本編
「母さん、ショートケーキが食べたい」
その子は私の手を握ってそう言った。
――堅倉英、十七歳、高校生。
子どもを産んだことはない。
ショートケーキ税抜四六〇円。
逆さまのメニュー表を見て、チーズケーキに傾いていた心を二百円のソフトクリームに向けた。袖で汗の浮かんだ額を拭う。暑いんだから、ちょうどいい。
「押してもいい?」
向かいでメニュー表を覗き込んでいた少年が、呼び出しのボタンに指を置いて私にうかがう。素っ気なく頷くと、彼は嬉しそうにボタンを押した。隣の席でお冷のおかわりを注いでいたウェイトレスが、さっとこちらに来てにこにこしながら注文を訊いてくる。
「ショートケーキとソフトクリーム一つずつお願いします」
後は何かないかとちらりと少年を見たが、彼はそれに気づかずおしぼりで手を拭いていた。笑顔で注文を繰り返すお姉さんに生返事をしながら、私もおしぼりの袋を破る。
「私、堅倉英。きみの名前は?」
肘をつき、手を組んで顎を乗せる。目の前の彼はもうお冷のコップを両手で持って、落ち着かなさそうに店内に目を走らせていた。
「みちる」
少年はコップの表面についた水滴で、テーブルに『充』の文字を書いた。歪な線が、じわじわと丸い水滴の連続になっていく。窓際席であたたかいからか、見る間にその一文字は消えていった。
「そう、充くん。お母さんは?」
「母さんは母さん」
そうして、丸い爪の先が私をさす。さっきと同じように。
親戚とかに子どもがいないからよくわからないけれど、小学校の中学年か低学年くらい。十七の私の子どもなわけは勿論ない。産んだ覚えもないし相手もいない。
艶々の髪に丸っこい頭の、眼がくりっと大きい男の子だ。ランドセルなんかも背負っていない、完全な手ぶら。一度虐待なんかを疑ったけれど、半袖から伸びる腕は痩せているようでもなく、綺麗に白い。服が汚れていたりもしない。
「そういういたずら流行ってる?」
「母さん、チーズケーキじゃなくてよかったの?」
首を傾げられて、私は「は?」と凄みそうになった。組んでいた指が絡まったみたいにびくつく。
そんなにメニューのチーズケーキを見つめていただろうか。
「好きでしょ?」
「好きだけど、……」
「いっつもチーズケーキだもんね」
訳知り顔で話す子どもに、抱いたのは不快感が一番近いかもしれない。居心地の悪いむず痒さに、食指の爪がかつかつテーブルを叩く。
会ったことないよね? という言葉を飲みこんだ。なんとなく、この子に以前どこかで、あったような気がしたのだ。そんな覚えはないのに。
「お父さんか、きょうだいとか、知り合いは? ひとり?」
「母さんとふたり」
「…………そ」
この質問も一応、もうした。
同じような答えが返ってきたから、交番に連れて行こうかと思ったのだ。途端、「一緒にお祭り行くって言ったのに!」と癇癪を起こされた。最初は、ロボットのように大人しかったのに。往来のひとたちはひそひそちらちらと私を目だけで非難して、だからとりあえず数十メートルの距離にあったカフェに入った。この暑さの中で問答することにも耐えられなかったし、純粋に炎天下にひとりでいるこの子が、可哀想にもなったから。
夏休みなんて言っても補習という名の通常授業があって、実質的な夏休みは明日からだった。なのにどうして最後の授業の帰りに、こんな目に会って計画にない出費を食らってる。本当ならもう家に帰って、洗濯と夕飯の支度をしていたはずなのに。
「きみはどうしたら満足する?」
「夏祭り行く約束は?」
してない。
そう返したらまた叫ぶんだろうか。
「お母さんと、お祭り行く約束してたの?」
「した」
「お祭り行ったらお母さんと会える?」
「母さんはここ」
いらいらして声に棘が生えそうになったところで、「お待たせしましたぁー」と発泡スチロール並みに軽い声が降ってくる。
