十九話 開演前
十九話
19-1 開演前
夕刻前の広場は、始まる直前がいちばん危うい。
人が少ない時間は警戒が利く。始まってしまえば流れができる。危ないのは、その間だ。設営の人間と客の先入りと関係者の出入りが重なって、誰の足音も正当なものに見える時間。正当なものに見えるということは、紛れ込む側にとって最も優しい時間である。
舞台裏の通路で、支倉真名は壁際に立ったまま視線だけを動かしていた。
照明ケースが三つ、搬入口の脇に積まれている。さっき見たものと同じ型だが、並びが変わっている。変わっていること自体は珍しくない。珍しくないのに、変えた人間の手つきが見えないのが気持ち悪い。仕事の跡だけが残っていて、人の癖が残っていない。そういう整理のされ方は現場ではむしろ不自然だ。
樋道芳芙美が真名の半歩後ろで小声を出す。
「真名ちゃん、どうする」
「まだ何もしない」
「またそれ」
「“また”でいいの」
樋道は唇を尖らせたが、声は抑えている。偉いと言えば偉い。さっきよりだいぶ偉い。真名は少しだけ評価を上げた。
広場の表では音響試験の低い音が鳴っていた。断続的な打音に混じって、スタッフの笑い声と客のざわめきが増えていく。祭の匂いだ。甘いものと油の匂いが風に乗って舞台裏まで流れてくる。善い匂いである。こういう善さの中に手を突っ込んでくる人間が一番嫌いだと真名は思う。
端末が震えた。
羽場桐からの返答と、その後ろに高倉が向かっているという短い文。余計なことは書いていない。こういう時の羽場桐の文章は息が短い。短いほど本気だ。
樋道が覗き込もうとして真名に肘で押し返される。
「見せてよ」
「見せる必要ない」
「連携って知ってる?」
「知ってる。だからあなたをここに置いてる」
「褒められてる気がしないなあ」
「半分は褒めてる」
同じ言い方だと樋道が気づいた顔をしたが、今はそこに付き合う余裕がない。真名は通路の角を見た。
照明業者の腕章をつけた男が一人、ケースの方へ寄っていく。歩幅が小さい。重い物を運ぶ人間の歩き方ではない。確認に来たふりの歩き方だ。
その男がケースの留め具に手を掛けかけたところで、真名は先に声をかけた。
「すみません」
男が振り向く。反応は速い。速いが自然に見える範囲に収めている。慣れている。
「そのケース、今開けます?」
真名は営業用の柔らかい声で聞いた。
「本番前に照度の最終確認が入るって聞いて」
男は一拍だけ詰まって、それから笑った。
「ええ、まあ。二つ落として一つ残す段取りで」
二消一灯。
また言った。
今度は合図ではなく、こちらの目の前で説明に使った。使ったということは、こっちが意味を知らない前提で押し切る気だ。
真名は笑顔のまま言う。
「助かります。じゃあ先に、警備導線だけ変えますね」
男の眉がわずかに動く。
「導線?」
「ええ。照明落とすなら、暗くなる側に警備立てないと危ないから」
真名はその場で振り向き、通路の向こうにいる警備員二人を手招きした。能力は薄く使う。呼べば来る程度の関心の誘導。自然な範囲だ。
男の目が一瞬だけケースから警備員へ移る。
焦り、と呼ぶには小さい。だが小さい焦りほど本音が出る。
「そこまでしなくても」
「お客さん怪我したら困るでしょ」
真名の声は明るい。明るいまま、退路だけ塞ぐ。
樋道がそのやりとりを聞いて、ようやく真名の意図を掴んだ顔になる。口元がにやけた。嫌な笑いだが、今は使える。
「ねえお兄さん、照明見るならボクも見ていい?」
樋道が一歩前に出る。女装した美形が距離を詰めると、それだけで相手の意識はずれる。真名は内心で舌打ちしながらも止めなかった。使えるなら使う。
男は樋道の顔を見て笑う。笑うが、目線が一度もケースから切れない。
「関係者?」
「うん。演者側」
「じゃあ危ないから離れて」
「優しいね」
樋道が言う。言いながら、ケースの金具ではなく男の手首の動きを見ている。珍しくちゃんと見ている。
警備員が近づいてきたところで、通路の向こうから別の声がした。
「すみません、搬入経路の確認で来ました」
高倉源三である。
場違いなほど普通の声だった。軍人というより市場の店主の声だ。こういう場所ではその普通さが効く。高倉は警備腕章を借りた上に、手には搬入票の束まで持っていた。どこから調達したのか聞くまでもない。羽場桐が用意したのだろう。
高倉はケースに目をやり、男に笑いかける。
「追加分の照明さんですよね。ちょっと票の照合だけ」
男の顔の筋肉が固くなる。
逃げるほどではない。逃げたら終わるからだ。終わらない程度に時間を稼ぎたい顔になる。こういう顔を高倉はよく知っている。市場で掛け値をごまかす顔に似ている。
