大納言の遺言
上の息子の北の方の悪阻は酷く、産み月が近づいても治まりません。
公廉は孝子と共に「おするすると、お産み遊ばされなすように。」と祈願しています。
娘が出産後に床に臥したと聞いた時に、孝子は密かに「薬絶ち」をしていました。
「良くなった」との報を受けても、薬は断ったままでした。
孝子は⦅このまま薬絶ちをし続けて……息子の北の方がおするするとお産み遊ばすまで……。⦆と心に決めました。
公廉から受け取った薬は、そのまま隠しています。
⦅吾が君さんに見つからんようにせな……あかんのえ。⦆と自分に言い聞かせて隠し続けているのです。
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大納言を叙任される当日、着飾った女君の父・源中納言はとても立派な姿でした。
源中納言が内裏よりも先に三条邸を訪ねると、ちょうど左大将と女君が一緒にいるところでした。
源中納言が二人を拝むようにして礼をしましたので、左大将は「畏れ多いことであらしゃいます。」と言いました。
それを聞いて源中納言は、「私は、此度の大納言叙任に関しては朝廷に感謝をしておりませぬ。ただ左大将さんだけが、私に嬉しく、有難いことを進ぜられたと存じております。この世で左大将さんにこのご恩を返せずに隠れましても、守護霊となり左大将さんをお守りしようと存じます。」と言いました。
それから源中納言は三条邸を後にして、右大臣邸を訪れてから内裏に参上しました。
お供の者にも祝儀を与えましたが、同じように豪勢でした。
大納言になり一時は元気になったものの、また寝付いてしまいました。
病気も重く、苦しみながらも「今はもう、塵ほどにも無念に思うことは無い。我が命、ちとも惜しゅうない。」と言って病床に伏しました。
大納言が大変弱っていると聞いて、女君は父君の元へと駆け付けました。
大納言は「有り難いことや、嬉しいことや。」と喜びました。
娘が四人集まって、看病をしては嘆きあいました。
しかし大納言は他の娘が看病するのは特に嬉しいとも思わず、ただ女君が付き添ってくれることを嬉しいと思ったのです。
女君もそんな父・大納言に付きっきりで看病をし、湯づけを食べさせました。
大納言の体は看病の甲斐もなく弱っていきました。
大納言は⦅私が生きている時に、遺産の処分を決めてしまおう。ええことに私の息子らは兄弟思いではないようやし、娘らも余所余所しいようや。きっと私がかくれた後、遺産のことでねたもじやらが出てくるやろう。⦆と思い、生きているうちに財産を分配することに決めました。
長男の越前守などを枕元に呼び寄せて、所有している荘園の地券や石帯などを取り出しては指示を出して分配させました。
少しでも良い物は、左大将の妻である女君にばかり差し上げていました。
「他の子は、これを見て女君を羨ましいなどと思うてはあきまへん。
同しくらい力を入れて、孝養を尽くした子は他にはおらんのや。
それに、ちと人より飛びぬけた存在には相応に良い物を取らせるものや。
こないして長い年月、せもじしてきたことを恩にきなさい。」
と尤もらしい顔で言いました。
子ども達も、これから先にも左大将と女君の世話になることがみえていたので、「それが道理や。」と納得しました。
「ここも古いけど、おひろびろで、ええ邸や。」
そう言って大納言が邸さえも女君へとあげると、北の方はこれを聞いて泣きました。
「仰せあらしゃいますことは、その通りやもしれません。
なれど……それをねもじせんと居られへんのでござります。
私は若い頃から、大殿さんの妻として連れ添いました。
大殿さんが六十、七十歳になるまで、せもじ致しました。
また主として頼りにしていました。
子を七人も産みました。
そやのに、なんで、この邸を私に進ぜられましゃいませぬ。
大殿さんは子らが孝養を尽くさなんだと仰せあらしゃいまして、お見捨てあらし
ゃいますのか。
親であらしゃれば、『幸運にありつけなかった我が子は、私の死後にどないなる
ことやろう。』としんもじするものでござります。
それに、左大将さんは、この邸を進ぜられなくとも痛うも痒うもあらしゃいませ
ぬ。
三つでも四つでも幾らでも邸をお建てましゃいましょう。
第一あの玉のように美しい三条邸も、うちが建てた邸でござります。
息子らは、ええですやろ。
夫がいる娘らも、それ相応の邸を持ってへんけど、いざという時に縋れる夫がお
ります。
けど、この私と、夫が居らん三の君はどないなりますのや。
『ここを出て行け』と左大将さんやあの女君に追い出されましたなら、どこに行
けば良いのであらしゃいましょう。
往来に立って、路頭に迷えとでも仰せあらしゃいますのか。
無茶なことを仰せあらしゃいませぬよう頼み入りまする。」
「子らのことをしんもじやないと思うのか?