ケーキとアイスがテーブルへ下ろされる。充は大きめのショートケーキに、ぴっと背筋を伸ばした。
こういうふうに、ただで祭りに連れて行ってもらおうみたいな話なんだろうか。
「食べてもいい?」
「どうぞ」
カトラリーのフォークをわたしてやると、年相応の嬉しそうな顔になる。
頬杖をついて窓から外を眺めると、向かいの雑貨屋さんの扉に、夏祭りのチラシが貼られていた。この時期になると、いろんなところに背景と文字しかないデザインのチラシが貼られる。このあたりの子どもたちは、みんな一度は行ったことのある毎年恒例のお祭りだ。少しだけれど、花火だって上がる。
「私も約束してたけど、キャンセルされたんだよね」
私の話を聞いているのかいないのか、充はフォークを一度皿に置いて、丁寧に手を合わせた。
「いただきます」
行儀よくそう言った充は、そこだけ大人びて見えてすごくちぐはぐしていた。親の躾が行き届いているように見える。服だってきちんとしたものを着ている。彼の親御さんはどうしているのか、彼がどうしてこんなことをするのかがわからない。不気味なくらい。
大きめのケーキを大きめのフォークでなんとか頬張っている様子は、傍目から見たらかわいいのだと思う。でも私は特に子ども好きなわけでもなく、庇護欲も母性も湧かなかった。
デザートスプーンでのんびりソフトクリームを味わう。
「苺最後派か」
充が食べているのをぼうっと見ながら、思わずそんなことを話しかけていた。彼は半分食べ進めてから、ケーキの上の苺を倒さないように、おそるおそるフォークで皿に下ろしている。私の知人も、そんな食べ方をしていた。
充は上目遣いに私をちらっと一瞥すると、ケーキの欠片を乗せたフォークを私に差し向けた。
「あーん」
「いいよ。自分で食べな」
「ん」
咎めるようにさらにフォークを突き出される。そういうのあんま好きじゃないんだよなあ、と思いながら渋々、それを悟られないようフォークをくわえた。
美味しい。それはわかってる。でも初対面の子どもとその美味しさを分け合っているのが夢の中みたいで、味蕾がクリームの油分の味まで拾った。
「美味しいね」
一応そう言ったら、いかにもご満悦という顔をされて少しだけ、気恥ずかしくなった。私のほうが、不機嫌な子どもみたいで。
「はい」
誤魔化し半分で、ナプキンで拭ったスプーンでソフトクリームを差し出すと、ぱかっと小さな口が開く。そこにスプーンを入れる。親鳥って、きっとこんな感じなんだろう。
「美味しい」
にっこり、笑うと子どもって感じがする。小さなえくぼが、急にこの憎たらしい子どもを守らなければいけない、ふわふわしたか弱い生きものに見せた。
「お祭り行きたいの?」
「いっつも家族で行ってる」
「私とでいいの?」
「一緒に行こうよ、母さん」
テーブルの隣を通った家族連れの、幼児を抱いた母親がちらっと私たちを見た。彼女の中で、私たちはどんな関係になったのだろう。彼女はすぐ目を逸らして、案内された席に向かってしまった。
私もその二人から咄嗟に顔を背けると、ポスターを貼っている雑貨店のショーウィンドーに、大きなくまのぬいぐるみが鎮座しているのが視界に入った。
「母親っていうのはさあ」
不可思議な子どもは、一生懸命ケーキを頬張っていた。その、切り崩したケーキをフォークに乗せようとしていた手が止まる。
「子どものために、なんでもできる生きものなのよ。私も知らないけど」
――私、親いないから。
そんな言葉を奥歯で噛み砕く。お冷を一口飲み、コップの縁を下唇に押しつけた。
「でもきっと、子どものためになんでもしてやれるのが『お母さん』なの。誕生日に、ああいうでかいぬいぐるみをプレゼントして、子どもの笑顔でしあわせになれるのが親なの。家族なの。わかる?」
「わかるよ?」
なんでそんなこときくの?
