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監督の夫が私の人脈で不倫相手を売り出したので、私は傷だらけの新人俳優をスターに育てました

作者: 熾星
掲載日:2026/06/16

 

 プロローグ

 日本アカデミー賞授賞式の壇上で、監督である夫・黒瀬悠真が、突然スピーチ原稿を破り捨てた。

 紙が裂ける音が、会場中に響いた。

 彼はマイクを受け取り、穏やかで、けれど迷いのない声で言った。

「このスピーチ原稿は、妻が書いたものです」

「ですが彼女は、今の僕の本当の気持ちを何も分かっていません」

「僕がこの最優秀監督賞を受賞できたことに対して、感謝すべき相手は、家で雑事を片づけているだけの彼女ではありません」

「僕が本当に感謝したいのは、今、僕の隣に立っているこの人です」

 そう言って、彼はわずかに身体を横へ向けた。

 その視線の先には、下腹部がわずかにふくらんだ新人女優・白石莉奈がいた。

 二人は見つめ合い、静かに微笑んだ。

「莉奈。ずっと僕のそばにいてくれて、ありがとう」

「君と堂々と一緒にいられないことだけが、僕の人生で一番の後悔です」

「それでも、僕の心の一番深い場所は、ずっと君だけのものです」

 夫の深情な告白は、生中継を通じて、一瞬で日本中に広がった。

 Xのトレンドは完全に爆発した。

 嘲笑、憶測、罵声。

 それらは波のように押し寄せ、私の身体を内側から押し潰した。

 私はその場で倒れた。

 最後まで、目を閉じることができなかった。

 次に目を開けた時。

 私は、黒瀬悠真が白石莉奈を家に連れてきた、あの夜に戻っていた。

 今度こそ、私はあっさりと離婚届に判を押した。

 三億円を受け取り、彼の家を出て、自分の個人事務所を立ち上げた。

 業界中が笑った。

 かつてのトップ女優が、夫にも仕事にも捨てられて、どこまで落ちぶれるのかと。

 けれど私は、撮影所で傷だらけになっていた若いスタント俳優と契約した。

 一年後。

 私が出資した配信ドラマは大ヒットした。

 私がこの手で育てた新人俳優は、授賞式の壇上で、私に向けて公開告白をした。

 そして元夫の会社は破産寸前となり、彼は私の前に膝をついて出資を乞うた。

 私は、新たな主演男優賞俳優となった彼の手を取り、微笑んで尋ねた。

「黒瀬監督。今の私は、まだ笑いものに見えますか?」



 1

 目を開けた瞬間、玄関の鍵が回る音が聞こえた。

 寝室には、ベッドサイドのライトが一つだけ灯っている。

 窓の外では、東京の夜に冷たい雨が降っていた。

 ガラスには、血の気を失った私の顔が映っている。

 枕元のデジタル時計には、こう表示されていた。

 2023年10月15日、午後9時47分。

 その日付が、鈍器のように頭を殴った。

 この日だ。

 黒瀬悠真が、白石莉奈を家に連れてきて、私に切り出した日。

 前の人生で、私のすべてが崩れ落ちた夜だった。

 十年の結婚生活。

 十二年の愛情。

 その果てに私が得たものは、悪意を持って切り取られた録音と、「感情的に不安定な元妻」というレッテルだった。

 そして、ネット中から浴びせられる嘲笑。

 私は勢いよく起き上がった。

 心臓が胸の中で暴れている。

 洗面所へ駆け込み、鏡の中の自分を見つめた。

 篠原澪。

 三十二歳。

 かつて、最年少で最優秀主演女優賞を受賞した女優。

 三年前に表舞台から姿を消し、黒瀬悠真が口にする「誰よりも僕を理解してくれる妻」になった女。

 鏡の中の私は、まだ美しかった。

 けれど、その目は疲れていた。

 長い髪は従順に肩へ落ち、身体には地味な綿のパジャマをまとっている。

 黒瀬悠真が好む姿だった。

 彼は言った。

「澪、君はそうしている時が一番、家庭らしくていい」

 彼は言った。

「女優はカメラの前で輝きすぎる。僕は、君が僕だけのものでいてくれるほうが好きなんだ」

 私は、それを愛だと思っていた。

 今なら分かる。

 あれは、飼い慣らしだった。

 扉の向こうから、足音が近づいてくる。

 若い女の、かすかに怯えたような笑い声もした。

「悠真さん、澪さん、本当に怒らないかな……私、怖いです」

「何を怖がるんだ」

 黒瀬悠真の声には、すべてを掌握している男の余裕があった。

「あいつは何もできないよ」

 私の指が、ゆっくりと握り締められた。

 前の人生では、その一言の直後に、私は扉を開けた。

 泣いて、問い詰めて、崩れた。

 白石莉奈はその隙にこっそり録音し、私が取り乱した声だけを切り貼りして、「正妻が新人女優をいじめた証拠」としてネットに流した。

 翌朝、ネットは私への罵声で埋め尽くされた。