しんもじや。
けど、なぁ……この邸が無うなっても路頭に迷うようなことにはならへん。
私は長う中納言の位におったのや。
その身分相応には娘らをせもじしなされ。
遺産が足りのうなっても、他の兄弟がせもじしてくれるやろう。
越前守、私の変わりに姉妹の世話をなさい。
其方、今、何とお言いた。三条邸がうちの邸やと?
何を言うのや! ほんまは女君の持ち物や。
左大将さんも、私が、ちと気のきいた品を残すことなくかくれれば、『大したこ
とない者やった。』とお思いであらしゃいますやろ。
もう、何を言おうと其方に邸は残さへん。
今日明日とも分からぬこの身を恨んでくれるな。
もう物言わしゃるな! しんどい。」
と言うので、北の方はまた文句を言おうと口を開くが、子ども達が集まってきて止めましたので、何も言うことは出来ませんでした。
四の君は、酷い悪阻で床を離れることが出来ません。
止むを得なく兵部の大輔が一人で大納言邸を訪れました。
大輔の手には四の君からの文を携えていました。
入るなり、女房達だけでなく、四の君の兄姉達も笑いを堪えています。
⦅いつものことや。気にしたらアカン。四の君の代わりやから……。⦆と大輔は己を奮いたてて、顔を上げて大納言の前に進み出ました。
「おお、これは……大輔さん。」
「大納言さんにおかれましゃいましては、此度の大納言叙任、
誠におめでとう、忝う存じ参らせます。」
「ありがとう。」
「お祝いに参じますのが、おそそもじでござりました。
申し訳のう忝う存じ参らせます。」
「いやいや、四の君のご懐妊こそ、おめでとう。」
「忝う、ありがとう存じ参らせます。」
「四の君の文やな。」
「はい。」
「………悪阻……おいとしいことや。
……大輔さん。」
「はい。」
「四の君のこと、頼み入る。」
「はい!」
「大輔さんが居わしゃるなら、四の君のことは……しんもじせんでもええな。」
「大納言さん………。」
「四の君に渡せる物は、ちとしか無い。」
「何も要らぬと聞いております。」
「そやな、そない書いてある。
四の君は『育ててくれてありがとう。』……そない書かしゃって……。
何も要らんと、『命を授けてくれて、ありがとう。』……と。」
「はい。」
「大輔さん、頼み入る。……四の君を大事に……。」
「それは、この御邸より私がお連れ出した折りより、この身に代えましても……
そない心に定めております。」
「ありがとう。」
急に北の方が大きな声で言いました。
「その馬のようなお顔、こちに向けんといておくれやす。
こちは厩やないのや。
おはやばやお行きやっしゃ。厩へ!」
静かな部屋は急に笑い声で満ちてしまいました。
恥ずかしくて顔を上げにくくても大輔は顔を上げて胸を張りました。
「大納言さん、御機嫌よう。」
「御機嫌よう。」
「女君さん、御機嫌よう。」
「大輔さん!……御機嫌よう。」
大輔の後姿は悲しみを秘めながらも、颯爽としていました。
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「孝子、もうお寝りやっしゃ。」
「……も……ちと……。」
「あかん。お寝りやっしゃ。」
「……お願いでござります。」
「あかん! あかんのや!
私の言うことお聞きやっしゃ。ええな。」
「……明日に……致しまする。」
「そう、おしやす。」
⦅そない言わな、目え、瞑ってくれへん。⦆
公廉は孝子の身体が良くなって来ないことを何よりも案じています。
公廉の願い「孝子との散策」は叶えたいのです。
進ぜられた…頂いた。
ちらと…ちょっと。
湯づけ…炊いたご飯にお湯をかけたもの。
ねたもじ…妬ましいこと。
おひろびろ…「盛大に」の意味と、「広々」の意味の二つ。
せもじ…世話。
しんもじ…心配。
石帯…革地に装飾が施された帯。
おそそもじ…遅いこと。
おいとしい…気の毒。




