落窪の君からの文
孝子の物語を読むのが日課になった公廉です。
公廉が大変、楽しみにしている様子を見るのは孝子にとって、物語を書き続ける気力の源になっています。
「どうじゃ。進んでおるか?」
「はい。ゆるりと、ではございますが……進んでおりまする。」
「そうか……して、其方はどうじゃ?」
「私でございますか?」
「そうじゃ。その……身体は……辛くないか?」
「はい。大事ございませぬ。」
「そうか! ならば、無理をせぬようにせよ。」
「はい。」
「また、私は読みたいのだ。」
「はい。」
「最後まで読むからの。」
「はい。……吾が君様に読んで頂けると励みになりまする。」
「何? 励みになるとな……では、私も良く読もうぞ。」
「はい。お読み下さりまし。吾が君様。」
公廉に読んで貰う為に筆を走らせる孝子です。
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右近の少将は、その夜、宮中で宿直でした。
落窪の君の元へ通いたい心を抑えて文を書きました。
「さらでこそ そのいにしへも 過ぎにしを 一夜経にける ことぞかなしき」
⦅昔は貴女が居なくとも一夜など何気なく過ぎてしまったものですが、今はただ、一晩でも貴女に逢えずに過ごしただけで悲しいのです。⦆
和歌だけではない文でした。
「昨夜は内裏に参内しておりましたので、訪うことが出来ませんでした。
阿漕がどんなに惟成を責めるだろうかと想像するのも楽しいことでした。
今宵は『昔はものを』という歌のように……
逢ってからのほうが逢う前よりも貴女が愛しい想いでおります。
貴女は周囲に気兼ねばかりしておられる。
今の境遇から抜け出したいとは思われませぬか?
私は貴女が気楽に暮らせる住まいをご用意致します。
どうか、そのおつもりで……。」
少将は一夜、会えないので、会って話せなかったことを文に書いたのです。
丁寧で優しい文でした。
「どうか、お返事を! 私がお渡し致しまする。」と惟成は落窪の君に申し上げて待ちました。
阿漕は少将の文を読んだ。
「ねぇ、少将様に私のことを何と言ったの?」
「えっ!」⦅あれっ? 怒ってない……笑ってる。⦆
「あのね、誰にも愚痴を言えないのよね。だから、貴方しか居ないのよ。
愚痴を零しても良いのは……。
だからね、なんとなく、なんとなく口喧嘩になったりもするのよね。
その辺、分かって頂戴な。ねっ。」
二人は顔を見合わせて笑いました。
落窪の君は少将への返事を認めています。
「昨夜は『まだきしぐるる』という古歌のように、
私も少将様の御出でが無いのが悲しくて泣いてしまいました。」
その想いを和歌に込めました。
「すぢに 思ふ心は なかりけり いとどうき身ぞ わくかたもなき」
⦅昨夜は御出でにならなかったので、貴方が私一筋に想う心がないと分かりました。ますます辛い私のこの身をどうして良いのか見極められません。⦆
和歌に続けて……。
「本当に、古歌に『憂き世は門させりとも』と言うように………
出来ることなら私もこの邸を出たいと思っているのに出られないのです。
それから阿漕が『疾しい気持ちがある人は、姫を怖がるのですよ。』などと……
申しております。
それが誠なら、貴方は私に疾しいところがあるので、私を恐れるのでしょう。」
と認め、惟成に手渡しました。
惟成は落窪の君の文を押し頂いて退がりました。
惟成が退がったその時でした。
「帯刀の惟成、参れ。」と三の君の夫・蔵人の少将から御召が掛かりました。
惟成は蔵人の少将に仕える従者です。
畏まって直ぐに参上しました。
落窪の君から少将への文を惟成は、どこかへ置いておくわけにいかず、懐に隠し持って、三の君の夫の蔵人の少将に急いで参上したのです。
惟成は懐の中に落窪の君の文を隠し持ったままです。
「惟成、三の君に会う前に整えたいのだ。髪を結ってくれ。」
「はい。畏まりました。」
惟成は蔵人の少将の後ろ髪を梳こうとして、蔵人の少将の後ろに回りました。
女童が揃えた水や櫛箱を引き寄せました。
少将も帯刀も下を向いていました。
その時のことです。惟成の懐から蔵人の少将の膝元に、封をされた文が滑り落ちました。
髪を梳いている惟成は懐から文が滑り落ちたことを気付きません。
気付かずに、一心に髪を結っています。
蔵人の少将は惟成に何も言わずに、そっとそれを取り上げ、僅かに起きた悪戯心で文を何食わぬ顔でしまい込んだのです。
惟成が貰った文に興味が湧きました。
⦅惟成の女か……はてさて、どんな文字を書く女なのだろう? 文を見てやろう。⦆と思ったのです。
惟成が綺麗に結った髪で、蔵人の少将は妻の三の君の部屋に入ってから、文を読みました。
⦅これは、美しく女らしい文字を書くのだなぁ。意外だ。⦆と蔵人の少将は思い、三の君にも見せました。
「三の君、これを見て御覧なさい。惟成の落し物だ。」
「これは! 落窪の筆跡ですわ。」
「おちくぼ? 変な名前の姫君ですね。どちらの姫君でしょう?」
「そ……それは……そういう名前の人がおりますの。お針子ですわ。」
三の君は冷ややかに言いました。
蔵人の少将の興味は尽きたようで、この文のことは終わりました。
事を怪しんだ三の君は、話が終わって放り捨てられたその手紙をそっと取ったのです。
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物語を書いていると、現し世を忘れて、物語の中へと入っていきます。
それが孝子の楽しい時間の一つです。
ですから、現し世では起こりえないことを書こうと決めました。
それは物語を進めていくうちに決めたことなのです。
⦅現し世ならば……
落窪の君は右近の少将と巡り逢うことも無いままに………
源中納言家の落窪と呼ばれている部屋で終えるのだわ。
だからこそ、物語の中では幸せな暮らしを送らせたい……。⦆
そして、幸せを運んでくるのは、右近の少将と決めました。