「今、急いでて」
「でしょうねえ」
高倉はにこやかに頷いた。
「でもこっちも急いでるんですよ。今日、人多いんで。ほら、二つ消して一つ点けるとか、段取り変えるならなおさら」
男の目が高倉を見た。
今のは合図の逆用だ。
意味を知っているぞと明かさず、ただ言葉だけ返す。相手の腹の中だけを冷やす言い方。高倉はそういうのがうまい。商売人の顔でやるから余計に効く。
真名は横で息を吐いた。こういうところだ。羽場桐が高倉を現場に寄こす理由は。
男は票を出す。高倉が受け取り、目を落とす。目を落としたまま、世間話のように続けた。
「判子、新しいですね」
「……今日押したから」
「へえ。じゃあ本社の保管印じゃないんだ」
言われた男の喉が動く。
樋道が横で笑顔を保ったまま小さく呟く。
「真名ちゃん、これもう黒じゃない?」
「まだ白黒決めない」
「またそれ」
「そういう回」
言いかけて真名は口を閉じた。今のはよくない。言葉が軽い。こういう時ほど自分の仕事の顔を崩してはいけない。樋道は気づかなかったようで良かった。
高倉は票をもう一枚めくる。
「搬入時刻、ずれてません?」
「道が混んでて」
「なのに紙は先に届いてる」
男は黙った。
黙るのは自由だ。だが黙ると周囲の関心が寄る。真名が薄く振った関心の流れが、今ちょうどそこへ戻り始めていた。警備員二人だけだった視線が、設営業者の一人二人、音響の若いの一人へと増えていく。
増えれば増えるほど、表向き善良な催事に紛れ込んだ側は困る。騒ぎにしたくないのは真名達だけではない。向こうも同じだ。むしろ向こうの方が困る。
その時だった。
通路の奥、別のケースの脇で小さく火花が散った。
誰かが何かを起こした。派手ではない。だが照明機材の近くで火花は十分に嫌な音だ。人の視線が一斉にそちらへ向く。
男の肩が動いた。ケースへ戻ろうとする動き。
樋道が反射で前に出る。
「駄目」
真名が低く言うより早く、樋道の手が男の袖を掴んだ。
掴み方は軽い。軽いが、そこに力を入れた瞬間にどうなるかを樋道本人も男も分かってしまう距離だ。
男の目が初めて樋道の顔ではなく手を見る。
「離してくれ」
「嫌だ」
「危ない」
「知ってる。だから離さない」
樋道の声からふざけた色が抜けている。こうなると強い。雑なようでいて、壊す寸前で止まる手つきは天性だ。真名はそこだけは認めている。
高倉が票を畳む。
「警備さん」
警備員が前に出る。もう「お願い」ではなく「確認」の顔だ。
真名は能力をもう一段だけ上げて使った。周囲の関心を火花側へ寄せ、この通路には寄せすぎない。ここで人が群がると余計な混乱になる。舞台裏は狭い。狭い場所の混乱はあっという間に事故に化ける。
火花の方では設営班が騒ぎ始めていた。大事にはならないだろう。ならないように、たぶん向こうの仲間が自分で起こした小事故だ。視線を切るための手口。雑ではない。だが今日は雑音が多い方がこちらに有利だった。
男がとうとう口を開く。
「……何がしたい」
高倉が笑う。疲れた八百屋の親父の笑いだ。
「それ、こっちの台詞なんだけどなあ」
真名はケースを見た。
開ければ早い。開けてしまえば何が入っているか分かる。分かるが、それをここでやると催事が壊れる。壊したくない。真名は舞台の人間だから、壊した方の重さを知っている。
だから羽場桐のやり方をなぞる。
先に囲う。合法の紙と人の目で囲って、向こうから手を誤らせる。
「警察の方を呼びます」
真名が言う。
男の顔から色が引いた。ようやく決まる。ここで引くか暴れるか。暴れたら終わり、引けばまだ続く。
男は短く息を吐いて、肩の力を抜いた。
「誤解だ」
「そうかもね」
真名は答える。
「だから、紙で確かめましょう」
19-2
警察責任者が来るまでの数分が長かった。
長いが、こういう数分に世界の癖が出る。
男は暴れない。暴れないが喋りすぎない。樋道は離さない。離さないが締め上げない。高倉は票を持ったまま世間話の顔を崩さない。真名は周囲の流れだけを整え続ける。誰か一人でも余計に張り切ると崩れる均衡だった。
通路の向こうで火花騒ぎは収まったらしい。設営班の怒鳴り声が減り、代わりに工具の音が戻る。舞台は予定どおり始まるだろう。始まってほしい。こんなことで止まっていい催事ではない。
警察責任者が二人連れて来る。
「どうしました」
高倉が先に票を出し、真名が状況を簡潔に説明する。簡潔に、だが言い切らない。言い切るのは警察の仕事で、今ここで近衛が断定すると余計な角が立つ。羽場桐に叩き込まれた作法である。
警察責任者は票と男の腕章を見比べ、首を傾げた。
