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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
一章 神州と言う國
28/191

二十六話 灯の順番


二十六話


26-1 灯の順番



夜の路地は暗いから隠れやすいわけではない。

暗い場所ほど、灯りの置き方に意思が出る。


帝都北東の外れ、川沿いに並ぶ古い商家の裏通りを見下ろす屋根の上で、紺野健太郎少尉は膝を立てたまま下を見ていた。昼間なら荷車と客の声で埋まる一角だが、この時間になると残るのは炊き出しの匂いと、片付けの手つきだけになる。


明灯会は今夜も表では善良だった。

鍋を洗い、余りを分け、年寄りを家まで送る。誰が見ても文句のつけようがない。


だから面倒なのだ。


「……ほんとにやるんですね。これ」


隣で護国綾瀬が小さく言った。声は抑えているが棘は消えていない。消す必要がない場面では、彼女はあまり消さない。


「命令だ」


紺野は短く返す。

綾瀬は鼻を鳴らした。


「命令だから、じゃなくて。やり方の話です。表を崩さないまま裏だけ詰めるなんて性格が悪い」

「羽場桐中尉の仕事だな」


少し離れた位置で、東雲丈雲が影を一体だけ足元に伏せていた。今夜は数を出していない。出せば見つかる相手ではないにせよ、見つからないために疲弊するのは愚かだと知っている顔だった。


志摩龍二は屋根の棟に腹ばいになっている。姿勢だけ見れば不良の隠れ煙草だが、煙草は没収されたままだ。


「なあ紺野少尉。合図が出たらマジで逆に触んのか」

「触るのは最小限だ。壊すな。見ろ」

「見ろってのが一番むずいんだよなあ」


志摩がぼやく。

だが声は軽い。軽いのに目は軽くない。こういう時の志摩は、ふざけている顔でよく見ている。


羽場桐からの指示は簡単だった。


――摘発しない。

――押さえない。

――善行を止めない。

――合図だけを乱して、人間の焦り方を見る。


紙で包囲された組織は、紙の上ではまだ笑っていられる。問題は紙の外だ。帳簿の辻褄が合わなくなった時、人はどこを先に守るか。金か、人か、名目か、合図か。


今夜見るのはそこだった。

紺野は路地の灯りを数える。


店先の吊り灯が三つ。角の井戸脇に一つ。奥の倉庫口に一つ。明灯会の人間が片付けに使っている手提げ灯が二つ。


合図の「二消一灯」は、この一角では昔から荷運びの符丁として使われていたらしい。二つ消して一つ残す。残った灯りの位置で流れを決める。明灯会はそれを借りた。借りたつもりで、いまはそれに縛られている。