真顔でそう返されそうなほど当たり前に言う充に、私の説得か反論か、自分でもよくわからない何かは肩すかしを食らった。
一人で空回りしているのがむなしくて、勝てる気がしなくてため息を飲みこむ。
首を傾げていた充は、もう食べるのを再開している。大きいフォークはいかにも小さな手とつり合っていなくて、食べるたびに大きく口を開けていた。そのせいなのか、唇の、私から見た右端に薄くクリームがついている。
「ここ、ついてる」
自分の唇の右側を押さえる。むこうからしたら左だけれど、彼はぱっと唇を押さえ、自分の指にクリームがついたのを確認するとナプキンを取って唇を拭った。まただ。妙にお行儀がいい。
「お母さん、やさしい?」
「母さんはいっつもやさしい」
出来心の質問にすぐに答えが返ってきて、すごくいたたまれなくなった。硝子の器を傾けて、とろとろに溶けたソフトクリームをスプーンで掬う。
目を逸らした先にはあのチラシがある。のっそりと座っているぬいぐるみも。前を通りがかった母親と小学生くらいの女の子が、足を止めて何やら問答していた。くまの前にはりついて離れない女の子と、そんな彼女の手を引っ張る若いお母さん。
母親が呆れたように笑っているのが見えた。
「行こうか。お祭り」
「ほんと?」
見開かれた大きな瞳にちかちか星が光っているように見えたけれど、なんのことはない、ランプの灯りが眼に映り込んだだけだ。
どこかで子どものはしゃぎ声が聞こえる。さっきの母子かもしれない。
充はそんなに嬉しいのか唇をむずむずと動かしつつ、残りのケーキに取りかかっている。最後の一かけらを、残していた苺と一緒に口の中に押し込んだ。それを見て、私はこの微妙なデジャヴと、居心地の悪さの正体を悟る。
この子、約束を破った私の恋人に、よく似ている。
お祭りはさほど好きじゃない。
人混みが好きじゃないから、一人だったら絶対に行かない。でもお祭りの空気は好きだ。いつもいる場所とは少しずれた空間にいるような気がして、高校生になっても少しだけわくわくする。
ぎりぎりまで、カフェで充の親らしき人が通らないか外を見ていた。が、こうして祭りに来てしまったことからもわかるように、そんなひとは現れなかった。結局カフェを出て、一駅分くらいの距離を充とふたり歩いた。当たり前のように繋がれた手は薄くて少し冷たくて、そんなところも彼と似ていた。
吊り下げられた行燈と、どこからかはわからないけれど聞こえてくるお囃子。がやがやと賑わう屋台。食べ物なのか植物なのか、ぬるい風に甘い匂いが乗っかっていた。人は浮ついた空気に浮かれて、制服の女子高生と小さな男の子の二人組なんて気にもとめない。
「何がしたい?」
「母さんは?」
「私は別に」
「綿あめは?」
また、当然のように訊かれて閉口する。綿あめは祭りに来ることがあって、屋台があれば必ず買う。けれど祭りについてどころか、ここに来るまで私たちは大した会話もしなかった。
「………、そっちは綿あめ好き?」
「好きだけど、ショートケーキのほうが好き。いっつもいいことがあったとき、父さんが買って帰ってくれる」
「いいお父さんだね」
「母さんもいい母さんだよ」
「……そう。綿あめ、一緒に探して。そっちは右担当、私は左見る」
小さな手を引くと、弱々しい指がしっかり握り返してくる。冷たい指先に、今さら幽霊と手を繋いでいる気分になった。
ざわめきを掻き分けていれば、不意に手が引かれた。見つけたのかと振り向くと、彼は右ではなく左側を見ていた。
「これがやりたい」
指さしたのは射的の屋台だ。まだ二十代だろう男性が、法被を羽織って客に撃ち方を教えている。五百円で五回が高いのか安いのか、普段やらない私にはわからない。景品はキャラメルとか子どものおもちゃもあれば、ゲーム機なんかも置いてあった。
「一回お願いします」
ちょうど財布にあった五百円玉を差し出すと、豪快な笑顔で鉄砲をわたされた。わりと重くて、やや不安になりつつ充に持たせる。
「あの一番上の右のは低周波マッサージ器なんですよ! お母さんのお土産とかにどうですか?」
バイトなのか何なのか、軽い口上に曖昧な笑みを返す。私があまりゲームをしそうには見えなかったんだろう。お兄さんに習って銃口にコルクを詰めている充は、いたく真剣な様子だった。
