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インビジブル・ラブ  作者: BUTAPENN
chapter 3 老舗旅館の怪異
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12/48

chapter3-5

 さゆりは憔悴しきった様子で、帳場奥の事務室に入って、がっくりと座った。

「ああ、もうダメよ」

「さゆり」

 女将である母親も、涙を浮かべている。

 口コミで広がった妙な噂。陰湿ないやがらせの手紙。ネコの死体、そして、ひさしの崩落。

 これでますます山緑館の評判は地に落ちてしまうだろう。

「八十年積み上げてきた歴史も、失うときは一瞬なのね」

 さゆりは、血が出るほど唇を噛みしめて、涙をこらえていた。

「こんなことになるのなら、もっと早く健太郎の手に渡してしまったほうがよかったのかもしれない」

「若女将、それはいけません!」

 番頭の大河原は、座っていた椅子を蹴って、さゆりのもとに駆け寄った。

「これでは、あの卑怯な佳山の息子の思うツボではありませんか。佳山グランドホテルとの提携だけは、意地でも引き受けてはなりませんぞ」

「でも……それなら、いったいどうすればいいの?」

「わたしに、いい考えがあります」

 大河原は得意満面の笑みを浮かべた。

「会員制リゾート施設の開発会社が、業務提携を持ちかけているのです」

「聞いてないわ、そんな話。いったいいつ?」

「実は、旦那さまが生きておられた頃です」

「お父さんが?」

 さゆりは、思わず母親の顔を見た。

「でもその話は、立ち消えになったはずですよ」

 女将はあわてて首を振った。「おまえが、山緑館を継ぐと決心してくれたから」

「でも、決して悪い話ではございませんぞ」

 畳み掛けるような調子で、番頭は続けた。

「山緑館を、佳山グランドホテルの別館などではなく、このままの形で存続させたくないのですか、若女将!」

「ちょっと待ってください」

 透き通るような声が響いた。彼らが振り返ると、愛海が事務所に入ってくるところだった。

「大河原さん、その観光開発会社からさぞかし、たくさんのリベートをもらっているのでしょうね。それほど熱心に勧めるからには」

「お、お客様、帳場の中にまでお越しになっては困ります」

「でも、その熱心のあまり、自分のしてきた卑怯な行為を、すべて佳山さんのせいにするのはどうかと思いますよ」

「なんですって?」

 さゆりも女将も、従業員たちも驚愕したように、この旅館に何十年も勤めてきた番頭の顔を見つめた。

「な、なにを根拠にそんなことを」

 彼は懸命にせせら笑おうとした。

「いくら、小説作家さまとは言え、想像が少し過ぎておられるのではありませんか」

「私、小説家なんかじゃありません」

 愛海は、バッグの中からさっと警察手帳を取り出した。

「警視庁南原署刑事課捜査第一係の刑事、小潟と申します」

「ええっ」

 さゆり以外の者はみな、仰天している。

 愛海は、手帳を持つ反対側の手で、後ろにいる俺にだけ見えるように小さくガッツポーズをした。

 こいつは、TVドラマで警察手帳を出すシーンにあこがれて、刑事になったと言ってたもんなあ。

「地元の商工会議所で、さゆりさんの亡くなられたお父さんの古い知人という人の話をうかがってきました。お父さんは、経営の悪化している山緑館を、ゆくゆくは、リゾート開発会社に譲渡するおつもりだったようですね」

 愛海は続ける。

「旅館を継ぐのを嫌がるひとり娘を、可哀そうに思われたのでしょう。死の間際に、番頭の大河原さんに、くれぐれも山緑館の後始末と、妻と娘の生活を頼むと言い置いていかれたそうです」

 それを聞いた大河原は、ひくりと頬をこわばらせた。

「ところが、東京から戻ったさゆりさんは、意志をひるがえして旅館を継ぐと言い出された。大河原さんは焦った。すでに開発会社との話はどんどん進んでいて、先方からは、まだかとせっつかれていたからです」

