表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
三章 東都が夜に落ちる日
113/191

百十一話 虫のノイズ


百十一話


111-1 虫のノイズ

 

東都周縁の保守連絡路は、夜明けの直前だけ妙な顔をする。


高架の継ぎ目を伝う低い振動も、遠い貨物線の軋みも、路肩の電源ボックスが吐く微熱も——ぜんぶそこにある。ただ、それらが揃って「まだ何も始まっていない」という表情をしている。始まっていない顔をした場所ほど、順番はとっくに壊れているものだ。


紺野健太郎は連絡路脇の保守帯で足を止め、右手を膝の横で一度握った。

前へ出たい身体に、止まれという命令を言い聞かせるための握りだった。手のひらの内側が爪の感触をわずかに返す。

高架接続部で一件止めた。

だが、向こうはそこで終わらせない。

終わらせないなら、次はもっと静かな場所を選んでくる。静かな場所のほうが、人は一拍遅れて気づくからだ。


護国宗一が少し前に立ち、東雲丈雲はさらに外縁に出た。東雲が見ているのは道路そのものではなく、そこへ意味を貼り付けている物たちの位置だ。

点検箱。保守札。仮設灯。白線。

どれも、ただの設備の顔をしている。


足音が来た。

軽い。それなのに急いでいない。

急げないのではない。急ぐと崩れると知っている者の歩き方だった。


珠洲原陽鳥が来る。端末を両腕で抱えたまま、紺野ではなく路面を見ている。

声を聞く前から、喉の奥がまだ焼けているのが分かった。


呼吸の整え方が、少しだけ丁寧すぎる。ああいう通し方をするのは、油断すると咳が出る時だ。


「……場所は最悪じゃない」


陽鳥が言った。


「でも最悪の一歩手前ね」

「十分に悪い」

「そうだね」


陽鳥は笑わない。笑わないまま、白線の端にしゃがみ込んだ。重心が沈む前に、端末の角を路面に当てて支点にする。慣れた姿勢だった。

紺野が低く訊く。


「何を見る」


陽鳥は端末を開き、指先だけを動かした。


「入口の死に方」


それだけだった。補足を足さない。足す必要もない。

陽鳥の虫をまともに相手できる神術師が国にどれだけ少ないか、ここにいる全員が知っている。数十体単位で自爆させれば、この距離では味方まで道連れになる。だから今やるのは観測だけだ。

観測だけが死ぬなら、その死に方だけで値段が分かる。

東雲が短く言った。


「欲張るなよ」

「分かってる」


陽鳥が即答する。


「数は出さない。出したらこの場の全員が嫌な顔どころじゃ済まなくなる」


紺野はその言い方が嫌だった。

正しい。正しいから、なおさら嫌だ。


111-2


陽鳥が切った虫は一体だけだった。


見せる必要がない時、虫は見えないまま仕事をする。

それでも分かる。空気の縁がほんの一瞬薄くなって、それよりも早く、耳の奥に高い痛みが刺さってくる。音ではない。何かが成立しかけて、成立できなかった時に残る感覚だ。


虫は路面の白線へ向かった。

点検箱ではない。箱へ行く前の、意味の部分へ。

紺野の主観では、足元の白が急に深く見えた。塗料の白じゃない。「ここを通れ」という指示が、地面に染み込んで固まっているような白だ。


——そこで、虫は消えた。


端末の数値が零になる。速い、ではない。「結果だけが先に出る」という感触だった。食われた手応えも、弾かれた衝撃も、焼かれた余熱も——何一つない。ただ、そこへ行けなかったという事実だけが残る。


陽鳥の喉が、細く動いた。

紺野は陽鳥の顔を見た。ここまで露骨に嫌そうな表情をするなら、本当にまずいものに触った時だ。陽鳥が感情を外へ出す時は、隠すコストを払う余裕がない時だけだと、長い付き合いで知っていた。