 けれど、今度は違う。

 私は蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗った。

 それから、引き出しの奥にしまっていた予備の録音機を取り出し、スイッチを入れる。

 さらにスマホも録音画面にして、堂々とバッグに入れた。

 すべてを終えたあと、私は体のラインがきれいに出る黒いワンピースに着替えた。

 髪をまとめ、赤い口紅を塗る。

 扉の向こうで、足音が止まった。

「澪、起きているか?」

 黒瀬悠真がノックする。

 その声は、吐き気がするほど優しかった。

 私は扉を開けた。

 目の前に立っていたのは、黒瀬悠真。

 四十五歳。

 手入れの行き届いた肌、仕立てのいいスーツ、金縁の眼鏡。

 外の人間から見れば、知的で温厚な映画監督そのものだ。

 そして彼の隣には、白いワンピースを着た白石莉奈がいた。

 二十三歳。

 デビューしてまだ半年の新人女優。

 清純派の小動物系。

 Instagramの写真はどれも柔らかい光に包まれていて、ファンは彼女を「守ってあげたい初恋顔」と呼んでいた。

 前の人生で、私もその顔に騙された。

「澪」

 黒瀬悠真は、ごく自然な仕草で白石莉奈の肩を抱いた。

「彼女は莉奈。前に話しただろう。うちの事務所の新人だ」

「最近、少し困ったことがあってね。住む場所がないんだ。しばらくうちの客室に泊めようと思う」

 彼は軽く間を置いた。

 そして、何でもないことのように言った。

「いいだろう?」

 私は、彼の手を見た。

 かつて私が最優秀主演女優賞を受賞した夜、震える私の手を強く握ってくれたその手が。

 今は、別の女の肩に親密に置かれている。

 私は笑った。

「どれくらい?」

 黒瀬悠真は明らかに怯んだ。

 私がこんなに冷静に返すとは思っていなかったのだろう。

 白石莉奈は慌てて彼の袖をつかみ、小さな声で言った。

「悠真さん、やっぱり私、ホテルに泊まります……澪さん、歓迎していないみたいだし」

「ホテルなんて必要ない」

 黒瀬悠真は眉をひそめた。

「澪はそんな狭量な女じゃない」

 そして私を見る。

 その目には、警告が含まれていた。

「莉奈の両親は東京にいない。若い女の子が一人で芸能界でやっていくのは大変なんだ。うちは広いし、客室は空いている」

「妹が一人増えたと思えばいい」

 妹。

 私は思わず笑い出しそうになった。

 前の人生で、私はその言葉を信じた。

 三か月間、白石莉奈の世話をした。

 食事を作り、ドレスを選び、長年積み上げてきた人脈まで使って、映画のオーディションを取ってやった。

 その後、ゴシップ誌に彼女と黒瀬悠真が駐車場でキスしている写真を撮られた。

 白石莉奈が妊娠検査薬を持って、私の前に現れた。

 黒瀬悠真が冷たく言った。

「莉奈は妊娠した」

「澪、僕は彼女に責任を取らなければならない」

 その時、ようやく分かった。

 妹。

 それは、不倫相手を家へ入れるための、ただの仮の呼び名だった。

「黒瀬悠真」

 私は静かに口を開いた。

「彼女を家に連れてくる前に、私に相談しようとは思わなかったの?」

 黒瀬悠真の顔色が変わった。

「澪、それはどういう意味だ。僕たちは夫婦だろう。僕のことは、君のことでもある」

「じゃあ、私のことは?」

 私は一歩前へ出た。

「去年、私が復帰したいと言った時、あなたは『監督夫人がまた表に出るのは見栄えが悪い』と言った」

「友人の映画に出資したいと言った時、あなたは『女には製作委員会のことなど分からない。余計な口を出すな』と言った」

「個人事務所を立ち上げたいと言った時、あなたは『うちは君が稼がなくても困らない』と言った」

「それなのに、あなたは若い女優をこの家に住まわせようとして、事前に電話一本入れることすら面倒だったの?」

 白石莉奈の目に、あっという間に涙が浮かんだ。

「澪さん、悠真さんを責めないでください。悪いのは私なんです……」

「ええ。あなたも悪い」

 私は彼女の言葉を遮った。

「二十三歳。手も足もある。所属事務所も、マネージャーも、仕事もある。それなのに、既婚の監督の家に泊まらなければならない」

「白石さん。あなたに必要なのは部屋ですか。それとも、既婚男性の庇護ですか」

「篠原澪!」

 黒瀬悠真が声を荒げた。

「なんて言い方をするんだ。莉奈はまだ若い。少しは大目に見てやれ」

「若い?」

 私は笑った。

「私が二十三歳の時には、すでに最初の映画新人賞を獲っていた」

「彼女は二十三歳で、妻帯者の陰に隠れて泣くだけなのね」

 空気が一気に冷えた。

 私はスマホを取り出し、画面を点けた。

「彼女を泊めたいなら、はっきりさせましょう」

