落窪の君が居なくなった源中納言家
公廉は嬉しそうに言いました。
「孝子! これはええぞ。うむ、なかなかに宜し!」
「何がでございますか?」
「何が、とは……其方の落窪の君のことやないか。」
「まぁ、おはやばや読ましゃいましたのでございますね。」
「おう、読んだぞ、読んだ。
少将がようやっと動いたな。」
「はい。」
「其方も……その……。」
「はい? 何か?」
「いや……何でもないわ。」
「さよでござりまするか。」
何か言いたげで言わなかった夫の心を知りたく思った孝子でした。
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右近の少将の二条の邸は綺麗に清掃されていました。
邸に着いた時、少将は落窪の君を優しく抱いて牛車から降りました。
「さぁ、お姫さん。今日からは私と二人でこの邸に住みましょう。
ここは私の父も母も居りません。
二人だけでございます。そやから遠慮せんといておくれやす。
お姫さんは今日からこの邸の女主で、私だけの大事なお方。
そして、私だけの、ただ一人の妻。
此度は私の腕の中に閉じ込められあらしゃいました。」
少将は夢の中に居るのではないかと思っています。
愛する姫君と、これからは誰にも気兼ねなく愛し合える――それが、その幸せが信じられないとも思うのです。
この腕の中に居る愛しい姫を……。
「例え、かぐやの姫のようにお月さんから使者が来ましても
私はお姫さん……いや、落窪の君、そなたさんを離しません。」
優しく落窪の君を抱きしめながら、今はその幸福に浸かっている少将です。
落窪の君は少将に抱き締められている腕の強さ、胸の温かさを感じながら、⦅こんなに幸せになれるなどと思いも寄らなんだ。⦆と思っています。
閉じ込められていた間のことを互いに話しては、泣いたり笑ったりしました。
特に典薬の助の失態については、惟成から聞いていましたが、姫を助け出し憂いがなくなった今、やっと少将は大笑い出来ました。
「なんともはや、だらしない求婚者やね。
北の方はそれを御知りましゃって、どないに呆れるのやろうね?」
打ち解けて、寛いだ様子で、そのうちに二人は眠ってしまいました。
阿漕も惟成と語り合っていました。
「おするするにお救い出来て、ほんまに良かった。」
「ええ、上手ういきましたわ。」
「お姫さんが御邸を出て行きましゃったことを御知りあらしゃった北の方のお顔を
拝みとおしたなぁ……。」
「ほんまに! そうやね。し残したことがあったわ。」
阿漕は北の方への復讐を考えていました。
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源中納言家では、祭り見物を終えた北の方達が邸に戻って来ました。
邸は、門が開け放たれていました。
「はて、何で開いてるのや?」
何気なく不審に思った北の方が、急ぎ雑舎に行きました。
「何があったんや!
……落窪! 落窪がおらん。
留守番の者は何をしていたんや!
こんな邸の奥に入られたのに気ぃ付かんかったんかっ!」
北の方は戸を打ち破られた雑舎を見て、中に居るばずの落窪の君が消えてしまったことに激怒して叫ぶかのような大声で捲し立てました。
息を吹き返した留守番の男は呆然としながら話しました。
「何が何やら分からん間のことでございました。
女車が入って来ましたんや。
私が咎めましたら、やられてしもうて……
申し訳ございません。後は全く覚えておりません。」
「阿漕の仕業や! あの女房が………。
阿漕! 阿漕はおらんのか?」
「お母さん。」
「三の君、其方のせいや。其方があの阿漕を庇いだてせなんだら……。」
「お母さん。そないなこと言わしゃっても……。」
「女車が入って来たんやな?」
「はい、大殿様。」
「そいつが曲者や。女車に見せかけて男が乗って居たんや。
男や無うて、あの戸を打ち破れるはず無い。
いったい誰や! どこのどいつが、こないなこと……。
中納言の邸と知った上で押し入ったんや!」
源中納言も激怒しています。
それよりも激しく憤っているのは北の方でした。
落窪の部屋には調度品が全て無くなっていました。
そして、あの典薬の助の文を読んだのです。
「なんやて……落窪はまだ……典薬の助の妻になってなかったやなんて……。
典薬の助の阿保が!」
北の方は典薬の助を呼びつけました。
「これ、どういうことであらしゃいましょう?」
「えっ! それは、色々と、な。
あったんや。色々あってな。」
「頼りない、頼りないとは思うておりました。
そやけど、こないな頼りないお方やとは思いませなんだ。」
「あの……北の方……。」
「私は鍵を渡しました。何をなりましゃれば、妻に出来たんでございますか?
