こえた。


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