「来ます」


綾瀬が言った。


路地の奥から女が一人出てくる。明灯会の腕章をつけた若い女だ。鍋を洗っていた手を拭きながら、何気ない顔で店先の吊り灯に触れる。


一本目が消える。


間を置く。長すぎない。短すぎない。


そして二本目。


その瞬間だった。


──灯りの並びが痩せた。


俯瞰すれば単純な話だ。三つ並んだ光点のうち二点が落ちたに過ぎない。だが人の目は数ではなく秩序を見る。秩序が一つ抜けると、路地そのものが息を潜めたように見える。


残る一灯が揺れる。


「今」


紺野が言うより先に、志摩の指先が屋根瓦を軽く叩いた。


見た目には何も起きない。


だが路地の空気の粘りがほんの少し増す。速い動きだけを鈍らせる程度の薄い減衰だ。人間には気づきにくい。気づくのは、決めた手順を秒で刻んでいる側だけだ。


本来なら、ここで奥の倉庫口の灯が落ちて「一灯」が確定する。

だが落ちない。


落としに行った男の手が一拍遅れた。

遅れただけだ。たったそれだけ。


その一拍で、路地の反対側にいた別の見張りが先に反応した。


「……っ」


小さな舌打ちが聞こえた気がした。


次の瞬間、井戸脇の灯が消える。

順番が入れ替わった。

綾瀬の目が細くなる。


「食いついた」


東雲が低く言う。


「確認役が二系統いるな。きれいに一本じゃない」


紺野は屋根から身を起こしかけて止めた。


まだだ。まだ終わっていない。今見えたのは合図ではなく、合図に不安を抱いた人間の動きだ。取るべきなのは光ではない。


路地の奥で、鍋を洗っていた若い女が一瞬だけ顔を上げた。困惑は短い。すぐに笑顔に戻る。表を崩さない訓練がある顔だった。


だが足が半歩だけ迷う。

紺野はその半歩を見た。


26-2


「右へ分かれます」


綾瀬が言う。

言いながら、彼女の指先が夜気を払うように動いた。目に見えない細い線が路地の上を渡る。切るためではない。触れたものの位置を拾うための、浅い罠だ。

碗獄断糸は殺すだけの能力ではない。

殺せるから、触れたという事実の価値が高い。


「無理をするな」


紺野が言うと、綾瀬は少しだけ睨んだ。


「分かっています。兄さんじゃありませんから」


宗一の名を口にする時だけ、彼女の声は少し硬くなる。反発でも甘えでもない。両方を削ったような硬さだ。


東雲の影が屋根から屋根へ滑る。二体目は出さない。今夜の目的は制圧ではない。見取り図を増やすことだ。影が一つで足りるなら一つでいい。


志摩は腹ばいのまま、路地の角を見ている。


「紺野、二人走る。表の腕章と、袖なし。袖なしの方が速い」

「そっちを追う」


紺野は即答した。


明灯会の腕章をつけた人間は表の顔だ。速く走る必要があるのは、だいたい裏の用事を持つ側である。

屋根から降りる時、紺野は着地の音を殺しすぎない。完全に消すと逆に浮く。気配には自然な雑音が要る。近衛で覚えるのは派手な制圧だけではない。こういう地味な加減の方が現場では効く。


