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一条戻り橋  作者: yukko
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二日目の夜

孝子と公廉の仲は離れて尚、深く結ばれていたようです。

息子や娘が何と言おうと公廉は孝子の物語を書くことを咎めませんでした。

それどころか言うのです。


「其方も一度、母の物語を読んでみよ。

 それは、それは良い出来なのじゃ!」

「父上………。大概になさいませ。」

何故(なにゆえ)、そのようなことを言う?」

「物を書くよりも母上にはして頂きたいことがございます。」

「口利きか?」

「分かっておいででしたら……。」

「もう、今まで充分にしてくれたではないかっ! 違うか?」

「それは、左様でございまするが………。」

「多くを望むまい。」

「父上!」

「多くを望むと、いずれ失う。それがこの世というものだ。」

「父上!」

「母が息災かを聞かずに、口利きのことのみを……。」

「それは………。」

「母は病を得た。故に戻って参ったのじゃ。忘れたのかっ!」

「いいえ……忘れてはおりませぬ。」

「ならばっ!」

「でも。今はお健やかでございまする。」

「帰って参ってから、物語を書くに至った。

 母が健やかになったのは物語を書くようになってからのこと……。

 母から書くことを奪うなかれ。良いな。」

「……はい。」


部屋の外で漏れ聞いた夫の言葉に孝子は涙を禁じえませんでした。


⦅吾が君様、有り難きお言葉……孝子は嬉しゅう存じまする。

 この物語は最後まで書き終えまする。

 そして、右近の少将は吾が君様のようなお心持の公達に……。⦆


孝子は思いの丈を筆に込めて書き続けました。



⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂



阿漕は叔母への文を書く時に落窪の君の夜具の薄さも気になっていました。

⦅貸して下さるはず! 夜具もお願いしよう。⦆と決めて文を書いたのです。


「叔母様、お久し振りでございます。

 今日は急なお願い事があり、このように文を認めました。

 私の知人でとても立派な方が、方違かたたがえで私の部屋に参られます。

 几帳を一つお貸し頂ければ幸いでございます。

 そのお方にお貸しする夜具も、どうしようかと困っております。

 お願い出来るお方は叔母様しかいらっしゃいません。

 どうかお貸し頂きとうございます。

 折々こんなお願いばかりして申し訳なく思っております。

 また、(はした)ないことだとも分かっておりますが、あまりにも急なことで……

 叔母様にお願いするしか思い浮かびませんでした。

 どうかお聞きおよび頂きますよう、お願い申し上げます。」


阿漕からの文を受け取った叔母は大層嬉しかったようです。

返事を書き、その文を使いの者に渡しました。

使いの者から叔母の文を受け取った阿漕は嬉しそうでした。


「貴女からの文が届かないことこそ寂しく思っていましたよ。

 他にも用向きがあったら、遠慮なく言って頂戴。

 幸いなことに、夫が私に下さいますので、様々な物が手元にありますよ。

 それから、私が着ようと思って縫っていたものです。

 粗末なものですし、貴女はこんなような物をたくさん持っているでしょう。

 これも差し上げます。

 勿論のこと、几帳も差し上げます。」


「叔母様、ありがとうございます。」と阿漕は声に出してしまいました。

それほど嬉しい叔母からの文でした。

文と共に届いた調度品の数々を阿漕は見ました。

几帳を見て喜んだ阿漕がもっと喜んだ物も届けられています。

それは中に真綿が入った紫の美しい衣です。

大きくて長い衣は、寝る時に衣を脱ぎ上に掛けて休めるのです。


阿漕は早速、落窪の君に見せました。

そして言いました。


「姫様、このような物を手に入れることが叶いました。

 どうか、お召し下さいまし。」


阿漕は衣にも香を()()めました。


⦅そうよ。こんな風にお迎えしたいのよ。右近の少将様を……。

 姫様が心ときめかせて公達をお迎えする日を私は待っていたのよ。

 こんなふうにお部屋を整えて……。

 いつでも、どんなへやでも良いとはいかないのよ。

 殿方とは違うもの………。⦆


部屋を清め、鏡台や几帳などの調度品が整えられて、高貴な美しい姫君の部屋に相応しく……。

落窪の君は良い香りに包まれて、美しい衣と袴を纏っている姿を、うっとりと見つめていた阿漕でしたが、少将が部屋の格子を叩く音で我に返りました。

阿漕は急いで格子を開けました。

そこには清々しい美青年が立っていました。


⦅このお方が右近の少将様……なのね。⦆


阿漕がそう思うと、少将は無造作に入って来ました。


⦅三の君様の婿君・蔵人の少将様より素晴らしいお方だわ。

 きっと、このお方なら姫様をお幸せにして下さるわ。⦆


そう思っている阿漕に少将は微笑みました。


「其方が阿漕か?