「黒瀬悠真。彼女はどういう立場でここに泊まるの?」

「所属女優?」

「妹?」

「それとも――」

 私は彼の目を見て、一語ずつ告げた。

「あなたの不倫相手?」



 2

 リビングの空気が凍りついた。

 黒瀬悠真の顔は、ひどく険しくなった。

 白石莉奈はぽろぽろと涙をこぼし、まるで私にいじめられている哀れな少女のように震えている。

 前の人生の私は、まさにここで取り乱した。

 けれど今は、ただ気持ち悪かった。

「澪、君には本当に失望した」

 黒瀬悠真は深く息を吸い、またあの痛ましそうな監督の顔を作った。

「君が誤解すると思ったから、今まで言えなかったんだ」

「実は莉奈は、僕の遠縁の従妹なんだ」

 私は彼を見つめたまま、思わず笑いそうになった。

 従妹。

 そんな使い古された言い訳を、本気で口にできるのか。

「そう」

 私は眉を上げた。

「それは奇遇ね」

「ちょうど私、調査会社に知り合いがいるの。明日、親族関係を確認してもらうわ」

「本当なら、白石さんに謝る」

「もし嘘なら――」

 私は微笑んだ。

「黒瀬監督。婚姻中の不倫相手を自宅に連れ込んだなんて世間に知られたら、あなたの『誠実な天才監督』という看板は、まだ立っていられるかしら」

 黒瀬悠真の目が、初めて変わった。

 彼は私をよく知っている。

 結婚して十年。

 私はずっと従順で、聞き分けがよく、彼を中心に生きてきた。

 彼には理解できないのだろう。

 かつて一言で丸め込めた篠原澪が、なぜこんなにも鋭くなったのか。

「澪。ちゃんと話そう」

 彼は言った。

「ええ。話すべきね」

 私はリビングへ向かった。

「座って。今夜、全部はっきりさせましょう」

 三人でソファに座った。

 私はスマホをテーブルの上に置く。

 録音中の画面が、はっきりと見えるように。

「何をしている」

 黒瀬悠真が眉をひそめた。

「記録を残しているの」

 私は笑った。

「後で誰かが都合よく切り貼りしないように」

 白石莉奈の目に、一瞬だけ明確な動揺が走った。

 前の人生で、彼女はこっそり録音し、編集して私を陥れた。

 今回は、その手は使えない。

「黒瀬悠真」

 私は単刀直入に切り出した。

「私たちは十年夫婦だった。私は、あなたに恥じることは何一つしていない」

「あなたがまだ広告映像しか撮れなかった頃、私は自分のギャラをあなたに投資した」

「あなたの初めての長編映画では、私はノーギャラで主演した」

「あなたの事務所の最初の人脈は、私が紹介した」

「あなたの両親が入院した時、病院で付き添ったのも私」

「あなたがインタビューで『自分は才能だけでここまで来た』と言うたびに、私は一度も否定しなかった」

「それで今、あなたは成功したから、私が歳を取って、過去の女になって、あなたにふさわしくなくなったと思っているの?」

「そんなことはない」

「なら教えて」

 私は白石莉奈を指した。

「彼女は、あなたにとって何?」

 黒瀬悠真は口を開いた。

 だが、何も言えなかった。

 白石莉奈が突然立ち上がり、泣きながら叫んだ。

「澪さん、悠真さんを責めないでください!」

「全部、私が悪いんです。私が悠真さんを好きになってしまったんです。自分の気持ちを止められなかったんです……」

「責めるなら、私を責めてください。悠真さんは何も悪くありません!」

 見事な自己犠牲の演技だった。

 前の人生で、私はこの言葉に激怒し、感情のままに罵ってしまった。

 それが彼らに利用された。

 今の私は、ただ静かに彼女を見ている。

「白石さん。あなたは彼の何が好きなの?」

「才能?」

「それとも、お金と資源?」

 彼女は言葉に詰まった。

 私は続ける。

「本気の愛なら、その勇気だけは認める」

「でも、まず理解しなさい。この男には妻がいる」

「あなたたちの関係は、最初から間違っている」

「今のあなたの姿は、深い愛ではなく、ただの身勝手よ」

 私は黒瀬悠真へ視線を戻した。

「選択肢を二つあげる」

「一つ目。今すぐ彼女を帰らせ、今後一切関わらないと約束する。私は今夜のことをなかったことにしてもいい」

 黒瀬悠真の目が揺れた。

 私は笑った。

「二つ目。協議離婚。あなたは婚姻中の不倫を公に認め、私と視聴者に謝罪する」

 黒瀬悠真が勢いよく立ち上がった。

「君は正気か?」

「僕に公に謝罪しろだと? 篠原澪、自分を何様だと思っているんだ」

「僕がいなければ、君なんてとっくに過去の女だった!」

 ついに。

 仮面が剥がれた。

 私はむしろ、ほっとした。

「そう」

 私は用意していた書類を取り出した。

「では、計算しましょう」

「黒瀬映画事務所の初期資金三千万円。追加融資のキーマン。すべて私がつないだ」

