二十三話 帳簿の外
二十三話
23-1 帳簿の外
午前の雨は昼には上がっていた。
帝都の雨上がりは妙に光る。石畳も看板も電車の窓も、つい先刻まで濡れていたことを誇示するように薄く光を返す。水が引いただけの話だが、都というものは時にそれだけで、何かが片付いた顔をする。実際には何一つ片付いていない時ほど、そう見える。
御親領衛本部の廊下で、紺野健太郎少尉は封緘済みの書類箱を抱えていた。
箱は重くない。重いのは中身の方ではなく、そこに付いている札である。押収記録、証拠保全番号、閲覧権限、持出許可、返却予定。紙は紙だ。だが紙の形になった瞬間、人間のやったことは急に逃げ場を失う。羽場桐妙子中尉が執拗なほど書面に拘る理由は、たぶんそこにある。
「近衛技術研究開発局の分室まで。受領印をもらって戻ってきてください」
出発前に羽場桐はそう言った。
それだけである。余計な説明は無い。誰に渡すかも言わない。言う必要がないからだ。紺野が運ぶ箱の行先など、御親領衛でその時点で二人しかいない。
廊下の角を曲がるところで護国綾瀬とすれ違った。学校帰りらしい制服姿のまま、片手に薄い教材鞄を持っている。
「紺野少尉」
綾瀬は足を止めて一礼した。声音は丁寧だが角がある。いつも通りである。
「外出ですか」
「届け物だ」
綾瀬の視線が箱の封印札に落ちる。読もうとはしない。読める距離だが読まない。あの年齢でその線引きができるのは性格の良し悪しではなく、家の教育と部隊の空気だろう。どちらも柔らかくはない。
「……明灯会の件ですか」
「たぶんな」
たぶん、と紺野は言った。本当にそう思っているわけではない。中身はほぼ確実にそうだ。断言しないのは、断言した瞬間に余計な仕事が増える気がしたからである。こういう勘は当たる。
綾瀬は一瞬だけ唇を結んだ。
「兄は」
「護国少尉なら本部だ。羽場桐中尉のところにいる」
それを聞いた綾瀬の肩の力がわずかに抜ける。本人は隠したつもりだろうが、抜けたものは抜けたものとして見える。全面的に信頼している。そういう関係は時に強みで、時に傷になる。ここで説教を始めるほど紺野は世話焼きではない。だから何も言わない。
「了解しました。……お気をつけて」
「お前もな」
綾瀬は小さく頷き、そのまま歩いていった。背筋は真っ直ぐで、歩幅は小さい。速く歩こうとしているのに急いで見せない歩き方だった。
紺野は箱を抱え直し、外へ出る。
帝都の空気は雨上がりの匂いの下に、人の生活の匂いがある。油、土、布、鉄、古い排水、焼いた魚、濡れた紙。都は大きくなるほど綺麗になるのではない。汚れの種類が増える。増えた汚れを見ないで済む人間が増えるだけだ。
ここで覚えておくべきことが一つある。
明灯会のような連中が入り込む隙は、闇にだけあるわけではない。むしろ昼にある。人が多く、善意が流通し、誰もが忙しく、誰もが一つくらい見落とす都合を持っている時だ。
紺野は歩きながら、箱の中身ではなく、その外側の帝都を見ていた。
23-2
近衛技術研究開発局の分室は、本局ほど大きくない。
大きくないが、静けさが違う。軍の静けさではなく、実験室の静けさである。人が声を潜めているのではない。機材が壊れないように空間の方が先に音を削っているような静けさだ。
受付で用件を告げると、案内の職員は慣れた顔で頷き、紺野を奥へ通した。御親領衛の名はこういう時だけ便利だ。通した側が後で面倒を被らない名だと知っているからである。
案内された先の小部屋で、珠洲原陽鳥主任が待っていた。
白衣の袖を肘まで捲り、机上の器材を半端な位置で止めたまま振り返る。笑う。いつもの顔だ。柔らかく見える顔は、たいてい柔らかいことを目的に作られている。
「紺野少尉。珍しいね、配達係」
「羽場桐中尉の命令だ」
「なるほど。つまり断れない仕事」
「だいたいそうだ」
陽鳥は机の上を片手で片付け、箱を置く場所を作った。紺野が箱を置く。封印札を見て、彼女の目が一度だけ細くなる。笑みの形は変わらない。
「……本部、早いなあ」
「遅いよりいいだろ」
「誰にとって?」
受領票に目を通しながら陽鳥は言う。質問の形をしているが答えを欲しがっている声ではない。
紺野は返さない。返せばそこで言い合いになる。ここは御親領衛本部ではなく研究局だ。相手の土俵でもある。土俵を間違えてまで喧嘩するほど短気ではない。短気でないというより、最近は短気だけで押し切れる相手が減ってきた。
陽鳥が受領票に印を入れ、紺野に差し出す。
「はい、これでお仕事は終わり。お疲れさま」
紺野は紙を受け取ったが、そのまま立ち去らなかった。陽鳥がそれを見て、少しだけ首を傾げる。
「なに。まだ何かある?」
部屋には二人きりだった。
紺野は数秒黙り、それから口を開いた。
「……姉さん」
陽鳥の目が止まる。
