番外編 俺ときみは
彼女は、それはそれは美しいひとだった。
はじめて出逢ったのは大学の食堂。俺と同じサークルの友人と、ゼミを同じくしていたのが彼女だった。
友人が声をかけた先を見れば、ちょうど彼女が振り向いたところだった。簡素にまとめられたさらさらの髪が揺れるのが、映画のワンシーンのようだった。
彼女は友人と一言二言話すと、彼の背後にいる俺を見つけた。眦がきゅっと上がったアーモンド形の目は、一瞬でこちらを品定めしていた。薄い唇が微笑みと無表情の中間ぐらいに動いて、軽く会釈される。俺も同じように頭を下げた。やがて呆気なく去っていた彼女の後ろ姿は、混雑する食堂の中ではすぐに紛れて消えた。
大学ではありふれた、どこにでもいそうなひとだ。けれど大学生特有の、社会に出る前の緩みというか、最後の学生という身分への甘えのようなものが欠けていた。だから美しく見えたのかもしれない。
次に会ったのは飲み会だった。俺のゼミと彼女――または友人のゼミが隣同士で、合同の夏の新歓だった。合同と言ってもテーブルは違っていたから、話したのは後半に入り、酔いも回り始めた学生がそれぞれのグラスを持って、席を変わるようになってからだ。
さっき見えたとき新入生らしき子と話していた彼女は、今は隣でほとんど眠っているらしい女子の面倒を見ながらゆっくりと、元から独り飲みをしているようにグラスを呷っていた。
ちょうど自分の話し相手が移動したところだったから席を離れ、彼女の隣まで向かう。座敷席でなかったら、おそらくそうしようとは思わなかっただろう。その程度の興味だった。
「ここ、かまわないか?」
彼女は唇にグラスをつけながら、眼だけで俺を仰いだ。また瞳が品定めする。
「どうぞ」
彼女はグラスをいったん離し、それだけ言うとまた飲みはじめた。
「八重島くんの友達? ですよね」
座ってすぐ、彼女が俺を覚えていたことに驚いた。あのとき、彼女の琴線に俺が引っ掛かることができたとは思わなかったから。
彼女が品定めしているとわかるのは、俺も同じだからだ。彼女は自分が俺に覚えられていることを、すでにわかっているようだった。
「疋田秋緒。あいつと同じ三回生」
「堅倉英。タメなんだね。北林先生のゼミだったんだ」
彼女――堅倉が飲んでいるのはオレンジ系の、おそらくはカクテル。他の女子が飲んでいればアルコールに弱い子の持つ可愛らしいアイテムに見えたろうけれど、彼女が飲んでいるとむしろ爽やかさのほうが際立って、あつらえたみたいによく似合った。
「ちょっとごめん」
独り言みたいに堅倉が呟いて、背後の鞄からスマホを取り出す。俺には聞こえなかったが、バイブレーションでも鳴っていたのかもしれない。そんなことより、彼女のセンスのいい鞄につけられたマスコットのほうが気にかかった。
少し薄汚れた、クマのマスコットだ。タグの部分や首のリボンの端がよれていて、そこそこ年季のいったものに見える。子どもっぽさの象徴のようなそれと、彼女の雰囲気があんまりアンバランスで思わず凝視していた。
「宝物なの」
スマホを鞄に仕舞った彼女は、俺の視線に気づいてつんとクマの鼻先をついた。
たからもの、という語感がやわらかくて、本当にそうなのだとわかる。
「そうか。いいな」
堅倉はきょとんと瞬きをした。嫌味に聞こえたかと、直後にした心配は思い過ごしだったらしい。俺の台詞の背後を、彼女は正確に受け取った。
「カシオレか?」
「ん。そっちは?」
「もう水だ。さっきまではハイボールだったけど、これ以上飲んだら明日がきつい」
「すごいな、私苦くて飲めないわ」
嘘は言っていないのだろうが、たいして感心しているようでもない。互いに探り探りの、吊り橋を渡るような会話だった。
「お酒強いの?」
「……弱くはない、と思っている……そっちは? なんとなく強そうだな」
「あんまり飲まないから、よくわからないんだよね」
苦笑を一つ、また平然と飲む姿はまったくアルコールを摂取しているように見えない。堅倉の、俺とは逆の隣にいる女子がとうとう彼女の肩に頭を預けた。堅倉は一瞥して自分のカーディガンがずり下がらないよう軽く引っ張っただけで、眠ってしまった友人をどうもしなかった。