「会社が初めて倒産危機を免れたのは、私が自分の出演料を投じたから」

「あなたが住んでいる目黒の一戸建て。頭金は私が払った。ローンも私が返した」

「あなたの車も、私が買ったもの」

「あなたの両親の毎月の介護費も、私の個人口座から出ている」

 一つ告げるたびに、黒瀬悠真の顔から血の気が引いていく。

「続けましょうか?」

 私は彼を見据えた。

「銀行の振込履歴、契約書のスキャン、株式の保有記録。全部、メディアと投資家に見せましょうか」

「いったい誰が、誰に支えられていたのか」

 黒瀬悠真は、ソファに崩れ落ちた。

 額に冷や汗が滲んでいる。

 彼は知らなかったのだ。

 私が、これほど多くの証拠を残していたことを。

 彼は、私が彼を愛しているから、永遠に黙っていると思っていた。

 けれど愛など、私があの授賞式で死んだ瞬間に、灰になった。

「私の要求は三つ」

 私は書類をしまった。

「協議離婚」

「現金三億円。港区のマンション一部屋。軽井沢の別荘一棟」

「私と黒瀬映画事務所とのすべてのマネジメント契約および商業契約の解除。違約金はあなたが負担すること」

「そして、私が当初出資した分に相当する株式を、私に戻すこと」

 黒瀬悠真は歯を食いしばった。

「三億円だと? 強盗か」

「あなたがこの十年、私から奪ったものに比べれば、利息にもならない」

 私は立ち上がり、彼を見下ろした。

「黒瀬悠真。これは交渉ではない」

「明日の午前九時までに、離婚協議書と送金記録を見せて」

「そうでなければ――」

 私はスマホを軽く振った。

「この録音と証拠一式は、すべてのメディア、投資家、テレビ局、製作委員会のメールボックスに届く」

「私が三年表に出ていなくても、記者の友人くらい、まだ何人かいるのよ」

 黒瀬悠真は、信じられないものを見るように私を睨んだ。

「君は、いつからそんな女になった」

 私は玄関へ向かい、扉を開けた。

「十二年分の真心を、犬に食わせたと気づいた時からよ」



 3

 最後に、私は白石莉奈を見た。

 彼女の顔は真っ白で、指はスカートの裾を強く握り締めていた。

「白石さん。最後に一つだけ教えてあげる」

「今日、彼はあなたのために私を裏切った」

「明日には、別の誰かのためにあなたを裏切るわ」

「覚えておくことね」

 扉が背後で閉まった。

 私は廊下の壁にもたれ、足の力が抜けそうになるのを必死にこらえた。

 手のひらは汗で濡れている。

 心臓はひどく速く打っていた。

 それでも、泣かなかった。

 一滴も。

 前の人生で、涙はもう全部流し尽くしたから。

 その後の三日間。

 黒瀬悠真は、あらゆる伝手を使って金をかき集めた。

 私は知っている。

 彼が惜しんでいたのは金ではない。

 名声だ。

 彼の「誠実な天才監督」という看板は、日本映画界で生き残るための根幹だった。

 一度それが崩れれば、資本は一瞬で彼から離れていく。

 三日目の午前九時。

 弁護士が、署名済みの離婚協議書、株式譲渡契約書、資産譲渡関連書類をホテルへ届けに来た。

「黒瀬先生は、篠原様にも約束を守っていただきたいとおっしゃっています」

 弁護士は眼鏡を押し上げた。

「三億円は、ご指定の口座へすでに振り込まれています。港区のマンションと軽井沢の別荘につきましては、二週間以内に名義変更の手続きを完了いたします」

 私は一枚ずつ確認した。

 問題がないことを確かめてから、署名する。

「伝えてください」

 私は書類を閉じた。

「明日の午前十時。区役所で」

 弁護士が去ったあと、私は口座残高に増えた桁を見つめ、ようやく長く息を吐いた。

 三億円。

 それに、もともとの私の貯金。

 もう一度始めるには足りる。

 けれど、まだ十分ではない。

 私はXを開き、長く使っていなかった個人アカウントにログインした。

 最後の投稿は三年前で止まっていた。

 黒瀬悠真の新作映画公開を告知するリポストだった。

 コメント欄には、ファンからの言葉が並んでいる。

【澪さん、いつ復帰するの?】

【また篠原澪の芝居が見たい】

【黒瀬監督とお子さんの準備をしているって聞きました。幸せになってください】

 子どもの準備。

 私は冷たく笑った。

 黒瀬悠真は、ずっと前に避妊手術を受けていた。

 前の人生で、私は死ぬまで知らなかった。

 自分の体に問題があるのだと思い込み、何度も検査を受け、薬を飲み続けた。

 そのたびに彼は私を抱きしめ、言った。

「澪、子どもがいなくても僕たちは幸せだ」

「僕たちはDINKsでいればいい。二人だけで、互いのものになれる」

 最初から、互いのものだと思っていたのは私だけだった。