しばらくして、ぱん、とちょっとどきりとする破裂音が鳴る。充の弾は空振りしたようだった。
二回目は台座に当たる。そこで、かれが小さなくまのマスコットを狙っているのがわかった。
「あー、惜しい!」
拳を握ってお兄さんが盛り立てる。私は無言で、眉間に皺を寄せながら狙いを定める充の横顔を眺めた。三発目もまた空を切る。
「お姉さん代わりに挑戦してみてもいいですよ?」
子どもが不機嫌になったり泣いたりすると思ったのか、あくまでも笑顔で勧められる。充を見下ろすと、四つ目のコルクを白い指で押し込んでいた。
「あのくまが欲しいの?」
ゲームをしだして、はじめて充が顔を上げる。何か言いたげな顔で頷いた。手を差し出すと、充は首を横に振る。けれど急に追いつめられたように、小さく俯く。
「……貸して」
言えば、本当にゆっくりとそれは差し出された。充が避けた位置で構える。私のほうが、景品との距離が近い。私の一発目は横を通った。もうちょっと左。ぶれないように銃身を握りしめる。額に汗が浮かんだ。ひどくどきどきしている。
手が震える前に引き鉄を引く。撃った弾はくまの脚に当たり、布と綿の体は半回転して横に倒れた。
「おお! おめでとうございまーす!」
お兄さんが大袈裟に叫ぶ。後ろに落ちていないのに、あれでいいのかと少しほっとした。充が先にやっていたから、気を遣ってくれたのかもしれない。もしくは安っぽいマスコットだからか。
屋台から離れて、白いビニール袋に入れてもらったくまを充にわたす。充は袋を受け取ってから、中に何か生きものでもいるみたいにじっとその中身を覗いた。
「自分で取りたかった?」
「うん」
「ごめん」
「ううん」
充はくまを取り出し、そして私に差し出した。
「………、何?」
「母さんにあげる」
くまの円らな瞳は、充に似ている気がした。頭にはチェーンがついていて、首には赤いリボン。
「欲しかったんじゃないの」
「母さんにあげたかったんだ。あのお店のくま、見てたでしょ」
私は迷った。一瞬迷ってから、おそるおそるくまを受け取る。触ったら消えたなんてこともなく、思ったより硬い布地のクマは私の両手に収まった。
「………、どうして?」
「おっきいぬいぐるみじゃなくて、ごめんね」
じゃあ、綿あめ探しに行こう。
充がそう笑って歩き出す。小さなスニーカー。軽い足音。頼りない子ども。
――そんなはずない。
「修なの?」
そんなはずはない、と思うのに。気づけば呼んでいた。手の中でくまが潰される。充が振り向いた。
そんなはずは、ない。
だって彼は――私の恋人は一年前、信号無視の車に轢かれて死んだんだから。
艶々の黒髪、丸っこい後頭部。ショートケーキが好きで、苺は最後にとって、ケーキの最後の欠片と一緒に食べていた。私はいつもチーズケーキを頼んだし、文化祭では真っ先に一緒に綿あめを買いに行った。
私の笑顔がいいねと笑っていた。いいねって何と訊けば、ここにちっさなえくぼができるんだと、私の右頬を指さしていた。
はじめてそんなことを、教えてくれたひと。
親がいないひとりぼっちの私の、傍にいたひと。
幼いころ大きなぬいぐるみが羨ましかったと言ったら、いつかプレゼントすると言ってくれた。
去年行けなかった夏祭り、来年は行こうと約束した直後に、死んだ彼。
そんなはずはない。
そんなはずはないのだ。
「……修?」
まだお囃子が聞こえる。あでやかな祭りの空間はどこにもなくて、まるで異界の縁にでも立っている気分だった。さっきまで異様な私たちを隠していたにぎわいは、今は静かな私たちを浮かび上がらせている。
永遠みたいな数秒を、私はつっ立って待った。
充は驚いた顔も怒った顔もしなかった。ただ、明るく笑ってはっきりと、首を横に振った。
「ちがうよ」
ちがう、ともう一度繰り返される。充は早足で私の元へ来て、私の手を掴んだ。今は、彼の手のほうがあたたかい。
「行こう、綿あめ探そうよ」
強く引かれて、なし崩しに足を動かす。充は私の前を行き、人混みを縫って歩いた。
不規則に動いていた人の波が、急に大きな塊になりはじめた。私たちと同じ進行方向で、たぶんこの先の川の近くが、いちばん花火が見やすい所だからだろう。
充は屋台を探しているようには見えなかった。花火を見に行こうとしているのかもしれなかった。
「母さん」
呼ぶ声は明るくて子どもっぽくて、私が知っている充じゃないようだった。
