世界に抗う弱さを核としている
……こんな夜中(もう朝になりかけだが)に文章を書いている。その「弱さ」について語りたい。
先日読んだ作品に登場した「ニヒリズム」について、ここ数日である程度の理解を得られたと思う。とはいえ、半端な知識にも関わらず理解しきった気になっている、ニワカにありがちな心理状態だろう。だから、ある程度の無礼は承知の上で、文章を綴らせてもらいたい。
ニヒリズムという語が知られるようになったのは、皆さんご存じの哲学者、ニーチェの影響が大きいそうだ。ここで言うニヒリズムとは、各人の中にある「絶対的真理」――ニーチェが指したのは「キリスト教」だが――が崩れた瞬間に起こる、何もかもを無意味と感じる怠惰な姿勢のことである。
彼は当時、キリスト教の欠点について説いていた。かの宗教は、祈るだけで救われる、人を助けよ、隣人を愛せ……おおよそ理想論の極みを押しつけてくるのだ、とニーチェは思っていたらしい。それは現実のシビアさから目を逸らす思想であり、そんな夢物語を信じさせることで、弱者を弱者のままでいさせているのだ、と。彼らが苦しみから逃げ、夢を見続けた果てには、ニヒリズムという抜け殻のような末路が待っている、と。
いや待て。そう私は思った。
先日読んだのは、ツルゲーネフ作の「父と子」という物語である。主人公のバザーロフはニヒリストであり、当然、あらゆる権威・宗教に対してその価値を疑ってかかっていた。
しかし、彼が「怠惰」や「抜け殻」だったとは到底思えなかった。むしろ彼の内側には、世間一般の価値観など真っ向から見つめ直してやるという、鋭い反発と緊張が張りつめているように感じられた。彼の否定は退屈から生まれる無気力ではない。受け入れるに値しないものを受け入れたくない、という誠実さの表れだったじゃないか。
そこで調べていく内に、ニーチェの「ニヒリズム」には複数種あることを知った。
一つは、ニーチェが批判した「弱さのニヒリズム」、受動的ニヒリズムだ。
もう一つは、弱さとくれば強さである。「強さのニヒリズム」、能動的ニヒリズムだ。
従来の価値を乗り越えるために、それらを無意味に感じることらしい。つまり、あらゆるものを無価値に思おうと、そこにネガティブな文脈は含まれない。物理法則を信じ、新たなルールを探し出すように、彼らは無価値の奥に新たな価値の創造をもくろんでいく。これは、バザーロフの態度とおおむね一致している。
ニーチェが勧めたのは「強さのニヒリズム」である。無慈悲な世界、慈悲を望む自分、その両方を変えようとすることが望ましい、と。つまりは、自分の手で世界をより良くしようという努力と、「世界ってこんなものだよね」という諦念(ニーチェが聞いたら怒るかもしれない)、相反する二つの行いを我々に求めたわけである。バザーロフは――恋愛という本能的要素を除けば――見事にやってのけたわけだが、私は思ってしまった。
難しすぎませんか?
もちろん、弱さのニヒリズムとは対面したことがある。
高校生のとき、よく宇宙に関する動画を見漁っていたが、そのスケールに圧倒されたのだ。木星のほくろには地球が丸々入るらしい。最も地球から遠い人工物「ボイジャー1号」ですら、まだ一光年にも届いていない。太陽はいずれ、地球を呑み込んでしまう。宇宙も熱的死、あるいはビッグクランチ等で……いずれにせよ死ぬだろう。
……じゃあ、我々が成していることは無駄なんじゃないですか。
そう思うのは当然の帰結であった。
さすがに今はもう、折り合いがついている。だが、改めてこの問いを引っ張りだし、「強さのニヒリズム」に当てはめてみようじゃないか。先程、私は「自分の手で世界をより良くしようという努力」と書いた。では、果たして私たちの手で「宇宙全体」を変えられるだろうか? まだ天の川銀河すら出られていないちっぽけな塵ごときが、驕りすぎじゃないか?