 私は投稿欄を開き、指を止めた。

 長い時間をかけて、最後にたった一文だけ打ち込む。

【戻ってきました。篠原澪です。】

 送信。

 ほとんど一瞬で、コメント欄が爆発した。

【本人!?】

【澪さん! 本当に澪さん!?】

【お姉様、やっと帰ってきた!】

【三年もどこにいたの?】

 #篠原澪復帰 が、すぐにトレンドへ上がった。

 私はそれ以上見なかった。

 スマホを閉じ、荷物をまとめ始める。

 目黒の家には、もう戻らない。

 あそこは汚れすぎている。

 黒瀬悠真の影が、あまりにも多すぎる。

 私は銀座のホテルのスイートを予約し、しばらくそこに滞在することにした。

 書斎を片づけていると、棚の最下段から鉄の箱が出てきた。

 中には、若い頃の受賞写真、映画祭の招待状、ファンからの手紙が入っている。

 一番下に、黄ばんだ小さなメモがあった。

【篠原澪、あなたは永遠に光の中に立っていて。――十八歳のあなたより】

 視界が、ようやく滲んだ。

 十八歳の私は、東京藝術大学の映像演劇科に首席で入学した。

 二十二歳で、デビュー作により新人賞を受賞した。

 二十五歳で、最年少の最優秀主演女優賞受賞者になった。

 そして、黒瀬悠真に出会った。

 彼は言った。

「澪。女が輝きすぎると、男は息が詰まるんだ」

 彼は言った。

「数年だけ休めばいい。僕が足場を固めたら、必ず君を戻してあげる」

 彼は言った。

「僕たちは夫婦だ。君が僕を支えることは、君自身を支えることでもある」

 私は信じた。

 そして十年かけて、自分を一つの星から、彼の背後に落ちる影へと削っていった。

 私はメモを財布の内側へしまった。

「ごめんね」

 小さく呟いた。

「十八歳の篠原澪。私はあなたを見失ってしまった」

「でも今度は、必ず取り戻す」



 4

 翌朝、私は三十分早く区役所に着いた。

 白いパンツスーツを着て、髪を短く整えた。

 赤い口紅。

 細いヒール。

 通りすがりの人が思わず振り返る。

 小さな声が聞こえた。

「あれ、篠原澪じゃない?」

「本物っぽい」

「映画の中より綺麗……」

 九時五十分。

 黒瀬悠真が現れた。

 顔色はひどく悪く、目の下には濃い隈がある。

 この数日、ほとんど眠れていないのだろう。

 白石莉奈は来なかった。

 おそらく今の黒瀬悠真は、彼女のことを心底恨んでいる。

 離婚手続きは、想像以上に早かった。

 書類に署名し、離婚届を提出する。

 十年の結婚生活は、紙の上の数行になった。

 区役所を出た時、黒瀬悠真が私を呼び止めた。

「澪」

 私は振り返る。

 彼は何か言いたげに口を開き、結局こう言った。

「せいぜい、うまくやれ」

 私は笑った。

「その言葉、そっくりお返しします。黒瀬監督」

 車に乗り込み、振り返らなかった。

 車が区役所を離れると同時に、私はスマホを開いた。

 やはり、#黒瀬悠真篠原澪離婚 がトレンド一位になっている。

 黒瀬事務所が声明を出していた。

【双方で慎重に話し合った結果、黒瀬悠真監督と篠原澪は円満に婚姻関係を解消することとなりました。今後も二人は友人であり、仕事上のパートナーとして互いを応援してまいります。皆様の温かいご理解に感謝いたします】

 コメント欄は、すぐに荒れた。

【十年も一緒にいて円満離婚? 絶対裏がある】

【澪さんが強すぎて黒瀬監督が疲れたのでは】

【黒瀬監督って優しそうなのに】

【黙って。篠原澪が主演女優賞を取った頃、黒瀬はまだ広告映像を撮ってたんだよ】

 まだ更新している最中に、白石莉奈のInstagramも更新された。

 病室で撮った自撮りだった。

 顔色は青白く、手には点滴の針が刺さっている。

 キャプションにはこう書かれていた。

【ご心配をおかけしてすみません。低血糖で倒れただけです。どうか誰のことも誤解しないでください。全部、私自身の問題です】

 お茶の香りが画面から漂ってきそうだった。

 案の定、数分後には芸能ニュースが動き始めた。

【白石莉奈、ストレスで緊急入院か】

【篠原澪離婚の裏側】

【元トップ女優、夫と新人女優の仕事関係に耐えられず?】

 前の人生でもそうだった。

 白石莉奈は被害者ぶり、黒瀬悠真は無実を装った。

 そして私は、すべての人から狂った女として扱われた。

 今回は違う。

 私はXにログインし、白石莉奈の投稿をそのまま引用した。

【@白石莉奈 白石さんが謝るべき相手は、ネットの皆様ではありません。私と、私の結婚に対してです。低血糖ですか? では、あなたの妊娠検査結果を出してもよろしいですか。@黒瀬悠真 あなたの人間は、あなたが責任を持って管理してください。これ以上、私を不快にさせないで】