「見て、あそこ、小さい女の子が、綿あめ持ってるよ」
うつむく私の手が、さらに強く引かれる。
「ねえ母さん、ぼく、妹が欲しいんだ。母さんと同じ、さらさらの髪の、目が綺麗な女の子。きっとショートケーキが好きだよ。オレンジジュースも」
「私はきみの母親じゃない」
私が足を止めれば、充も立ち止まった。
「私は子どもなんて産んでない」
手を振り払う。それだけでこんなにも残酷な気分にさせる、小さな手が憎かった。片手に収まるマスコットは、私にあまりに不釣り合いで。
「私親いないの。だから自分が母親になれるとかも思ったことない。もうそうやって呼ばないで。私はきみなんか産んでない」
目頭が熱くなって、きつく子どもを睨みつけた。底の薄いローファーの所為で足が痛くて、汗で髪がこめかみにはりついている。
もうすべて虚しくて、一気に熱くなった頭は冷えるのも一瞬で、みじめさが一気に全身を占める。うつむいた視界の中で、横を向いていたスニーカーが一度後ろへ引いて、また私に向き直った。
「ぼくも、産まれてないもん」
顔を上げると、充は少しだけ目を見開いていた。その瞳がきらきらしているのは涙の膜が張っているからだと気づけば、泣かないようにしているのだと気づけた。
「約束したんだよ、二十年後に」
後ろで手を組み、地面を掠めるように蹴る。彼が小さく首を傾ける仕種すら、涙を零さないための誤魔化しに見えた。
「ぼくと、母さんと、父さんは、夏祭りに行こうって約束したんだ。母さんの好きな綿あめ買って、花火見ながら食べようって」
「………なに」
「そのはずだったんだ」
一年前、父さんが死んでなかったら。
開いた口からは何も出て来てくれなかった。
――もしも。
もしも修が死んでいなかったら、私はどういうふうに、誰と、どうやって生きていただろう。
繰り返し考えてきた。彼が亡くなってからずっと。
そのぐらいに、修に置いていかれた私はひとりだった。
私の傍らをいとけない、甚兵衛を着た子どもが駆け抜ける。女の子が下駄を鳴らしながら小さな歩幅で急いでいた。私たちだけが立ち止まっている。
「父さんは、ずっと、ずっと母さんに家族をあげたかったんだって」
「そんなの」
そんなの知らない。
マスコットを胸に押しつける。誰かに心臓を掴まれているように苦しい。
「そんなわけない、信じない。馬鹿にしないで」
充が私の手を取った。小さな手が二つ、全体を使って私の右手を包み込む。私の手と彼の手をくっつけようとしてるみたいに。
手を引き抜こうとして、しかし充は手に力を入れてそれを拒んだ。
「ごめんね。父さんに会いたかったよね」
何か言おうとして、でも今声を出すと、嗚咽にとってかわられる気がした。
喧騒が大きくなる。
手が一瞬震えたのはきっと勘違いだ。震えたのは充の手。
不意に風を裂く音がした。
「でも、ぼく、母さんに会いたかったんだ」
笑った頬に、小さなえくぼができた。――私から見た、左の頬に。
さっきの鉄砲とは比べ物にならないくらいの轟音が響いて、視界の隅に光が散った。
膝をつくと、皮膚の薄い部分に石が食い込む。骨と砂利がこすれ合う。手を伸ばして、はじめて自分から彼の肩に触れた。足の痛みと同じくらいしっかりとした感触がある。薄く華奢な肩の奥に確かな体温があって、この男の子は今、確かに私の目の前にいる。
――母親って、なんだろう。
子どものためになんでもできて、子どものためになんでもしてやれて、子どもの誕生日に大きなぬいぐるみをプレゼントして、子どもの笑顔でしあわせになれる、生きもの。
子どものためにすべてを捧げられることが母なら、やっぱり私はこの子の、『母さん』ではない。
細い首筋にこめかみを寄せれば、とくとくと命が伝わってくる。私と修から生まれるはずだった命を、私は永遠に抱きしめることもできない。私のこの胎は、一度だって命をはぐくんだことがなかった。母親になりたいとすら、思ったことはなかった。
――なのにどうして私は、そのことがこんなにも悲しい。
「――あなたを産みたかった」
触れた肩が怯えたように竦む。充のやわらかな頬が、私の髪にすり寄せられた。
花火の音だけが、水の中みたいに籠って聞こえ続ける。今この手を離したら取り返しがつかない気がして目を閉じるのに、充の手がそっと私の腕を叩いた。
「母さん、行こう。花火が見たい」