「会社名は合ってるが……担当名が違うな」
男の目が動く。
樋道が小さく笑った。
「はい、終わり」
「終わりじゃない」
真名がすぐ言う。終わりではない。終わるのは末端だけだ。いつもそうだ。ここで満足すると次に繋がらない。
男は観念した顔を作る。作るのがうまい。たぶん何度もやっている。こういう顔で小さく切られて、上は残る。だから真名は嫌いだ。
警察が男を引き取る段取りに入ったところで、もう一人の作業員ふうの男が人波に紛れて離れていくのが見えた。最初に合図を言っていた方だ。追える距離ではある。追えば届く。だが今追うと舞台裏が荒れる。荒れれば催事が止まる。止まれば明灯会の表向き善性を崩す口実になる。
たから真名は追わなかった。
追わない代わりに、視線だけで特徴を刻む。歩幅、肩の落とし方、腕章の付け位置、靴の汚れ。こういう記憶はあとで羽場桐が使う。使える形に直すのが本部の仕事だ。
樋道が不満そうに言う。
「逃げたの追わないの」
「追わない」
「なんで」
「今日は舞台を止めない方が勝ちだから」
樋道は少し黙った。理解した顔はしない。だが納得できない時に黙れるようになってきた。成長と言えば成長だろう。
高倉が小さく頷く。
「表の善い顔はそのままにしとく。内側だけ冷やす。そういう日だ」
真名は警察責任者に向き直る。
「この件、機材確認の名目で全ケースの照合をお願いできますか。お客さんの前で大きくはやらなくていい。裏だけで」
責任者は嫌そうな顔をした。嫌なのは当然だ。手間が増える。だが手間を惜しんで後で事故を起こすよりはましだと、現場の人間は知っている。
「……分かりました。近衛さん、立ち会えますか」
「大丈夫です」
真名が答えると、樋道が横から口を出す。
「ボクも」
真名は一瞬だけ樋道を見る。
「壊さない?」
「壊さない。今日は」
「“今日は”を付けるな」
高倉が苦笑した。
「でも助かるよ。見た目で相手の意識逸らせるの、こういう時ほんと便利だし」
樋道が胸を張る。
「でしょ?」
真名は小さく息を吐いて、訂正しなかった。便利であることは事実だ。
通路の奥で開演合図のベルが鳴る。表の灯が上がる時間だ。観客のざわめきが一段大きくなる。
真名は一瞬だけ舞台の方を見た。そこに立つ予定の自分が居ないことを惜しいと思う気持ちはある。あるが、それ以上に今は舞台を守る方が先だ。表に立つ人間の仕事は、立てる場を残すことでもある。
警察がケースの照合を始める。ひとつ目、問題なし。ふたつ目、問題なし。三つ目で係員の手が止まった。
中に入っていたのは照明器具だけではない。配線束に紛れた小型の発振器と、用途の分からない簡易装置が二つ。見た目だけなら機材の部品に見えなくもない。だが現場の人間ほど「現場で使わない物」の匂いには敏い。
警察責任者が低く息を吐く。
「……これ、照明じゃないな」
「ええ」
真名が答える。
「たぶん、灯を消したい側の道具です」
言ってから、真名は自分の言葉を少し気に入らないと思った。綺麗すぎる。綺麗だが、現場の匂いが薄い。羽場桐ならもっと乾いた言い方をするだろう。高倉ならもっと俗に言うだろう。
だが警察責任者には伝わったらしい。頷き、部下に指示を飛ばす。
大きな騒ぎにはならなかった。ならせなかったとも言える。舞台は予定どおり始まり、音が広場へ流れ、客は拍手をする。善い夜の顔は保たれたままだ。
その裏で、紙と票と機材番号が静かに繋がっていく。
樋道が壁にもたれて言う。
「ねえ真名ちゃん」
「何」
「これ、勝ち?」
真名は少し考えてから答えた。
「一個だけね」
「一個かあ」
「一個で十分。今日は」
樋道は肩をすくめて笑った。珍しくその笑いは軽かった。
高倉が端末を打つ。羽場桐への報告だろう。文面は見なくてもだいたい分かる。
現場騒擾なし、ケース照合で不審機材確認、末端一名確保、一名離脱、票は生きている。
票は生きている。
それが一番大きい。
帝都では、灯を消す側も紙を使う。ならこちらも紙で返すしかない。力で切れる場所ではない。切れば済む相手でもない。そういう面倒が増えた時代に、この国はまだ古い顔で立っている。
だから御親領衛の仕事が増える。
だから羽場桐の帳簿が積み上がる。
だから高倉のような八百屋が呼ばれ、真名のようなアイドルが舞台裏で警備導線を弄り、樋道のような危険物が「今日は壊さない」と言いながら人の袖を掴む。
綺麗な話ではない。
だが、こういう汚れ方をしているうちは、まだ守れるものがある。
表の灯が上がったまま夜が始まる。
裏では一度、灯を消したい側の手が滑った。
それだけでも今夜は十分だった。
続けるなら次は──