 送信。

 全ネットが三秒ほど静まり返った。

 その後、完全に爆発した。

【妊娠検査結果???】

【つまり黒瀬悠真、婚姻中に不倫して白石莉奈を妊娠させたってこと?】

【円満離婚とは???】

【白石莉奈って二十三歳だよね? 黒瀬四十五だよ?】

 黒瀬悠真から、すぐに電話がかかってきた。

 私は切った。

 またかかってきた。

 そのまま電源を落とした。

 三十分後。

 黒瀬事務所は緊急声明を出し、不倫を否定し、妊娠を否定した。

 さらに、私の発言について「情緒不安定な状態にある篠原澪氏による事実無根の主張」と書いた。

 私はその文章を眺め、笑った。

 情緒不安定。

 またそれか。

 前の人生で、私はその四文字によって晒し者にされた。

 けれど今の私は、感情だけではない。

 証拠がある。

 その夜、私は駐車場へ行った。

 そこには、黒いベントレーが停まっている。

 黒瀬悠真が一番よく使っていた車だ。

 車は私が買った。

 名義も私だ。

 前の人生で、死ぬ直前になってようやく知ったことがある。

 この車のドライブレコーダーと車載音声システムには、クラウド自動バックアップ機能がついていた。

 黒瀬悠真は、よくこの車の中で白石莉奈と電話していた。

 ホテルへ、撮影所へ、病院へ。

 彼は私が調べないと思っていた。

 私は永遠に知らないと思っていた。

 けれど、重生した初日から、私はこの刃がどこにあるか知っていた。

 私はバックアップ用のハードディスクを回収し、信頼できる技術者にデータ抽出を依頼した。

 翌朝、技術報告書と完全な音声データがメールで届いた。

 音声の中で、白石莉奈の甘ったるい声が響く。

「悠真さん、赤ちゃん、今日ちょっと動いた気がするの」

「男の子かな。女の子かな」

 黒瀬悠真が低く笑う。

「男でも女でも、僕は嬉しいよ」

「莉奈、つらい思いをさせてごめん。澪と離婚したら、ちゃんと君に名分をあげる」

 白石莉奈が甘える。

「早くしてね。私、子どもが生まれた時に、お父さんがいないなんて嫌なの」

 黒瀬悠真は数秒黙った。

「大丈夫だ。澪は僕から離れられない」

「三年も家にいた女に、もう仕事なんてない」

「もし騒いだら、あいつの情緒に問題があると言えばいい」

「世間は僕を信じる」

 その言葉を聞いた瞬間、私は画面を見つめたまま、目の奥が少しずつ冷えていくのを感じた。

 前の人生で、私はこの言葉に殺された。

 この男は、私がこの手で差し出した光の中で成功者になった。

 そしてその光を使って、今度は私を惨めな女に仕立て上げようとした。

 私は音声、ドライブレコーダーのクラウド記録、技術抽出報告書、車両名義、時系列をすべて整理し、証拠パッケージを作った。

 そして弁護士に電話をかけた。

「記者会見を開きます」

 弁護士は少し黙った。

「篠原様。本気ですか」

「本気です」

 私は窓の外を見た。

 ホテルの下には、すでに記者が群がっている。

 カメラとマイクが、私の部屋の窓へ向けられていた。

 前の人生で、私は授賞式で倒れ、日本中から笑われた。

 今生では、私が嵐の中心に立つ。

 一歩退けば、そこは崖だ。

 私は一語ずつ告げた。

「黒瀬悠真が一番恐れている真実を、私の手で世界に見せます」



 5

 記者会見は、都心の五つ星ホテルの宴会場で行われることになった。

 準備期間は短かった。

 けれど、「篠原澪、離婚後初めてメディアの前に立つ」という見出しだけで、東京中の芸能記者を集めるには十分だった。

 新しく雇ったアシスタント、高橋真由は緊張で手のひらに汗をかいていた。

「澪さん、外はメディアだらけです。テレビの中継車まで来ています」

「黒瀬側はまた、澪さんは心理治療中で精神状態が不安定だと流しています」

「言わせておけばいいわ」

 私はバッグの中のUSBメモリを確認した。

 中には、完全な音声データ、技術鑑定書、銀行の振込履歴、株式関連資料が入っている。

「後で治療が必要になるのは、私ではないから」

 宴会場のサイドドアを押し開けると、騒音の波が一気に押し寄せた。

 入口に向けられたカメラ。

 眩しいフラッシュ。

 私は臨時で設置されたステージへ上がり、スタンドマイクの前に立った。

 客席には、黒い人影がぎっしりと並んでいる。

 かつて私と仕事をした記者もいた。

 黒瀬悠真が裏で飼っているメディア関係者もいる。

 私は彼らを見渡し、静かに口を開いた。

「本日は、急なお知らせにもかかわらずお集まりいただき、ありがとうございます」

「今日は三つのことだけを説明します」

「その後、すべての虚偽報道および誹謗中傷について、法的措置を取ります」

 会場は一瞬で静まった。

 シャッター音だけが途切れない。

「一つ目。私と黒瀬悠真監督が離婚した本当の理由について」

 背後のスクリーンが点いた。

 映し出されたのは、写真ではない。

 黒瀬悠真と白石莉奈が、ホテル、病院、撮影所の控室に出入りした日時をまとめた時系列だった。

 その一部は、私名義の車のドライブレコーダーとクラウド記録から取得したものだ。

「いわゆる性格の不一致ではありません」

「また、一部メディアが暗に示しているように、私が嫉妬深く、夫が新人女優と仕事をすることに耐えられなかったからでもありません」

「本当の理由は――」

 私はカメラを見た。

「黒瀬悠真監督が婚姻中に不倫し、新人女優の白石莉奈さんを妊娠させたことです」

 会場が一気にざわめいた。

 私は止まらなかった。

「二つ目。黒瀬事務所が、私を情緒不安定であり、事実無根の情報を流したと主張している件について」

 私はマウスをクリックし、音声を再生した。

