撃退
孝子は身体が辛くて起き上がれない日も「落窪の君の物語」を綴り続けています。
公廉が注意しても、「無理はしておりませぬ。」と言い切りました。
⦅どうしても書き上げたい。この物語を吾が君様の……息子らの……娘の……為に残したい。⦆と思っています。
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夜も更けていきました。
北の方から雑舎の鍵を受け取った典薬の助は、早速、雑舎へ向かいました。
雑舎の中では落窪の君が思い悩んだ末に、部屋の中にあった大きな杉唐櫃を後ろから押して、戸口に置いてしっかりと押さえました。
落窪の君は唐櫃を押さえたまま、ぶるぶると戦慄き震えて、⦅ああ、神さま仏さま! 何卒、何卒、この戸が開かへんようにしておくれやす。⦆と祈っています。
典薬の助は⦅やっとや。やっとこさ、お姫さんをこの手に……ぐひひひひ……こないに嬉しいことは今まで無かった……ほんまに嬉しいなぁ……。⦆と小躍りするかのような心持ちで、落窪の君が閉じ込められている雑舎に着いたのです。
典薬の助は、雑舎の戸の錠に鍵を鎖して開けました。
雑舎の中で鍵を開ける音を聞いた落窪の君は、我が身を案じて胸が潰れる思いです。
錠を開けた典薬の助がいざ戸を引こうとすると、戸が固く閉まって動きません。
「おやっ? どないしたんや、これは……開かへんやないか。」
困った典薬の助が、立ったり座ったり……あれこれしていますと、阿漕が音を聞きつけて、少し遠くから見て様子を伺っています。
典薬の助は戸の上下をあれこれ手で探りましたが、阿漕がしっかりと埋め込んだ棒を探り当てることは出来ませんでした。
「これっ、申し、お姫さん。
なんで意地悪をなさるのや。
其方と私の仲は、この御邸中の皆が知ってますのや。
大殿様もお許しあらっしゃったのや。
どっちみち、其方は私の妻や。逃げられまへん。
逃げたかって、離しまへん。
これ、申し。ここ、開けとくなはれ。」
落窪の君は戸の内側に大きな杉唐櫃だけではなく、様々な箱を積み重ねています。
内と外で戸が開かないように、つっかいをしているので、易々と戸は開きません。
典薬の助が幾度、叩いても押しても戸は開きません。
「う~~む。お姫さん、そない強情張らんと、開けとくなはれ。
どうかお頼申します。戸を開けとくなはれ。」
元より、落窪の君は返事などする気がありません。
遂に典薬の助は声を上げて泣き出しました。
益々、夜は更けていきます。
困り果てた典薬の助ですが、⦅なんとかなるわ。⦆と、雑舎の前で座りました。
板引きの床は冷えて、段々と典薬の助は寒さに震えるようになりました。
⦅あかん……寒過ぎるわ。底冷えもしてる。⦆と寒さが身に染みていきました。
折り悪く、お腹の具合が芳しくなかった典薬の助は、凍えてしまった身体を包んでいる衣が薄いのを悔やんでいます。
芳しくない具合のお腹が、ごろごろと鳴り出したからです。
「あかん。冷え切ってもうた。えらいこっちゃ。」
典薬の助は困り果てました。
お腹が痛み、すると、ぴちゃぴちゃと……音がして悪臭が立ち込めました。
典薬の助はあっという間に、我知らず袴を汚してしまったのです。
「あかん、あかん。どないしよう。」
そう言って、お尻に手を当てて逃げ出してしまいました。
逃げ出す前に、しっかり錠を鎖して行ったのには驚くばかりの阿漕です。
⦅あぁ! 癪やわ。鎖して行かんでもええのに……。⦆と思いつつ、⦅それよりも、お姫さんや。⦆と雑舎に近づいて落窪の君に話し掛けました。
「逃げて行かはりました。
今宵はもう来はりまへん。
どうぞお心安んじあらしゃいまして、
お寝りあらしゃいまし。
私は惟成にお姫さんからのお返事を伝えます。
行て参じます。」
そう落窪の君に話して、阿漕は退りました。
部屋では惟成が待ち構えていました。
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娘が恥ずかし気に言いました。
「お母様、これは……その……食事の前に読めませぬ。」
「そうですね。」
「私は……食事を摂るという気にさえなりませぬ。」
「そうでしょうね。」
「でもっ! あの典薬の助から落窪の君を守れましたね。」
「ええ。」
「阿漕の働きも……落窪の君も……良くおやりになりましたわね。」
「そうね。」
「私、続きを読ませて頂くまで、とても怖かったのでございます。
落窪の君が、あの典薬の助の妻になるなんて!
本当に嫌でございましたのよ。」
「それは、何方も思って下さるかしら?」
「きっと何方もお思いになられますわ。」
「そうだと嬉しいわ。」
「お母様、お休みになられますか?
御顔色が少し優れないように見えます。」
「そうね。休ませて頂きましょう。」
「はい、どうぞ、ごゆっくり……。また参ります。」
「ええ、いらっしゃいまし。」
娘が出て行く姿を床に伏しながら見送りました。
見送ると、目を閉じて休みました。
杉唐櫃とは、杉で作られた唐櫃。唐櫃は衣服などをしまう箱で、ふつうヒノキで作ります。