「一人暮らしか?」
「うん」
「じゃあご実家で親御さんと飲んだりしないのか?」
また瞳だけが俺を見る。周りのためにエネルギーを消費するのを厭うているみたいに、あまり堅倉は体を動かさなかった。
そのまま、一目でわかるよそ行きの笑顔を見せる。
「私親いないの。だから実家で、一人暮らし」
言い慣れているというより、言い飽きているみたいな様子だった。俺は一度グラスを置いた。
「不躾に踏み入ってすまない」
長い睫毛がこちらを向く。赤い口元が緩んだのを見て、ようやく彼女からアルコールの気配を感じた。
「いいひとだね」
彼女のそれも嫌味ではなかった。それを真っ直ぐに俺が受けとめたことを、目の前の本人も理解していた。
長い指がグラスを傾ける。爪はネイルもされていないし特別磨かれている様子もなかったが、清潔に切りそろえられていた。
「きみは美しいひとだな」
首ごと、堅倉が俺を見た。
「なあに、それ」
からりと笑った顔に、大人びた彼女の中にいる少女が見えた。
飲み会から、会えば挨拶をするようになり、そのうち食堂で会えば昼をともにするようになり、講義が同じなら並んで受けるようになった。
堅倉とは決して趣味が同じだとかそういう、親しさを深くする要因はなかった。けれどたとえば自分でしないこと、他人にしてほしくないことのほうがよくかぶった。だから彼女と一緒に過ごす時間はとてもスムーズで、穏やかで自然だった。
あるときカフェのテラスで、本を読みながらケーキを食べている彼女に声をかけた。もう肌寒いのに、彼女は平気な顔で風にあおられる髪を耳にかけて、こちらに軽く手を挙げる。問う前に隣の椅子に置いていた鞄を移動してくれて、礼を言うと同時にその鞄に目が行った。
いつからなのか、あのクマのマスコットがついていない。気づけば俺には何も関係がないはずなのに、何故か焦っていた。
「クマ、どうしたんだ」
「あー……壊れたり落としたらいけないから、今は家に置いてる。もう結構前だよ」
よく気づいたね、なんて言いながら、堅倉はコーヒーか何かを飲んでいる。けれど俺はいまいち納得できなくて、黙ったまま席についた。
俺があのとき踏み込んで訊いたから、そのせいで彼女はあのクマを置いてきたのかもしれない。傲慢にもそんなことを思った。そして後悔や罪悪感に近いものを抱く。彼女の大事なものを、また不用意に詮索してしまった気がした。
「講義?」
「終わったところだ」
「私もだ」
堅倉は簡潔に話す。ある程度親しい人間にはさらに短く。俺はたぶん、男友達にしては近しい距離にいる。
「じゃあ、一緒に駅まで帰らないか」
一つの沈黙を置いてから、堅倉は「うん」と頷いた。断るためのもっともらしい理由がなかった、きっとそれだけのことなんだろう。
「チーズケーキ好きなのか?」
「そうだね」
小さく笑ったから、たぶんケーキのおかげで機嫌がいい。そういう素直なわかりやすさを知ったとき、彼女は思ったほど遠い女性じゃないのかもしれないと感じた。けれど同時にならばどうして、距離は縮まっても隣に行くことができないのかと、考えてしまう。
「そっちは? 何が好き」
おざなりな問いに、少し迷う。
「……チョコレート、か?」
堅倉はまた笑った。今度はどこか、困ったような感じがした。
並んで、耳を澄ましていれば聞こえる程度の声量でぽつぽつと会話を交わす。訊いてみる彼女の好きなものと、俺の好きなものはほとんどかぶらない。それでも俺は堅倉の話を聞いて、堅倉は俺の話に耳を傾けてくれた。駅までの道が、いつもと比べずいぶん短い。
ぼんやりと前を見ていた彼女の視線がふと逸れて、俺の目もその先を探す。何かのキャラクターなのか、ウサギみたいなぬいぐるみを持った小さな女の子が、母親と繋いだ手を大きく振っていた。見ているほうが幸せになるような笑顔をふりまきながら。
堅倉を見下ろすと、彼女はじっと子どもを見つめ、目を細めていた。
「かわいい」
薄紅の唇がふんわりと弧を描き、俺は足を止めた。