 白石莉奈の声が流れた。

「悠真さん、赤ちゃん、今日ちょっと動いた気がするの……」

 続いて、黒瀬悠真の声。

「澪と離婚したら、ちゃんと君に名分をあげる」

「もし騒いだら、あいつの情緒に問題があると言えばいい」

「世間は僕を信じる」

 音声が終わると、宴会場は完全な沈黙に包まれた。

 数秒後、記者たちは狂ったようにシャッターを切り始めた。

 私は続けた。

「この音声は、編集されたものでも、盗撮されたものでもありません」

「私本人の名義である車両の車載システムによるクラウドバックアップから取得したものです」

「黒瀬悠真監督は長期にわたりこの車を使用し、車内で白石莉奈さんと複数回通話していました」

「私は第三者の技術機関に依頼し、データ抽出および完全性の鑑定を済ませています」

 スクリーンには、鑑定報告書の結論ページが映し出された。

「三つ目。黒瀬悠真監督が掲げてきた『裸一貫でのし上がった天才監督』というイメージについて」

 画面が切り替わり、銀行の振込履歴と株式構成図が映る。

「黒瀬事務所の設立初期における主要資金は、私の個人報酬と貯金から出ています」

「彼の初長編映画の出資者、配給関係者、主要スタッフの多くは、私が若い頃から築いてきた人脈によるものです」

「彼が才能だけでここまで来た、という表現は正確ではありません」

「より正確に言えば、彼は私のキャリアを踏み台にして、自分自身の神話を作り上げたのです」

 会場のどこかで、誰かが息を呑んだ。

 私は最後に、一枚の画像を出した。

 会社の登記情報だった。

 会社名は、Lina Films。

 代表者は、白石莉奈の親族。

 しかし、実際の出資者は黒瀬悠真の口座につながっている。

「さらに彼らは、この会社を通じて一部のプロジェクト資源と資産を移そうとしていました」

「すべての証拠は、弁護士および関係機関へ提出します」

 私はパソコンを閉じた。

「私からの説明は以上です」

 そう言って、私は一切の質問に答えなかった。

 嵐のような怒号とフラッシュの中、軽く会釈してステージを降りた。

 記者会見は、核爆弾のようにネットを吹き飛ばした。

 #篠原澪記者会見

 #黒瀬悠真不倫確定

 #白石莉奈妊娠

 #黒瀬悠真人設崩壊

 #篠原澪の反撃

 関連ワードが次々とトレンドを独占した。

 黒瀬悠真は、「誠実な天才監督」から、誰もが唾を吐きかける偽善者へ落ちた。

 白石莉奈の清純派小動物キャラも粉々になった。

 出資者が撤退した。

 契約解除が相次いだ。

 税務と関係機関も動き始めた。

 黒瀬悠真は私に連絡を取ろうとした。

 電話。

 メール。

 知人を通じた伝言。

 私はすべて無視した。

 私の世界は、もう彼とは何の関係もない。

 数日後。

 私は新しく借りたオフィスに立っていた。

 窓の外には、明るい表参道の街並みが広がっている。

 入口には、新しいプレートが掲げられていた。

 篠原澪事務所。

 私の個人事務所が、正式に始まった。



 6

 離婚から二週間後、私は資産整理を始めた。

 港区のマンションは残す。

 軽井沢の別荘は売りに出した。

 現金が必要だった。

 新しい事業の出発点も必要だった。

 高橋真由は、最初の社員だった。

 大学を卒業したばかりで、目が小さな灯りのように輝いている。

「澪さん、本当に私がついていっていいんですか?」

「私、ずっと澪さんのファンなんです」

 私は笑って、彼女の肩を軽く叩いた。

「しっかり働いて」

「そのうち、大きな景色を見せてあげる」

 事務所設立時のメンバーは三人だけだった。

 私。

 真由。

 そして法務担当。

 けれど十分だった。

 私は、これから三年で芸能界に何が起こるか知っている。

 どの作品がヒットするか。

 どの人間が無名からトップへ駆け上がるか。

 前の人生で、私は黒瀬悠真が用意した「良き妻」の役割に閉じ込められ、指の間から機会がこぼれ落ちるのを見ているだけだった。

 今回は、そのすべてを自分の手でつかむ。

 最初の目標は、まだ撮影にも入っていない低予算配信ドラマ『夜行者』だった。

 前の人生で、このドラマは2024年春に配信された。

 有名俳優はいない。

 宣伝費も少ない。

 それでも緻密な脚本、冷たい映像美、強い人物造形によって口コミが広がり、大逆転ヒットを果たした。

 主演俳優と女ヴィランは、一夜で注目を浴びた。

 そして今、その作品はまだ資金集めに苦戦している。

「真由。『夜行者』のプロデューサーに連絡して」

「篠原澪が会いたがっていると伝えて」

「はい、澪さん!」

 午後、私は都内郊外の大型撮影所へ向かった。

 サングラスとマスクをして、白いTシャツにジーンズという簡単な服装。

 まるで普通のスタッフだった。

 撮影所には、走り回る制作進行、エキストラ、照明車が行き交っている。

 私は時代劇の撮影エリアで足を止めた。

 監督が怒鳴っていた。

「スタントは? スタントはどこに行った!」

「監督、予定していたスタントがさっき転倒して、病院に運ばれました」

「このシーンは今日中に撮り切らないといけないんだ! 誰か探してこい。飛べるやつを!」

 それは、二階の屋根から転がり落ちるシーンだった。

 下にはマットが敷かれているが、角度は危険だ。

 エキストラたちは顔を見合わせ、誰も前に出ない。

 その時、一人の痩せた影が、人垣の中から出てきた。

「俺がやります」

 若い男は、洗いざらしの黒いTシャツを着ていた。

 背が高く、肩は広く、腰は細い。

 横顔の線は鋭い。

 その表情は淡く、まるで危険な場所へ押し出されることに慣れてしまった人間のようだった。