「大河原。あんたは、そんなことを――」

 女将は思わず声を荒げて詰め寄ろうとしたが、さゆりが首を振って母親を制する。

 愛海は、悲しそうに微笑んだ。

「きっと最初は、世話になったご主人一家のことを本当に案じて、行動されたのだと思います。けれど、譲渡の話が進んでいくうちに、大河原さんの心に、野心という名の一点の曇りが生じた。この話が立ち消えになれば、自分には何も残らない。なんとかして、さゆりさんに旅館を継ぐことをあきらめさせなければと……」

「それでは、脅迫状から始まった一連の嫌がらせは、すべて大河原さんのしわざなのですね」

 落ち着いたさゆりの問いかけに、愛海はうなずいた。

「大河原さんにとっては、提携をもちかけてくる佳山健太郎さんも邪魔な存在だった。佳山さんを脅迫の犯人だと疑わせて、さゆりさんと佳山さんを仲たがいさせるように、ことば巧みにあおったのだと思います」

「あの、ネコの死体も、なのですか」

「大河原さんが庭の裏手で、薪を割っていたナタを調べれば、ネコを殺したときの血液反応が出るはずです」

 それは、俺がもう調べておいたことだ。幽霊の五感を使えば、その程度の痕跡はたやすく見つかる。

「昨夜、庭の庭園灯がたったひとつだけ消えていたのを覚えていらっしゃいますか?」

 一同は、恐怖に顔を引きつらせて、うなずく。

「ネコの死体をはりつけた木は、あの庭園灯の明かりにちょうど照らし出される位置にあったのです。大河原さんは、昼間のうちに、庭掃除のふりをして庭園灯に細工した。そして暗がりで誰にも見られぬように、ネコをはりつけたあと、従業員に庭園灯が消えていることを告げ、わざと死体を発見させました。ちょうど夕食が終わる時刻で、庭を歩いている泊り客も多く、大騒ぎになることは、すべて計算ずくでした」

 大河原は、がっくりと床に膝をついた。

「今までは、手紙や呪いのわら人形といった他愛のない脅迫だけだったのに、急に凶悪な手口になってしまったのは、私のせいだったのです。私が、出版関係の人間だと嘘をついたから」

 さゆりはハッと顔を上げた。

「それでは……」

「ええ、マスコミの人間にネコの死体を目撃させれば、噂は決定的になると大河原さんは踏んだのです。 それだけではありません。今日のお昼、佳山さんが渡り廊下のひさしのことを指摘したのを聞いた大河原さんは、さらに畳み掛けるように、湯小屋の庇を壊すことを思い立ちました。さゆりさんが、ますます佳山さんを疑うことを期待していたに違いありません」

「どうして、あなたはそんなことを」

 さゆりは、つらそうに吐息をついたあと、ぽつりと言った。

 番頭の大河原とは幼いときから家族同様に暮らしたと、さゆりは以前言っていた。彼の裏切りは、大きなショックに違いない。

「あなたは、一生を山緑館のために尽くしてきてくれたじゃないの。どうして、わざと評判を落とすようなことを」

「若女将、いえ、さゆりお嬢さん」

 うなだれていた大河原は、詰問するさゆりをにらみ上げた。

「あなたが帰っていらっしゃるから悪いんだ。亡くなった旦那さまもつくづく言っておられた。もう今の時代、こんな古い旅館は生き残れない。もっと大きな資本のもとで、生きる道を探さなければと。わたくしは、旦那さまとの約束を守っただけです。昔のしきたりに固執する女将とさゆりお嬢さんこそが、この旅館をダメにしていると気づいてほしかっただけです」

「動機はなんであれ、あなたのしたことは犯罪ですよ。大河原さん」

 愛海は、眉をキッと逆立てて叫んだ。

「なんの罪もない人に疑いを着せるために、なんの罪もない動物を殺した。一歩間違えば、誰かが大怪我をするような細工をした。あなたのしたことは、恐喝未遂、動物保護条例違反、器物損壊、傷害未遂の重罪です!」