止まったのはほんの一瞬だ。だが一瞬で足りる。珠洲原陽鳥という人間は、平静を作るのが上手い。上手い人間ほど、作り直しの一拍が目立つ。
「久しぶりだね、その呼び方」
「聞きたいことがある」
「仕事の話なら答える。仕事じゃない話なら、内容による」
「明灯会の帳簿を締めにかかってるのは分かる」
陽鳥は何も言わない。
紺野は続ける。
「紙で囲ってる。合法で。善い顔のまま中だけ締まるようにしてる。羽場桐中尉のやり方だ」
「うん」
「お前はそこに何を足した」
陽鳥は笑わなかった。笑う代わりに椅子の背に寄りかかる。こういう時の彼女は、誤魔化すより先に計る。どこまで言うと何が壊れるか、その速度と角度を。
「質問が曖昧」
「じゃあ言い直す。明灯会の中で、今いちばん先に逃げる奴は誰だ」
陽鳥はそこで少しだけ息を吐いた。感心したようにも、呆れたようにも聞こえる短い息だった。
「……紙だけ見てると思った?」
「思ってない。思いたくない」
「健太郎」
陽鳥が紺野の名を呼ぶ時だけ、声に余計な飾りが消える。
「本部でやってることは、囲い込み。私はそこに“順番”を足しただけ。誰を先に詰まらせると、中が自分で痩せるか」
「答えになってない」
「答えだよ。名前を言ったら、あなたはそこへ走る」
紺野は否定しない。否定できないからだ。走る。たぶん走る。そして現場を荒くする。荒くした分だけ相手に余白ができる。羽場桐の帳簿は余白を潰すためのものなのに、紺野が走ると余白が戻る。その理屈は理解できる。理解できることと腹が立たないことは別だが。
陽鳥は机の上の封印箱を指で軽く叩いた。
「これ、紙だけじゃないでしょ。物も入ってる」
「見たのか」
「札の重さで分かる」
冗談のような言い方だが、半分は本当なのだろう。この女はそういう手合いである。
「物が入ると話が変わる。紙は嘘をつけるけど、物は使い方の癖を残すから」
「だから呼ばれたのか」
「だから呼ばれた。あと、私が居ると嫌がる人間が向こうにいるから」
向こう、が本部を指していることは言うまでもない。
紺野は受領票を折り、胸ポケットへ入れた。
「……姉さん」
「うん」
「今回は俺が走る前に終わらせろ」
陽鳥が目を細める。笑ったのではない。測る顔だ。
「命令?」
「願望だ」
数秒の沈黙があった。
その沈黙は気まずさではない。互いに相手の言葉の重さを量っている沈黙である。軽い願望ではないと双方が分かってしまったから長い。
やがて陽鳥は肩を竦めた。
「努力はするよ。仕事だからね」
仕事だから。便利な言葉だ。逃げにもなるし誓いにもなる。どちらとして使ったかは、終わってからでないと分からない。
紺野はそれ以上言わず、部屋を出た。
23-3
帰路の途中、紺野は遠回りをした。
理由はない。厳密にはあるのだろうが、言葉にするほどのものではない。すぐ本部へ戻っても次の指示があるだけだと分かっていたし、雨上がりの帝都が少しだけ静かに見えたからかもしれない。
商店街の外れで、八百屋の店先に人だかりがあった。
高倉源三の店ではない。別の店だ。子供が三人、売れ残りの葉物を前にして言い争っている。買う買わないではない。どれがいちばん新しいかで揉めているらしい。どうでもいい争いだ。どうでもいいが、どうでもいい争いができる時間は平和の形の一つである。
紺野は立ち止まらずに通り過ぎた。
通り過ぎながら思う。
本部では紙で囲う。現場では血が出る。研究局では順番を作る。どれも必要だ。必要だが、それだけで都は回らない。こういうどうでもいい言い争いがあって、店主が面倒そうに仲裁して、誰かが笑って、誰かが損をして、それでも明日また店を開ける。そういう繰り返しの上にしか、軍の仕事は立たない。
軍人はそこを守ると言う。
だが守るという言葉は大きすぎる。実際にやっているのは、崩れる速さを少し落とすことだ。落とした先で誰かが建て直す。建て直した先をまた別の誰かが壊す。都はその反復で伸びる。
紺野は本部の門前で足を止め、短く空を見上げた。
雲はもう薄い。西の方だけまだ色が鈍い。夕方にはまた降るかもしれないと思わせる空だった。
──風が抜けた。
ただの風だ。能力でも前兆でもない。乾き切っていない石の匂いが持ち上がり、門柱の影が揺れただけである。
俯瞰すれば何でもない。門前の幅員、往来の人影、見張りの兵の配置、時刻、風向き、湿度。数字に直せば平時の範囲に綺麗に収まる。
それでも紺野は、ほんの少しだけ胸の内が軽くなるのを感じた。
理由は分からない。分からないままでいいと思った。
分からないまま持ち帰るものがある。答えにしない方が効くものもある。
受領票を羽場桐に渡せば、また帳簿が一枚閉じる。閉じた分だけ次が開く。
御親領衛の仕事はたぶんその繰り返しだ。
厄介で、面倒で、綺麗に終わらない。だが終わらないからこそ、今日もここに戻ってくる。
紺野健太郎は門をくぐった。