「俺とつき合ってほしい」
彼女も立ち止まり俺を見上げる。驚いた様子はなく、確かにゆるやかな笑みをたたえていたはずの唇はもう、静かに結ばれていた。
それから、またほんの少しだけ微笑む。その笑みに敗北を悟った。
「ごめんね」
やさしい一言がひどく彼女の雰囲気に合っていて、そのことに体がばらばらになりそうだった。
冬休みが近くなり、毎年恒例の資料室の大掃除に駆り出された。三回生は俺しか来ていなくて、後輩に指示を送りつつ、移動させたい本をどこに避けておくかという問題にぶち当たる。
廊下だと邪魔になるが、資料室内だと身動きが取れない。そこに通りかかったのが堅倉だった。
「じゃあ、第二資料室のほうに置いときなよ。私さっき鍵借りたから」
手の中の鍵を見せる彼女に、見ていた後輩たちがそれぞれ喜びや謝辞を口に出す。
「いいのか?」
「欲しい本取ったら比較資料室移るから、終わったら声かけて」
相変わらず簡潔に言って、隣の資料室の鍵を開けると本の移動にまで力を貸してくれた。颯爽と去っていく姿に後輩たちが浮ついた声で何事かを話しているが、軽く手を叩いて作業を再開する。
堅倉とはあれ以来、会えば話はするが、積極的に関わってはいない。俺が声をかけなければ、彼女はもう話そうとは思わなかっただろう。そういう気の遣い方も、傍にいたときは心地よかった。
作業が半分ほど過ぎると、先生から労いにと預かっていた費用で飲み物を買いに出た。最初後輩に買いに行かせようと考えたが、結果的に俺と後輩の二人に決まった。バイトで抜けるやつらを紙パックのジュースやコーヒーで送り出し、終わるころには残り数人だった。疲弊しきった顔で帰途につく彼らに手を振って、自分のコーヒーともう一つ、ジュースを持って向かいの資料室の扉をノックする。
扉に背を向けていた堅倉は、椅子に座ったままさらさらの髪を揺らして振り返った。明るくざわついた食堂ではなく、傷んだ紙の匂いが充満する部屋で、髪の流れに初対面を思い出す。
「今日はありがとう、助かった。これ、よかったら」
差し出した紙パックのオレンジジュースに、彼女はあのとき、俺を穏やかに突き放したときと似た顔をした。
「いいの? なんにもしてないのに」
「きみがそう思ってるだけだ」
ジュースを受け取った彼女は、やはり俺が動くより先に椅子の上の荷物を移動させる。だから俺も一言礼を告げて、その椅子の背を引いた。
「オレンジジュース好きって、私言ったっけ」
付属のストローを、短い爪が押し出す。
「カシオレ飲んでたろう」
そう、と細い指が、さらに細いストローを押してビニールの膜を突き破る。俺は自分のコーヒーで口を湿らせた。
きっとチーズケーキと同列にある「好き」の一つを、今知ったことが不思議だった。今までだって機会はあったはずなのに、今でなければ知ることができなかったのが、数奇な運命の一つに思えた。
「温かいやつじゃなくてすまない」
「ううん」
瞼を閉じて首を横に振る。気遣いではないと、同時に伝えるときに言葉を重ねるよりしっかりと動く。やさしいから、こういうときに手間をかける。堅倉はかつて俺を「いいひと」と称したが、俺から言わせればそれはまさしく、彼女に他ならなかった。
「片づけ、お疲れさま」
「ありがとう。追いやって悪かった」
「ぜーんぜん。私のほうこそ」
ストローから離れた唇が、そこで止まる。もう一度彼女がジュースを飲むと、パックの側面がほんの少しだけ凹んだ。
うつむく彼女の横顔を、さらりとした髪が守っている。
「中学生のときにね、恋人が死んだの」
一呼吸分で終わらせた告白を、俺は彼女が望むように、コーヒーを飲んで隣を見ないまま聞いた。
「やさしくて、ずっと傍にいてくれて、ショートケーキが好きだった。彼が生きてたら、私結婚して、子どもも産んでた。きっとね。だから、ああいうとき、考える。このひとと私は、そういう家族をつくれるかって。私は――あなたに、しあわせな家庭を贈れるかって」
やはり彼女はやさしく、美しかった。
温かなコーヒーを選べばよかったと悔やんでも、彼女はきっと大丈夫と笑うだろう。
