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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
三章 東都が夜に落ちる日
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百二十九話 千載一遇


百二十九話


129-1 千載一遇



東都北東寄り、高架保守帯の上は、朝になるほど風が細くなる。


高いからではない。

下に広がる街の方が、音を呑み込むからだ。

第二首都庁舎群。中央駅の高い屋根。搬送帯を走る白い車列。外縁で何度も詰まり直している受け入れ線。都市として見れば、東都はまだ立っている。崩れてはいない。正しい顔のまま、まだ国家の機能を保っている。


普通の指揮官なら、その“立っている顔”を見る。

どの導線が生き、どの庁舎群が保たれ、どの兵が間に合うか。そこを見て、自軍がどれだけ盤面を取ったかを量る。


園業律心斎は違った。

彼の視線は、街ではなく一点へ落ちていた。

第二首都庁舎群北東の広場。


凛藤義貞。

東方守護。従二位の極致。神術大聖。

いま広場の中央で、東都の死に方を一段だけ鈍らせている男。

園業が見ているのは、その歩幅だった。

命令の切り方だった。

立て直しの速度だった。

東都全体ではない。あくまで、あの一人がどこまで間に合わせてしまうか、それだけだった。


脇で副官が紙束を揃える。

東都制圧後の声明。

陸軍の第一発言権。

第二首都保全の再定義。

近衛権限の再編。

言葉は整っている。整いすぎているくらいだ。


「閣下、東都掌握後の布告文ですが、陸軍の役割を強めに——」


園業は視線を動かさずに言った。


「好きに整えろ。読む者が信じやすい形にしておけ」


副官が一瞬だけ言葉を止める。

園業はその沈黙にも興味を示さない。


「辺境で泥を被ってきた陸軍の不満も、中央で決定権を独占してきた近衛への反発も、嘘ではない。使える理屈は使え。兵はそういうもので動く」


副官は頷く。

頷くしかない。

陸軍が辺境で国家の汚れ仕事を担ってきたこと。

近衛が中央の名誉と決定権を独占してきたこと。

容易く麻痺する脆弱な指揮系統の証明。

第二首都東都を握る者こそ国家運営の現実を握る、という理屈。

どれも兵を走らせるには十分な言葉だ。


ただ、園業自身を走らせているのは、それではなかった。

大義は喋る。

喋らせればよい。

だが、前へ出る男の熱はもっと狭い。

もっと個人的で、もっと危険だった。


129-2


別の士官が報告を継ぐ。


「東都南棟外周、凛藤介入後に崩壊速度鈍化。地下二番通路の偏流も一部修正。受け入れ線も完全空白ではなく——」


園業はそこで、ほんのわずかに口元を動かした。

笑いではない。

射程に入った獲物へ、距離の計算が合った時の顔だ。


「鈍るのは当然だ」


低い声だった。

熱が無い。

だが冷めてもいない。


「あれが止められないなら、東方守護の名は飾りだ。問題は止められるかではない。どこまで止めさせられるかだ」


士官は「はい」と返す。

ただ、その顔には戸惑いが残った。

凛藤は敵だ。

敵を評する声音にしては、園業はあまりに冷静だった。

冷静というより、値踏みしている。

それが異様だった。


東都の崩れ方は確かに鈍った。

地下の偏流は一本割れた。

庁舎群北側の呼吸も少しだけ戻った。

御親領衛の止血線も半歩前へ出ている。

本物だ。

凛藤義貞でなければ、ここまで短時間に盤面の意味を奪い返せない。

高位神術師の暴力ではない。

もっと嫌な、もっと精密な仕事だ。

だからこそ、園業は動いた。


もし凛藤が最初から盤面にいたなら、ここまで静かに東都の順番を削れなかった。

もし凛藤が万全なら、今のような“まだ間に合うかもしれない”という段自体を許さなかったかもしれない。

だが、いまは違う。

東都はすでに崩れている。

凛藤はそれを立て直さなければならない。

立て直しているということは、それだけ消耗を強いられているということだ。

園業に必要だったのは、その一点だった。


千載一遇。

大仰な言い方は好まない。

だが、今日ばかりはその語がいちばん近い。

好機は、相手が隙を見せる形では来ない。

別の場所で削られ、別の段で手を使わされ、そうしてようやく“届くかもしれない距離”として来る。

なら、来た以上は掴むだけだ。


「北西端と湾岸寄りの連絡口、そのまま泳がせろ」


園業が言う。


「いま正面で噛みつくな。あれが直した所は、しばらく直させておけ。直した分だけ、呼吸はそちらへ割かれる」


副官が素早く復唱し、伝令へ落とす。

園業はそこで初めて、東都全体へ視線を広げた。

街は大きい。

第二首都は重い。

だが今日ここで彼にとって本当に重いのは、広場の中央で“まだ間に合う”を演出している一人の守護だけだった。


129-3


紺野は、その視線に気付いた。