 愛海の恫喝に、番頭は観念したように、再びがっくりと頭を垂れた。


 到着した秋田県警の刑事に容疑者を引き渡すと、愛海は前庭に戻った。三橋さゆりが、茫然とした表情で庭の木々を見つめて立ち尽くしている。いくら従業員たちの前では気丈にふるまっても、ひとりになった今、その衝撃と疲労は隠せなかった。

「三橋さん」

 彼女は愛海に気づくと、深々と頭を下げた。

「刑事さん、いろいろとお世話になりました」

 さゆりは潤んだ目で、空のかなたを見やった。

「まさか、こんなことになるなんて……今でも信じられません」

「お察しします」

「きっと私が悪いのですね。父は私のためを思って、旅館の売却まで考えていたのに。いきなり心変わりをして、旅館を継ぐなどと言い出したために、大河原の憎しみを買ってしまったのですね」

「そんなことはありません!」

 愛海は、大声で否定した。

「お父さまの本心は、やはりあなたに旅館を継いでほしかったのだと思います。ただ、あなたの幸せを考えて言い出せなかった」

「そうでしょうか」

「自信を持ってください。水主淳平が言ったとおり、あなたは女将になるべくして生まれた人なんですから」

「……そうでしたね。そのことを忘れていました」

「忘れたら、淳平が化けて枕元に立ちますよ」

「ええ」

 さゆりは、流れ落ちる涙をぬぐおうともせず、顔をあげた。

「刑事さん。ひとつ不思議なことがあるのです」

「なんでしょうか」

「私が去年、父の死をきっかけに実家に戻って旅館を継ぐ決心をしたとき、サトルはもう殺されていたはずなのです」

「え?」

「それなのに、サトルはどうして、あの手紙の下書きにそのことを書けたのでしょうか」

 しまった。確かに、さゆりの帰郷は、死ぬ前の俺が知るはずのないことだった。詐欺師らしからぬ失言だ。

 愛海は、非難がましい表情で俺を見ながら、

「き、きっと彼は、あなたに女将になってほしいあまり、つい自分の願望を書いてしまったのではないでしょうか」

「……そうかもしれませんね」

 かろうじて納得したのだろう、さゆりはにっこりと微笑んだ。

「お礼を申し上げるのを忘れていました。こんなに早く事件が解決したのは、刑事さんが親身になってくださったおかげです。ありがとうございました」

「そのことですが、三橋さん、実は捜査に協力してくれた人がいるんです」

「え?」

「商工会議所のお父さまのお知り合いという方の話をすぐに聞けたのは、佳山健太郎さんのご紹介があったからです」

「健太郎……が?」

「佳山さんは、『清流』の奥の間で、あなたのことを待っていますよ」


「佳山さん」

 さゆりは、何度もためらったあげく、佳山健太郎の前の席に座った。

「たった今、聞きました。刑事さんに協力して、いろいろ情報を提供してくださったそうですね」

「ああ、あの女性ね。はじめは、刑事とは思わなかったよ」

「リゾート開発会社の買収話……あなたは最初からご存じだったのね」

「あんたはこの土地を離れていたから知らなかっただろうが、地元では、あの会社は有名なんだよ――悪い意味でね。あんな奴らの傘下に入ったら、この山緑館の八十年の伝統は、めちゃめちゃになってしまうところだった」

「あなたは、私たちを救うために、佳山グランドホテルとの提携話を持ち上げたの?」

「いや、違う」

 佳山は、胡坐をほどいて、ぐっと居住まいを正した。

「これは、純粋なビジネスだ。俺は、ずっと夢見ていたんだ。ホテルの利便性と快適さ。老舗旅館の格式と落ち着いたたたずまい。このふたつをあわせ持つことができれば、どれほど素晴らしいだろうと。お互いの施設を宿泊客が自由に行き来し、ふたつの良さを同時に味わえ、若者にも年配のお客様にも快適に過ごしていただける。まるでテーマパークのような複合施設。――隣り合っているうちとそちらが提携すれば、そういうことも可能になる」

