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19. 妹の糸

 扉を叩くと、泣き声が、ひゅっと引っ込んだ。


「イーダ。姉ですわ。開けてちょうだいな」


 返事の代わりに、しばらくして、鍵の外れる音がする。


 妹は、寝台の上で膝を抱えていた。デビューしたての十七歳。頬は涙の道で光り、目の縁は杏の色である。床には、招待状が一枚落ちていた。拾い上げると、婚約披露の宴の報せである。お相手の令嬢のお名前の隣に、妹が今年の春からずっと、便箋の端に書いては消していたお名前があった。


「……騎士団の、あの方ね」


「知らないっ」


 知らない、と言える程度には、知っているのである。私は招待状を裏返して床へ戻し、寝台の端に腰をおろす。妹はしばらく枕と格闘してから、涙でふやけた声で、ぽつりと言った。


「お姉様は、いいわ」


「あら。何がですの?」


「忘れられて。……きれいさっぱり、痛くも痒くもなくて。わたしも――わたしも、解きたい。おばあさまのところへ、連れて行って」


 来たか、と思う。


 説教の言葉なら、十ほど浮かぶ。浮かんだ十を、全部飲み込んだ。七年、正しい言葉で曲げられてきた身である。曲げられた側の私が使っていい道具は、説教ではない。


「いいわ。……その前に、一つだけ、見せたいものがあるの」


         ◇


 私の部屋の書き物机で、私は妹の前に、日記の束を置いた。


「読んでごらんなさいな。どこでもいいわ」


 妹は(はな)をすすりながら一冊を開き、拾い読みを始め――途中で、手を止めた。


「……お姉様、ここ。お名前が書いてあるわ。『今日も、ローレンツ様と』……って」


「もう一度、ゆっくり読んでちょうだいな」


「ローレンツ様、よ」


 妹の唇が、四つぶん動く。私の耳に残ったのは、最初のひと粒だけである。


「……ロ、まででしたわ。あとは、砂」


「砂……?」


「聞いたそばから、流れていきますの。読んでも、同じ。わたくしの字が、それは大切そうに書いてあるでしょう。読めるのに、結ばれないの。この日記に七年通っていらっしゃるその方が、どなたなのか、わたくしにはもう一生、分かりませんのよ」


 妹の目が、日記と私の顔を、何度も往復した。


 頬の涙は、いつの間にか乾いている。かわりに、血の気も少し引いている。妹が見ているのは、たぶん、忘れられた後の世界の実物である。軽いですわよ、と私は胸の内で申し上げる。軽くて、明るくて――そして、ただでは、ないの。


「イーダ。それでも解きたいのなら、お連れするわ」


         ◇


 翌日、二人で〈糸の家〉へ参った。


 祖母は妹の顔を一目見て、何も訊かずに奥へ立ち、黒い糸の(かせ)をひとつ、卓の上へ置く。艶のない、夜のような黒である。古い蜜蝋の匂いが、ふわりとする。


「これを、日暮れから夜明けまで、素手で解く。指の腹が擦り切れても、途中でやめれば、それきり。あんたの一生の一度は、解きかけの綛と一緒に失くなるよ」


「……一晩、我慢すればいいのね?」


「おや、威勢がいいね」


 祖母は綛を、ことりと妹の前へ押した。


「なら、その前に訊くがね。――あんたの縁は、どこにあるんだい?」


「……え?」


「この糸はね、相手の側から手放された縁しか、解けないんだよ。生きている縁は、解けない。……あの騎士どのは、あんたに何をくれたね? 約束かい? 指輪かい? 言葉ひとつでもいい。あんたを『手放す』と言えるだけの何かを、あの子は一度でも、あんたに握らせたかい?」


 妹の唇が、震えた。


「……何も。お話したのだって、二回だけ。二回とも、わたしばっかり喋って……」


「なら、解ける縁が、まだないのさ」


 突き放す声では、なかった。糸を撚るときの、あの静かな手つきと同じ声である。


「イーダ。あんたのそれは、縁じゃない。恋だよ。あんたがひとりで始めた、あんたひとりのものだ。……誰の手も借りずに始まったものはね、誰の手も借りずに、仕舞えるんだよ」


「……仕舞い方が、分からないもの」


「泣くのさ」


 祖母は、あっさりと言った。


「泣いて、食べて、眠って、また泣く。若い恋の仕舞い方なんぞ、大昔からそれひとつきりだよ。……あたしのひと巻きもね、使わずじまいさ。七十年生きて、忘れたい人より、覚えていたい人のほうが、多かったのでね」


 妹は、黒い綛を長いこと見つめている。


 それから顔をくしゃりと崩し、祖母の膝に突っ伏して、声を上げて泣いた。解きたい、とはもう言わない。祖母は妹の背中を、上等の糸の束でも扱うように、ゆっくり撫でている。私は三人ぶんの茶を淹れ直しながら、窓の外の、冬の終わりの薄い青空を見ていた。


 泣けるうちは、泣くのがいい。私は、泣く道の代わりに選んだ道を、後悔してはいない。それでも――泣いて仕舞える恋を、少しだけ、眩しいと思ったのである。


         ◇


 週の終わりの幕間、柱の下。


 罰の二つ目を用意して参りましたの、と切り出すつもりが、口をついて出たのは妹のことだった。


「妹が、初めての失恋をいたしましたの」


「……そうか」


 それだけである。愛想のなさに、今夜は拍車がかかっている。慰めのひとつ、気の利いた言葉のひとつもなく、鐘が鳴って、それきりだった。まったく、あの方ときたら。


 ――翌朝、フェルゼン家に使いが来た。


 公爵家の紋の入った、飾り気のない包みである。中身は、今季の悲劇の演目表が三枚と、短い文が一枚。


『妹君に。悲劇の演目表を送る。泣くには、道具が要る』


 朝食の席で読み上げると、妹は腫れた目のまま、ぷっと噴き出した。


「……何よ、それ。変な方」


「ええ。変な方ですのよ」


 妹は演目表を並べて眺め、いちばん悲しそうな演目に、まだ少し震えの残る指の先で、印をつけた。


         ◇


 その晩、父が居間で、一通の書状を広げた。両家の署名の入った、正式なものである。


「……決まったよ。解消の触れは、早春。雪解けの頃だ」


 七年の婚約が、紙の上でも仕舞いになる日取りである。父は私の顔をそっと窺い、私は紅茶をひと口いただいてから、にっこりと申し上げた。


「あら。――良い季節に、なりそうですこと」


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