第二首都庁舎群南西連絡帯。

凛藤が盤面へ上がってから、東都の呼吸は確かに整い始めていた。

地下は一本だけ別の流れを取り戻し、外周は“死ぬ前に息を止めていた線”の幾つかをまだ街のものとして残している。


宗一は半歩前へ出せた。

東雲も外周で次の十分を買っている。

真名の声にも、ようやく余裕に似た何かが混じった。

助かるかもしれない。

そう思える程度には、凛藤の統率は本物だった。


だからこそ、紺野の腹の奥は逆に冷えた。

向こうが噛みついてこない。

いや、噛みついてはいる。

だが、凛藤が立て直した場所へ正面から力をぶつけてこない。

広場の北東も、庁舎群北側も、今いちばん“こちらが間に合わせた”と感じやすい場所ほど、嫌に静かだ。

静かすぎる。

志摩の言葉を借りるなら、死んでいるのではない。

息を潜めている。

陽鳥が端末を見ながら言った。


「健ちゃん」


紺野は前を見たまま返す。


「何だ」

「向こう、東都見てるように見える?」


紺野は数秒黙って、それから低く言った。


「違うな」


陽鳥が小さく息を止める。


「やっぱり?」

「街じゃない」


紺野は広場の向こう、庁舎群北東の空気の薄い場所を睨んだ。


「あいつは、街を見てない。凛藤を見てる」


そこまで言って、自分の舌の上へ乗ったその感覚の嫌さに気付く。

東都制圧。

第二首都掌握。

陸軍の発言権。

そういう大きな言葉で動いているなら、視線はもっと広いはずだ。

なのに、いま紺野が感じた視線は狭かった。

狭く、鋭く、ほとんど獲物を見る目だ。

陽鳥が低く言う。


「それ、最悪ね」

「最悪だ」


紺野は短く返した。


「街を取るついでに凛藤を止めるんじゃない。凛藤を噛むために街ごと使ってる」


腹の奥のざらつきが、そこでようやく形を持つ。

凛藤との接触と終わりから東都へ至るまで、自分と陽鳥が払わされた値段。

あれが何だったのかを、紺野はまだ言葉にし切れていない。

だが、いま目の前にある盤面が、その延長線上にあることだけは分かった。

自分たちが払わされたものも、東都がいま払わされているものも、全部が同じ一点へ収束している。


凛藤義貞。

東方守護。

その名一つへ、だ。


129-4


園業は、そこでようやく前へ出た。


派手な号令は無い。

勝鬨も無い。

東都制圧を謳う声明文も、第二首都掌握を誇る演説も、この場では一言も口にしない。

そういう言葉は別の場所で役目を持っている。

兵に読ませる。

地方部隊を納得させる。

官僚に“これも国家のためだ”と思わせる。

外へ向けた言葉だ。

広場へ降りる男に必要なのは、それではない。

必要なのは、一歩を踏み出す理由が自分の中で一つに絞れていることだけだった。

副官が最後に問う。


「東都側の声明発表は予定通りでよろしいですか」


園業は歩を止めない。


「好きにしろ。使える者が使える形で飾れ。国を動かすには旗が要る。旗そのものに、私は興味が無い」


副官が息を呑む。

だが、もう園業は広場しか見ていない。

第二首都庁舎群の壁面に朝の光が滑る。

搬送帯はまだ生きている。

群衆流も、まだ完全には死んでいない。

凛藤がいるからだ。

凛藤がここまで持たせている。

だからこそ値段が出る。

だからこそ機会になる。

もしあの男が万全なら、この街を静かに握るだけでは届かなかったかもしれない。

もしあの男が最初から盤面にいたなら、ここまで順番を削る前に別の形へ押し返されていたかもしれない。


だが、今は違う。

今の東都は、凛藤が立て直している。

立て直しているということは、立て直さなければならないほど既に崩れているということだ。

園業はそこへ足を向けた。

大義は喋る。

辺境で泥を被ってきた陸軍の不満も、中央で第一発言権を奪う理屈も、第二首都を握る正統性も、全部喋る。

喋らせれば兵は走る。

地方の部隊も動く。

官僚も紙を通す。

だが、前へ出てくる男の目にはそんなものは映っていない。

映っているのは、広場に立つ一人分の勝機だけだった。


紺野はその男を初めてはっきり見た。

北の陸軍を束ね、クーデターの旗印となり、第二首都をほぼ無血の顔で締め上げてきた男。

なのにその目には、都市の輪郭よりも一人の守護の距離の方が濃く映っている。

そこでようやく、東都全体へ張り巡らされていた嫌な整い方の意味が一つに繋がった。

この男は思想で立っているのではない。

思想を使っている。


国家の理屈を喋りながら、その本音はもっと狭い。

もっと個人的で、もっと狂っている。

園業律心斎は広場へ下りる。


東都の朝はまだ高い。

人も歩いている。

車も流れている。

何も終わっていないように見える。


だが、大義が喋っているあいだに、前へ出てきた男の目には一人分の勝機しか映っていなかった。

そこが、この朝のいちばん嫌な真実だった。


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