嫌だと言いたかったけれど、彼の望みを聞かないわけにはいかなかった。私の手を取って立ち上がらせる充のはにかんだ顔は、修によく似ている。
くまを胸に抱いたまま手を引かれて、人の多いほうへ導かれる。次第に花火がしっかりとした円形に見えるようになってきた。光の残像がばらばらと降る。
大きな川とそれにまたがる大きな橋。橋を渡った向こうが神社だけれど、皆が橋に留まって空を見上げたり、スマホを掲げている。
皆が花火が上がる方向に押し寄せていて、反対の端はひとがまばらだ。橋の中腹あたりで充は足を止めた。連続して上がる大輪の花が、ときに重なって私たちに降り注ぐ。
「見て、綺麗」
充は上ではなく、下を指さした。
「星が落ちてきたみたいだ」
川の水面に鮮やかな花の端が映っていて、こういうことに気づくところすら、彼と同じだった。
さらに短い間隔で花火が咲いて、終わりが近いとその場の全員が悟る。私は馬鹿だから、そこでようやく惜しくなる。変わる空気に肌が粟立つ。
「帰ろう、充」
引かれていた手を私が引くと、充は少しよろめいた。
「帰ろう。家で、オレンジジュース一緒に飲もうよ」
ショートケーキの他に、何か飲むかと訊いてあげればよかった。口端についたクリームだって私が拭いてあげたらよかった。私はこの子に何もしてあげていない、この子の好きなものを、私はたったの二つしか知らない。
充は一度よろけたきり動こうとしなくて、私は膝が震えそうだった。くまを握りしめる。今の私みたいに、布が、外側がはちきれそう。
「私の息子でしょ。帰ろう、お願いだから」
彼の手が痛まないように包んでいた手の、力加減が効かなくなる。痛いだろうに、謝ることもできない。
なのに充は、心底嬉しそうににっこり笑った。
最後の、一際大きな花火が上がる。
「大好きだよ、母さん」
頬にできる、小さなえくぼ。
「母さんにこれから好きなひとができて、母さんに子どもが生まれて、母さんの子どもがぼくだけじゃなくなっても。ぼくの母さんは、あなただけ」
あなただけなんだよ。
光が散って、私の手から小さな手がすり抜けた。
固まっていた人混みが崩れ、ほぐれてこちらに押し寄せる。充をつかまえようとした手に見知らぬ他人の背中がぶつかる。人波に飲まれて欄干に手をついた。
「充!」
必死に人に弾かれながら彼がいた場所を探すのに、あの丸っこい黒い頭が見当たらない。
「充! 充、どこ! まっ、充、待って!」
人を掻き分けて、掻き分けてその先には、もう誰もいない。
どこかから悲鳴みたいなはしゃぎ声が聞こえた。にぎやかな、小さな子どもの笑い声だ。
目の縁から何かが零れた。
胸にある小さなくまの円らな瞳に、雫がひとつ落ちた。
「今、今俺の手を蹴ったぞ!」
私の腹から手を離した彼は、興奮した様子で目を輝かせた。それが新しいおもちゃを与えられた子どもみたいで、噴き出しそうになるのを耐える。
「……早く会いたいなあ……」
切れ長の目を細めて、膨らんだ腹を本当にやさしい手つきで撫でてくるものだから、私も自分の腹に手を添える。一つの命の中にもう一つの命ができるのだから、本当に生きものって不思議だ。
「来月には会えるよ、たぶん」
「男の子か、女の子か」
「きっと女の子よ」
断言すると彼は首を傾げた。性別は産まれてからのお楽しみと、私たちはしばらくエコー写真なんかも見ていなかったから。
「私に似た女の子よ。きっと髪がさらさらで、目が綺麗な子。ショートケーキとオレンジジュースが好きで――もしかしたら、右頬にえくぼがあるかも」
彼は私の腹に大きな手を当てたまま、不意に、子どもにするみたいに私の頭をもう片方の手で撫でた。
「そうか。きみがそう言うなら、そうかもしれないな」
彼の温かな手に頭を押しつけ、身を寄せる。他人の体温に安心できるなんて、今でも奇跡みたいだと思う。
最近特に手元から離さない、小さな人形の鼻先を自分の腹に触れさせた。円らな瞳で、首に赤いリボンが飾ってある、薄汚れたくま。
「この子が生まれたら、大きなくまのぬいぐるみを買ってあげるの。お祝い事にはショートケーキを買ってあげて、オレンジジュースもつけてね。口の周りにクリームがついたら拭いてあげないと。みんなで、夏祭りにも行きましょう。綿あめ買って、花火を見るの。約束よ。みんなで行こう。家族、みんなで」