こんなんやったら、他の者にでも下げ渡した方が良うございました。
役に立たへんのに、この邸に置いて貰うてること、分かってはるのですか?」
「そないに怒らんでも……。」
「典薬の助ぇ――っ!」
「ひぇ~~っ、堪忍や。堪忍。
けどな、そないに怒りなさっても、もう、しゃぁないですやろ?
初めの晩はお姫さんがや、おこまがきやって言わしゃって、近づかれへんかった
んや。
次の晩、昨夜は戸が開かへんのですわ。
そのうち、身体が冷え込んでしもうて、な。
おなかがぐるぐる。おいどからはビチャビチャ漏れてしもうて……。」
「もう! もう、ええわ。退っとおくれやす。」
激しい憤りだった北の方でも、流石に典薬の助の話を聞き笑ってしまいました。
傍で聞いていた女房達も吹き出して笑ってしまったほどでした。
典薬の助だけが憤懣遣るかたないのか……。
「私も一生懸命、気張らせて頂いたんや。
そやけど、出物腫れ物所嫌わずや。
おなか下しには敵いませなんだ。しゃあないやおまへんか。」
ついに堪え切れなかった女房達が笑い出しましたら、典薬の助はふくれっ面を見せて出て行きました。
「なんで? なんで、落窪のお姉さんを閉じ込めましゃったの?
なんで、落窪のお姉さんを、あないなおとしめしと一緒に?
ねぇ、なんでお母さんは、落窪のお姉さんにいけずしましゃるの?
そやから、お姉さん、出て行きはったんと違うの?」
幼い三郎君の言葉に、その場にいる誰もが言葉を失いました。
「子どもは静かにおしやす! 口出ししたらアカンのや。」
「ねぇ、お母さん。
僕、落窪のお姉さんの所へ遊びに行きたいん。
行ってもええ?」
「この子は何を言うてますのや。行き先は分からへんのに……。」
「いつか、お姉さんに素敵な公達がお通い遊ばして……
そうしたら、僕、お祝いしたいなぁ……。
ほんで、お姉さんのお婿さんに教えて貰いたいなぁ……。
お姉さんにもお琴を教えて貰うて、いっぱいお喋りしたいなぁ。」
「あの落窪なんかに婿など来うへんわ。
この邸を出たら飢えてかくれるだけや。そこらへんで野垂れてかくれてしもうて
はりますわ。
この中納言家の私が産んだ子らと同しやない。同しやないのや!」
北の方は金切り声をあげて叫ぶように言いました。
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公廉の少し後ろを孝子は歩いていました。
散策を終えて、邸に戻った時、急に孝子の身体が宙に浮きました。
「あれ~っ、吾が君さん。何をしてあらしゃいます!」
「妻を抱き上げただけや。」
「皆に見られてしまいますえ。」
「見られても宜し。夫が体の弱い妻をおなしして部屋に戻るだけ。」
「あ…吾が君さん、はもじでございます。」
「其方は私の胸に顔を当てて居れば良い。
誰にも顔を見られぬわ。」
「吾が君さん。」
「ちとは右近の少将のように出来ておるかな?」
「右近……吾が君さん、あれはお若いお方。」
「おとしめしの私では不足か?」
「吾が君さんをおとしめしなどと思うてはおりませぬ。
それに、そないなことを申しておるのではございませぬ。」
「長き間、離れておった故、取り戻すのよ。時を……。
おとしめしの私でも、其方をおなしすることくらいは、まだ出来るのやな。
安堵した。」
「吾が君さん。」
孝子は公廉の胸に赤く染まった顔を埋めるようにしています。
その孝子の様子をも公廉は愛おしく思えました。
おはやばや…早くに
おするする…ご無事に。
おこまがき…病気が悪いこと。
おなか…腹。
おいど…お尻。
いけず…意地悪。{京都弁ですが、御所言葉ではありません。)
おなし…抱くこと。
はもじ…恥ずかしいこと。
おとしめし…老人。