 色々と骨を折ってくれたようだね。ありがとう。

 私が少将だ。よろしく頼む。」

「は、………はい。」

「姫君のご気分が優れないと聞き及んでおる。

 それ故、お見舞いに伺ったのだ。

 私が心を込めて看病する故、其方は退(さが)りおれ……。」

「は、はい。それでは……退らせて頂きます。」


阿漕はゆっくりと後退りながら部屋を出ました。

⦅待って!⦆と落窪の君は阿漕を引き留めたかったのですが、少将が几帳を押しやりました。

それで、声が出ませんでした。


「お具合が悪いと聞き及んでおります。

 どうか私に看病をさせて下さいませぬか?」

「……いいえ、もう……良くなりました。」

「お具合が悪いのでしょう。起き上がらずに、そのままで。」


落窪の君は小さな声しか出ませんでしたが、昨夜のように切羽詰まった心持ちではありません。

身なりが人並みに美しく、香も薫き染められていたからです。


「私が差し上げた衣を身に着けていらせられる。

 ありがとう。」

「…………………。」

「昨夜から私は夢を見ております。

 姫君のことを考えると胸が苦しくなります。

 姫君のことばかり考えております。いつの間にか………。

 私は姫君のことをどんな公達にも知られたくありません。

 私だけが知っている姫君……私だけの……たった一人の姫君……。

 これが恋というものなのでしょうか?」


少将は俯いている落窪の君の美しい黒髪を撫でながら「聞いていらせられますか?」と優しく問いました。

尚も少将は言葉を重ねます。


「今宵の月を、星を姫君と見られることを………。

 私がどんなに嬉しく思うかお分かりでしょうか?」

「…………………。」

「共に眺めませぬか? 月を、星を………。」

「は……い。……でも………。」

「でも……なんでございますか?」

「私で……宜しいのでございましょうか?」

「私は姫君と共に過ごしたいのです。姫君でなければ意味がございませぬ。」

「………………。」

「共に今宵……過ごして頂けませんか?」

「……私で宜しければ………。」

「姫君!」


少将は嬉しさの余り、落窪の君を抱きしめていました。


「このような時をこれからも過ごしたいと思っております。

 姫君は如何に?」

「……私は……許されないことと思っております。」

何故(なにゆえ)に?」

「私は……父にも継母にも大切に想って貰えておりませぬ。

 少将様を手厚く御持て成し出来ませぬ。

 私には何もございません。財産など……何も……。」

「そのようなこと、私は姫君に求めてはおりませぬ。

 私が共に過ごしたいのです。

 何も要りませぬ。姫君さえ居て下されば……。」

「……ま……こと……に?」

「誠に! 神仏に誓えます。」


少将は抱きしめて腕の中に居る落窪の君の心の清らかさが身に沁みました。

そして、この世に二人といないほど素晴らしい女性だと思いました。

少将の腕の中の落窪の君の顔は朝日が当たった桜の花のように薄紅色でした。



⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂―――⁂ 



⦅吾が君様、右近の少将は見目麗しい公達。

 吾が君様は……見た目は違いまする。

 なれども、心持ちは右近の少将………。

 孝子には過ぎた夫………。⦆


そう思いながら筆を進めている孝子は⦅早く、お読み頂きたいわ。⦆と公廉が訪れるのを心待ちにしていました。

方違かたたがえは、陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習の一つです。

外出や造作、宮中の政、戦の開始などの際、その方角の吉凶を占いました。

占いで方角が悪いと出た場合に、目的地の方角が悪い方角にならないように一旦別の方角に出掛けました。

別の方角へ行って一夜を明かし、翌日違う方角から目的地へ向かって禁忌の方角を避けたのです。


「香を薫き染める」は、香木や練り香を火にくすべて良い香りを衣に染みつかせました。

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