 さゆりは小さく笑った。

「……お話にならない。まるで夢物語だわ」

「今は、そうかもしれない。でも、やってみたいんだ。あんたとふたりなら、やれると思う」

 さゆりは目を見開いて、おずおずと佳山を見た。

「本気なの?」

「本気だ。銀行とも交渉は終わっている。きみさえウンと言ってくれれば、すぐにでも融資が受けられるように手配済みだ」

「……山緑館を守るためには、それしか選択肢はないのね」

「俺の借りを作るのが、そんなにイヤか」

「だって、私にそんな資格ないもの……」

 さゆりは、両手に顔をうずめた。

「だって、私は、あなたを……疑って……」

「もうこれからは、疑う余地がないほど信じさせてみせるさ」

「健太郎……」


 愛海と俺は、その日のうちに東京へ戻った。向こうを発ったのが夕方だったから、マンションの部屋に戻ったのは、もう11時過ぎていた。

「ふにゃあッ」

 部屋に入るなり、フー公が愛海に飛びついてきた。

「フニちゃん、遅くなってごめんね。地鶏のササミ缶買って来てあげたからね」

 ネコのやつ、愛海の膝にゴロゴロと喉を鳴らして身体をすりつける。丸二日放っておかれて、心細かったのだろう。まあ、今日だけは甘えさせてやるか。

「ああ、やっぱり家は落ち着くな」

 ふたりがけのソファに仰向けにひっくりかえると、愛海は満足そうなため息をついた。

「がんばって今日中に帰ってきてよかった。これで明日は有休を取らずに出勤できるし、木下さんも機嫌が直るといいな」

 やっぱり、こいつは根っからの刑事なんだ。

 三橋さゆりが、旅館の女将をしている姿が一番似合うように、愛海は刑事でいるときが一番輝く。

 今回の事件で、また俺は愛海に惚れ直してしまったみたいだ。

「さゆりさん、佳山さんと幸せになれるといいね」

 愛海は、ちょっと下唇を突き出して、俺を見ていた。

「……それとも淳平は、あのふたりにヨリを戻してほしくない? 妬けちゃう?」

「なにを言ってる」

 俺は苦笑した。こいつ、まださゆりと俺の昔のことを気に病んでいるのか。俺がこれほど想ってやっているのに。

「ほっとしてるよ。昔騙した女が幸せになれば、俺もそれだけ、つぐないができたってことだろ」

「それもそうだね」

「俺が今、関心があるのは、目の前にいる女をどうやったら幸せにできるかってことだけだ」

 フー公の抗議の声も無視して、俺はネコを霊指の力で蹴飛ばし、ソファの愛海の上に馬乗りになった。

 もちろん、幽霊は質量ゼロだ。

 柔らかな双丘を、ゆっくりと服の上からなで回すと、愛海はたちまち頬を真っ赤に染めた。

「ま、待って。今日はもう遅いし、明日の朝は早いし」

「却下。露天風呂には一回しか行けなかったし、おまけに湯は白く濁ってるし、俺はもう欲求不満で死にそうだ」

「死にそうだって、もう死んでるじゃん」

「これ以上死んだらどうする」

 愛海の唇を割って、中に押し入る。甘い唾液を何度もころがして、いやらしい音を立ててやる。

「じゅ、淳平」

 刺激に耐えられなくなったのか、愛海は懇願するようにささやいた。

「……いっしょにお風呂入ろうか?」

「いいのか」

「事件解決のお祝い代わりに、今日だけ特別だよ。湯当たりしないように、うんとぬるくして」

「いいけど、ひとつ条件がある」

「なに?」

「山緑館の売店で千四百円で買った、白い入浴剤は湯に入れないこと」

「……う、バレてた?」

 愛海は、笑いをひきつらせた。あわてて前言撤回しようとしたけれど、もちろんもう遅い。


 その夜、俺が風呂の中で、どれだけ至福のときを過ごしたかという一部始終は、書くだけヤボだろう。






   chapter 3 end


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