あのクマは、彼女の、望んだ家族の思い出なのかもしれない。今、ようやくそこまで思い至る。
どうして今なんだろう。
そればかり考えている。
駅まで一緒させてほしい、と二人で大学の正門を出た。最初きっぱり断った彼女が、強く言えば了承してくれることも知っていた。
クリスマスが近い街並みは、白みがかったカラフルなライトで綺麗に飾られている。暗いのに明るいこの道が、どこまでも続いていそうだった。
この時期になると皆が口に出す十二月二十五日の話題を、彼女はその端も匂わせない。
「俺は、すごく、きみのことが好きなんだと思う。好きだ」
口に出せば、ますますそれは事実としてそこに在った。堅倉は少しだけ前を歩きながら、「そう」とだけ呟いた。欠片の興味もなさそうな声で。マフラーでたわんだ髪の隙間から、白い吐息が零れている。
少なくとも卒業して、離れるまではこの美しいひとのことを好きでいるだろう。なんとなくそう悟った。
「明日は雪が降るらしい」
「ああ、じゃあ今日来てよかった」
「運がよかったな」
「悪役みたいだね」
笑みを含んだ息が流れて、確かに俺は今、彼女の人生における悪役かもしれないと妙に納得した。それが少し嬉しいと言ったら、彼女は笑うだろうか。
「疋田くんは、クリスマスどうするのとか訊かないね」
訊いてほしくなかったから、自分で言ったんだろうか。頑として振り向かない彼女は、俺がこのままどこかへ消えても頓着しなさそうだった。
「ふった男に、ずいぶんなこと言うんだな」
「ごめんね」
「嫌いなのか、クリスマス」
「誰かと一緒にいなきゃいけない日は嫌い」
潔癖さに任せて言い放たれたそれが、さっきの俺の告白への答えになった。それでも俺は諦めて、彼女を解放してやることができそうにない。
どこかから流れるクリスマスソングに、彼女の歩調が早まった。同じように大股で追いながら、五年は前に流行った音楽を聞き流す。
この明るい道で、彼女だけがひとりぼっちだ。
急に彼女が走り出し、俺は一瞬狼狽えた。拒絶のショックが今さらあらわになったけれど、彼女の目的は俺と離れることではなかった。
大人びたブーツの踵を鳴らし、堅倉が駆け寄ったのは小さな、まだ小学生にもなっていないくらいの男の子だ。青いダッフルコートを着て、顔をくしゃくしゃにして泣いている。彼女は子どもの傍に座り込み、目線を合わせて何事か語りかけた。子どもは首を振って泣き続けている。
辺りを見回す。結構前に通り過ぎた雑貨店の前に、首を必死にめぐらせて、取り乱した様子で何かを叫んでいる白いコートの女性がいた。手には大きな紙袋。その女性に向かって走る。
呼びかけて子どもの元へ連れて行けば、小さな輪郭もはっきりする前に彼女――母親は走り出した。子どものほうも気づいて、おそらく泣き止んでいただろうにまた泣きながら、短い腕を懸命に母親に伸ばして走る。母親は子どもを抱きしめ、よかったと繰り返し、次に我が子を叱り、そしてまたよかったと泣きそうな声で子どもの背を擦るように撫でた。
こちらには来ない堅倉を見れば、彼女はじっと、抱き合う母子を見つめていた。
やがて母親は立ち上がり、俺と堅倉に何度も頭を下げた。同じように礼をして堅倉の元へ向かうが、俺たちが来た道を逆にたどっていく親子を、彼女はずっと見ていた。
しばらく先で、立ち止まった母親が持っていた紙袋から、クマのぬいぐるみを取り出した。少年は全身を使うように、めいっぱいぬいぐるみを抱きしめる。そしてまた手を繋いで、歩き出す。
見届けた彼女の白い肌は赤く、対照的に息は白い。途方もない遠くを見る瞳だった。
「よかった」
赤い唇が、ぽつんと呟く。綺麗な瞳はまだ、母親と子どもの背からはがれない。
またクリスマスソングが聞こえ出した。
「俺ときみは、いい家族になれると思う!」
彼女が俺を振り向く。髪がさらさらと流れて、これが初対面だったのではとすら思った。
だとしてもきっと、俺はこのひとと結婚するだろう。
見開かれた目がすうっと潤んだ気がしたけれど、彼女はそれから、少女のようにからりと笑った。
「なあに、それ」