「……処理された」


陽鳥が吐き捨てるように言った。

宗一がすぐ訊く。


「迎撃か」

「迎撃なら感触が残る」


陽鳥は端末の画面を切り替えながら続けた。


「これは違う。こっちが入ったから殺したんじゃない。入る前提そのものが、最初から殺されてる」


東雲が小さく頷く。


「術理の網か」

「そう。しかも雑な網じゃない。生半可な神術師が"虫を落とした"程度の話じゃない」


陽鳥の声が一段低くなった。


「虫が成立する段から切ってる。入口を作らせない」


紺野の右手が握られる。

点検箱ごとここで潰すのは、そう難しくない。難しくないから、安い。


「もう一回だ」


紺野が言った。

陽鳥はすぐには首を振らなかった。まず路面を見て、それから端末に目を戻す。


「一回目は値段を見るため。二回目からは順番を取る」


今度は二体。

だが、陽鳥が虫の数を増やす時には必ず意味がある。今の二体は比較のための最低数だった。

一体を白線へ。もう一体を、点検箱の蝶番の影へ。

今度は空気の乾き方が違った。白線の方は冷たく薄い。蝶番の方は重く、湿っている。地下から染み出してきたような重さだ。


——二体が、順番に零になった。


白線へ行った虫が先だった。遅れて蝶番側。時間差は短い。短いから、その差に値段がある。


「……用途ね」


陽鳥が言った。声は静かだった。怒っているのではなく、確認している声だ。


「白線の方が先。つまり"人を通す意味"を持ってる場所が先に殺されてる。箱そのものじゃない。箱へ向かう順番を先に切ってる」


宗一が低く息を吐く。


「物流の前に、物流になる理由を殺してるわけか」

「そう」


陽鳥は短く返す。


「だから、こっちが見てるだけで削られる」


紺野は地面を見た。

ただの白線だ。設備として言えば、最も安い部類に入る。

だが今、その白線が一番先に殺されている。

重要だから先に殺される。それは理解できる。

理解できるから、余計に腹が立つ。


111-3


「ならずらす」


紺野が言った。

宗一も東雲も黙った。ここで誰かが先に言葉を足すと、紺野が作りかけている順番が崩れる。


「何を」


陽鳥だけが訊いた。


「意味をだ」


紺野は短く答えた。


「そこを通るのが正しいという顔を、半歩だけ脇にずらす」


言いながら、足は動かさない。その場から黒い奔流を薄く這わせる。ただし今日は壊さない。白線を消すのではなく、白線の脇に「使える理由」だけを細く作る。まるで脇道に獣道を足すような、言い訳の細さで。


地面の傾きが変わった気がした。路面が動いたのではない。ここではなくてもいいという理屈が、足元に一本だけ通った。


陽鳥がもう一体、虫を切る。今度は紺野が作った細い筋へ向けて。


——零になる。だが、一拍遅い。


わずかな差だった。だが、その差が全部だった。

端末に細い波形が立った。短い。消えかけている。ただ、死ぬ前に何かを見た後だけが、そこに残っていた。

陽鳥の喉が小さく鳴った。


「……取れた」


宗一が問う。


「何がだ」

「順番よ」


陽鳥は端末を握り直した。


「先に白線。次が箱の蝶番。——その次で中身に触るはずだった。でも、そこまで行く前に死ぬ」


東雲が頷く。


「中身を守ってるんじゃない。中身へ辿り着く手順を守ってる」


紺野の右手がもう一度握られた。

腹立たしい。

だが、腹立たしいだけで叩き壊せば、向こうが見たかったものが全部揃う。

陽鳥が端末の側面を軽く叩いた。自爆ではない。少なくとも群れの自爆ではない。死んだ虫の「死に方」を一瞬だけ逆流させる程度の、極小の反転だ。

喉の奥に熱い針が一本落ちた。

その熱を陽鳥は飲み込んだ。

画面に残ったのは数字ではなく、順番だけだった。

白線。蝶番。その先で途切れている。


「足りない」


陽鳥が言った。悔しさではない。確認の声だ。


「足りない形が残る」


宗一が即答した。


「それで十分だ」


東雲が続ける。


「十分だから引け。欲張ると次はこっちが探られる」


111-4


遠くでブレーキ音が一つ鳴った。


連絡路の向こう側。速度を整えながら止まった音だった。こちらを見てから速度を合わせた止まり方だ。


ただの物流車両ではない。

だが今それを追うと、こちらが「向こうに見られたいもの」になる。

東雲が外縁を見たまま言った。


「来るぞ。ここで来させるな」


宗一が頷く。


「珠洲原主任、閉じて下さい」

「分かってる」


陽鳥は即答して、端末を閉じた。

喉の焼けは残っている。残っているから、ここでさらに虫を切らない理由になる。体の痛みを言い訳に使える時だけ、陽鳥はそれを使う。

紺野が低く訊いた。


「足りるか」


宗一へではなく、自分の口から出た問いだった。

陽鳥は一拍置いて、短く返した。


「足りない。でも、足りないって痕が残る」


「痕が残れば向こうも次を変える。変えたら追える」


紺野は頷いた。

気に食わない。

だが、今の頷きは納得の頷きだった。逃げを認めたのではなく、順番の取り直しを自分の言葉で引き受けた頷きだ。


「戻るぞ」


紺野が言った。

宗一が先に動き、東雲が外側を抑える。

陽鳥は紺野の半歩後ろへ下がった。

二人きりではないから、何も言わない。だが、言わないままでも通じることがある。言葉が要らないのは、今さら確認するまでもないことだけだ。


向こうで止まっていた車が、こちらが引き始めた瞬間にゆっくり動き出した。

追ってこない。

追ってこないということは、向こうもまだここで全部を取れていない、ということだ。

それで十分だった。


連絡路には、白線と点検箱と足りない痕だけが残った。壊れたものは何一つない。ないのに、こちらの喉だけが少し焼けている。そういう現場だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