袖なしの男は裏路地を二つ折れて、古い薬種問屋の脇を抜けた。走り方が素人ではない。追跡を切るつもりで最短ではなく視線の切れる角を選んでいる。


「綾瀬」

「分かってます」


前方の曲がり角、目に見えない高さに綾瀬の糸が渡る。

男は触れない。触れないが、触れないように避けた。

避けたという事実だけで十分だった。


「見えてるわけじゃない。位置を知ってる」


綾瀬が吐き捨てる。


「この通り、事前に使ってる」


東雲の影が男の進行先を一度だけ横切る。


男は止まらない。止まれない。止まった瞬間に追っている側へ「自分は重要です」と名札を出すことになると知っている走りだった。


志摩が遅れて降りてくる。頬を掻きながら笑う。


「いいねえ。焦ってる焦ってる。これだよ。こういう時の人間が一番喋る」

「お前は喋らせるな」


紺野が言う。


志摩の能力は便利だ。便利すぎる。減衰は相手の足だけではなく、考えも感情も鈍らせる。追跡では役に立つが、取りすぎると証言の形まで壊れる。

志摩は両手を上げた。


「分かってるって。今日は薄く、だろ」


男は最後に広い通りへ出る前、壊れかけた稲荷祠の裏へ一度潜った。

出てきた時には手に何か抱えている。


帳面だ。


大きくはない。薄い。布で包んでいる。

金ではない。薬でもない。武器でもない。


紙だ。


紺野の歩幅が一つだけ広くなる。

ここで斬れば取れる。取れるが、それでは終わるのは手元の紙だけだ。紙はまた作れる。作り方を知っている人間が残る限り、明灯会は顔を変えて続く。


荒臣の言葉が頭をよぎる。


勝てる相手には勝て。勝てない相手には、生きろ。

あれは戦場の話に聞こえるが、こういう夜にも効く。

今切るべきか、生かして辿るべきか。その線引きに、力より先に頭を使えという意味では同じだ。


「取るな。行かせる」


紺野が言うと、志摩が面白くなさそうに舌を鳴らした。


「紙を見逃すのかよ」

「紙を書いた手を取りに行く」


綾瀬が一瞬だけ紺野を見た。

それ以上は何も言わない。代わりに前方の細道へ糸を二本流す。追跡のための道標だ。今夜の綾瀬はよく働く。よく働く時ほど口数が少ない。


男は明灯会の炊き出し場から遠ざかる。

善い匂いのする場所から、紙だけが別の場所へ走る。

その分かれ方が、組織の本音だった。


26-3


男が入ったのは、明灯会の施設でも倉庫でもなかった。


帝都北区第三行政補助所。


昼間は書類の申請と相談で人が並ぶ、小さな役所の出先だ。夜は閉まっているはずの建物の裏口に、男は迷いなく回り込んだ。


「……は?」


志摩が素で声を漏らした。


「役所かよ」


東雲の影が壁を這って裏口の隙間へ沈む。

数息の後、東雲が目を閉じる。


「中に二人。灯りは落としてる。机だけ使ってるな」

「明灯会の帳簿を、役所で?」


綾瀬の言い方には露骨な嫌悪が混ざった。


嫌悪はもっともだ。善行団体の裏帳簿までは、まあある。だが役所の机に繋がると話が変わる。癒着という言葉では足りなくなる。


紺野は壁際に身を寄せたまま耳を澄ます。


中の声ははっきり聞こえない。紙をめくる音と、墨ではない筆記具の乾いた走りだけが聞こえる。

書いている。


今、まさに書き換えている。


羽場桐が本部でやっていることの逆側を、ここで誰かがやっている。合法の紙で包囲される前に、非合法の紙を合法に見える形へ直しているのだ。遅いが、遅いなりに理にかなっている。


「押さえるか」


東雲が低く問う。


紺野は答えず、裏口の木目を見ていた。

古い扉だ。斬れば開く。蹴れば音が出る。音が出れば中は紙を燃やすか破る。燃やせば煙、破れば屑。どちらも証拠としては弱い。


綾瀬が小さく言う。


「窓、取れます。人は切りません」

「待て」


紺野は手で制した。


「今ほしいのは現行犯だけじゃない。繋ぎだ」


志摩が顔をしかめる。


「また理屈か」


「理屈だ。ここで二人取っても、明灯会は『善意の会計協力者でした』で切る」

「じゃあどうすんだよ」


紺野は少し黙った。

黙ってから、建物の角に立つ古い電灯を見た。先刻の路地で乱した合図の続きが、まだここへ流れているのかを試せる位置だった。


「もう一度やる」


志摩が笑う。

今度は悪い笑いではない。仕事の顔だ。


「逆用、か」

「中を慌てさせる。紙より先に人を動かす」


志摩が指先で空気を弾く。さっきより狭く薄い減衰が裏口周りに張る。動作の速さだけがわずかに鈍る膜だ。綾瀬の糸が電灯の留め金を掠める。火は消さない。角度だけをずらす。


裏口の隙間から入っていた細い光が、床を外れる。

中で椅子の脚が鳴った。

小さな声が重なる。ひとつではない。二人だ。

そして、裏口は開かなかった。


開いたのは表の非常口だった。


「出た」


東雲の影が先に回る。


走ってきたのは帳面を抱えた男ではない。年嵩の男だ。袖口に役所の古い腕章。書記だ。明灯会の人間ではなく、明灯会の帳簿を役所の言葉に直す手だった。


紺野はそこで踏み込んだ。

距離は三歩。


刃は抜かない。肩を取る。重心だけ落とす。相手の肘が逃げる方向を先に潰す。軍の制圧術としては地味だが、紙を守るにはその地味さがいる。


書記の男は声を上げる前に地面へ伏せられた。

志摩の減衰が薄く効いている。暴れる力だけが鈍る。意識はある。喋れる。ちょうどいい。


「離せ……私は明灯会の人間じゃない……!」

「知ってる」


紺野が言う。


「だから取った」


男の顔から血の気が引く。


明灯会の腕章をつけた人間より、この手の人間の方が自分の価値をよく知っている。代わりが利くようで利かないことを知っている顔だ。


裏口の内側でまだ紙をめくる音がした。


一人残っている。だがもう遅い。片方が取れた時点で線は出る。紙は燃やせても、誰がどこで何を直したかは消えない。

綾瀬が非常口の脇に立ちながら言う。


「紺野少尉。中はどうします」


紺野は書記の腕を押さえたまま息を整えた。


「東雲さん、影で中を見てくれ。燃やすなら止める。燃やさないなら触るな」


「了解」

「志摩。薄く維持。喋れる程度でいい」

「はいよ」

「綾瀬は出口抑え。切るな。通すな」


綾瀬は短く頷く。

その返事に棘はなかった。


紺野は地面に伏せた男へ目を落とす。

怯えはある。怒りもある。だが一番強いのは計算だ。今どこまで言えば助かるかを、もう計っている。


明灯会の表向きの善性は今夜も崩れていない。

炊き出しは続く。鍋の湯気は上がる。困っている市民は明日も列に並ぶ。

その裏で、灯りの順番ひとつで人間が走り、役所の机で帳面が直される。


帝都はそういう都だった。

善い顔をしたまま歪むことができる都だ。

紺野は男の肩を押さえたまま、低く言った。


「さて、どこから直してた」


夜はまだ長い。

だがようやく、紙ではなく手に触れた。



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