そんな疑いが胸をかすめるたび、「強さのニヒリズム」という言葉は、ひどく不釣り合いで、過大な役割を押しつけてくるように思えてしまう。まあ、宇宙を前にして「世界をより良くする」とは、さすがのニーチェも思っていまい。
では、どこまでの範囲を指しているのだろう。銀河系? 人類史? それとも、たった一人の生を覆うささやかな日常のことなのだろうか。
ここで調べる内に、あるニーチェの言葉を得た。
『人間、この極めて勇敢で苦悩に慣れた動物は、苦悩をそれ自体として否定しはしない。苦悩の意味、苦悩の何のためにが示されたならば、人間は苦悩を欲し、苦悩を探し求めさえするのだ。苦悩ではなく、苦悩が意味を欠いていることが、これまで人類の頭上に広げられた呪いだったのである』
この言葉を読んだとき、何かが腑に落ちたのを感じた。ああ、そうか、と。私が宇宙のスケールに飲まれ、「無意味だ」と呟きたくなるあの瞬間。あれは、世界の大きさに対して屈したのではなく、「意味を見失った」ことに屈したのだ。苦悩そのものではなく、苦悩の方向性を欠いていることに耐えられなかったのだ、と。
しかし、ここでまた一段、階段が現れる。「意味」とは何だろう。誰がそれを与えるのだろう。宇宙の果てからやってきた大いなる存在でもなければ、ニーチェでも誰でもない。物理法則に「意味」という変数はない。結局、それを選び取り、与えるのは自分自身でしかない。
では、その「自分自身」とはどの範囲を指すのだろう。
世界をより良くすると言うと、どうしても大きなことを想像してしまう。社会を変える。人類を変える。物理法則に挑む。だが、そんなスケールに身を置いた瞬間、私の中の弱さは震え上がり、強さのニヒリズムなど雲散霧消する。そんな巨大な世界に抗えるほどの力なんて、私にはない。
けれど、最近の物理と一緒である。視点をミクロな場所へと寄せてやれば、新たな発見が私の中に生まれるらしい。宇宙の果てではなく、もっと足元に。日々の、小さな葛藤や選択に。
……そうして今私は、夜中(もう朝だが)に文章を書いている。本来、この遅起きは、明日を迎えたくないという怠惰から生まれていた。ただただショート動画を眺めていれば、宇宙空間よりも虚無な時間になっていたであろう。
だが、少なくとも今の私は、その気配と向き合っている(と信じたい)。向き合うというより、なんというか、その深淵を恐々と覗き込んでいるような感覚に近い。もし「意味」がどこかに落ちているのだとしたら、こういう些細な行動の中にしか見つからないのではないか、と微かに思いはじめている。
宇宙全体を変えることなんてできない。当たり前だ。現状は、私一人どころか、人類の総意をもってしても到底届かない。だが、半径数メートルの世界なら、少しぐらいは変えられるかもしれない。雑に積まれた本を一冊だけ読み返すこと。皿洗いを後回しにしないこと。嫌いなタスクでも一行だけ進めてみること。そして、眠れない夜に文章を書くこと。
こうした行為のどれもが、「強さのニヒリズム」らしからぬ、圧倒的にちっぽけな試みだ。けれど、一つだけ確かなのは、それらが確かに私自身を昨日より良くしている、ということだろう。世界の全体像を動かすのではなく、私の視界の明度をわずかに上げる。その行為の積み重ねこそが、哲学の有効な実践方法ではないか。ニーチェが想定していたのも、丸々「ニヒリズム」に染まると言うより、こんな小さな変化だったんじゃないか。
ここでまた、弱さの話に戻る。弱さとは苦しみから逃れたがる状態だ、とニーチェは定義した。その文脈は「キリスト教批判」という社会的スケールではあるが、日常的にも「弱さ」は発生しうるだろう。
そんなとき、「強さのニヒリズム」――と言うのもおこがましい、その欠片のような姿勢――を胸に抱けたらいいだろう。彼の言う「超人」にはなれずとも、「凡人」から抜け出すことは可能だと信じていたい。
……と、ここまで書いた。
だが結局、今の私は最大の「苦しみ」から逃げている。そうして、かりそめの対決姿勢をとって、なんとか夜をしのいでいる。
――寝ることだ。
まあ、世界の常識は今更書くことでもない。一日は二十四時間で、朝、昼、夕方、夜を経て、また朝に戻る。私がどんな心情であろうと、明けない夜はないらしい。
そんな事実を受け入れず、グダグダと文章を綴ることの、一体何が「強さのニヒリズム」だ。「弱さ」の方ではないのか。そうおっしゃる方がいても不思議ではないし、こう書いている以上、自分でもそう思っている。
だが、それでいて、「無意味に夜をつぶす」ことには立ち向かっているのだ。これでは「弱さのニヒリズム」に反している。ならば今の私は、ニヒリズムという観点からどのように分類されるのか?
以下に改めて、私が示した「強さのニヒリズム」を記す。
『自分の手で世界をより良くしようという努力と、「世界ってこんなものだよね」という諦念、相反する二つの行いを我々に求めたわけである。』
私には、前者があって後者がない。
苦しみから逃れながらも、強さの片鱗は見せているわけだ。
これは今だけじゃなくて、あらゆる場面においてそう思える。
……つまり、これが私らしさということだろう。
世界に抗う弱さが核なのである。
嘲笑されうるような宣言だ。私も大真面目にこれを綴っているわけじゃない。だが……ある意味、苦悩に対して「まあ、今日も来たか。はいはい、そこに座ってなさい」と、客間に通すくらいの余裕がそこにはある。いや、余裕なんて言うと語弊がある。実際には、玄関のドアを閉めようとしたら足でこじ開けられて、「え、また来たんですか?」と狼狽しつつも、とりあえずお茶だけ出してしまった、そんな感じである。
強さのニヒリズムなんて、とてもじゃないが名乗れない。その他の科学者が分類したニヒリズムにも、なんだかしっくりこない。じゃあ私は何なのかと聞かれれば、もう答えは一つしかない。
弱さのニヒリズム……の一種なのだろう。ニーチェが生きていたら、「うだうだ語られましても」と呆れられていたことだろう。
だが、まあ、仕方がない。
自身の弱さを真っ向から肯定できるほど、人間は上品なものではない。あるいは哲学用語一つ一つが、個人個人へ対応しているわけじゃない。
ただ一つ救いがあるとすれば、こんな夜中(朝)に机に向かって文章を打っている、という事実だけだ。それは弱さの表れでもあり、同時に「ちょっとだけマシな自分になりたい」という、物理的に銀河系より近い願望の表れでもある。
つまり私は、「強さのニヒリズム」のスケールを地球サイズから半径一メートルにまで縮小し、そこでようやく戦えているのだ。あまりに卑小である。だが、卑小なりに、今日も確かに何かを選び取った……それくらいの手応えはある。
さて、そろそろ締めよう。
私は今、「苦悩を意味づける」なんて大それたことはできない。
哲学的高みにも立てないし、世界を変えることもできない。
せいぜい、眠る前に布団を整えるくらいである。
……でも、その布団の皺を伸ばすくらいの行為が、明日の私をほんの少しだけマシにするなら、まあ、それでいいではないか。改めて言うと、それこそが、哲学を有効に実践するということではないか。