 監督が彼を見た。

「できるのか」

「三年、アクションスタントをやっていました」

 男は答えた。

「このシーン、五万円で」

「いいだろう。早く着替えろ」

 男は控室へ向かう。

 私の横を通り過ぎた時、私は彼の顔をはっきり見た。

 美しい顔だった。

 だが、あまりにも青白い。

 目の下には濃い隈があり、長く眠っていないように見える。

 何より印象に残ったのは、その目だった。

 瞳の色が少し薄く、琥珀のようだった。

 私の心臓が、大きく跳ねた。

 この顔を、私は知っている。

 瀬名蓮。

 前の人生で、二十五歳の若さでこの世を去った天才俳優だった。



 7

 私ははっきり覚えている。

 2025年の冬、瀬名蓮の自死のニュースが芸能界に衝撃を与えた。

 その頃の私は、全ネットから嘲笑され、外にも出られないほど追い詰められていた。

 偶然、ニュースで彼の遺作の一場面を見た。

 小さな文芸映画だった。

 彼はその中で、言葉を失った少年を演じていた。

 一言の台詞もない。

 ただ目と身体だけで、絶望を無音の雪のように演じ切っていた。

 映画評論家は言った。

 十年に一人の才能だった、と。

 惜しい、と。

 その時、私はかなり病んでいた。

 画面の中のあの目を見て、なぜか長い時間泣いた。

 あの目は、あまりにも綺麗だった。

 人の心の汚れを、すべて映し出してしまいそうなほどに。

 そして今。

 彼はまだ生きている。

 二十三歳。

 撮影所で危険なスタントをしている。

 命がけの一場面の報酬は、たった五万円。

 私は彼を追った。

 控室では、瀬名蓮が衣装に着替えていた。

 メイク担当が彼の顔に汚れをつけている。

 彼は目を閉じていた。

 長い睫毛が、目元に薄い影を落としている。

「瀬名さん」

 私は声をかけた。

 彼が目を開ける。

「あなたは?」

 私はサングラスを外した。

「篠原澪です」

 彼の瞳がわずかに動いた。

 私を認識したのだろう。

 けれどすぐに、また静かな表情へ戻った。

「篠原先生。何かご用ですか」

「さっきのシーンは危険すぎる」

 私は言った。

「あの角度で落ちたら、マットがあっても怪我をする可能性が高い」

 瀬名蓮は、ほんの少しだけ口角を上げた。

 笑ったようにも見えた。

「お気遣いありがとうございます」

「でも、食べていかなければならないので」

 そう言うと、彼は行こうとした。

「待って」

 私は彼を呼び止め、バッグから名刺を取り出した。

「今、作品を準備しているの。俳優が必要なの」

「興味があるなら、連絡して」

 瀬名蓮は名刺を受け取り、目を落とした。

 篠原澪事務所。

 彼は顔を上げた。

 その目に、初めて感情らしいものが宿った。

「篠原先生」

 彼の声は低かった。

「俺は酒の席には行きません。接待もしません。ホテルで脚本の話もしません。売り渡すような契約も結びません」

「もしそういう意味なら、申し訳ありませんが、向いていません」

 私は一瞬、言葉を失った。

 すぐに理解する。

 復帰した元トップ女優が、無名のスタント俳優に名刺を渡す。

 確かに、誤解されても仕方ない。

「誤解よ」

 私は真っ直ぐに彼を見た。

「私は本当に、あなたに才能があると思った」

「さっき、監督が危険なシーンを押しつけた時、あなたが彼を見る目に芝居があった」

 瀬名蓮はしばらく黙った。

「ありがとうございます」

 名刺は返さなかった。

 ただし、連絡するとも言わない。

 彼はそのまま去っていった。

 私は廊下に立ち、彼の背中が消えるまで見送った。

 彼が簡単に誰かを信じないことは分かっている。

 前の人生で、彼の抑うつと早すぎる死の大きな原因は、業界の不条理、裏切り、長期的な搾取だった。

 それでも、私が彼を引き上げることができれば。

 悲劇の結末は変えられるかもしれない。

 それに、私は彼が必要だった。

 『夜行者』の男主人公は、前の人生では無名の新人俳優が演じた。

 だが、瀬名蓮が演じれば、もっとよくなる。

 彼には壊れかけた美しさがある。

 闇の中でもがきながら、それでもどこか汚れ切らない矛盾がある。

 それは、演技だけでは作れない。

 天賦のものだった。

 三日後。

 受付から内線が入った。

「澪さん、瀬名という方がお見えです」

「予約はありません」

 私はすぐに言った。

「通して」

 事務所のドアが開く。

 瀬名蓮が立っていた。

 清潔な白シャツと黒いパンツ。

 髪は少し短くなり、整った眉骨が見えている。

 顔色はまだ青白い。

 けれど、目は前よりも少し明るかった。

「篠原先生」

 彼は軽く頭を下げた。

「座って」

 私は向かいの椅子を指した。

「何か飲む?」

「いりません」

 彼は座った。

 背筋がまっすぐだった。

「今日は、先日のお話がまだ有効かどうか確認しに来ました」

「有効よ」

 私は脚本を彼の前に置いた。

「『夜行者』。低予算の配信ドラマ」

「あなたには、主人公の青柳夜を演じてもらいたい」

 瀬名蓮は脚本を手に取った。

 読む速度は速い。

 目は集中し、眉が少しだけ寄っている。

 十分後。

 彼は顔を上げた。

「青柳夜は、警視庁の潜入捜査官。地下組織に五年潜伏して、最後に実の兄を逮捕する」

「かなり複雑な役ですね」

「だから、いい俳優が必要なの」

 私は彼を見た。

「あなたなら演じられる」

 瀬名蓮は黙った。

 やがて、こう尋ねた。

「篠原先生。なぜ俺なんですか」

「俺たちは、これまで一度も会ったことがありません」

 私は、その質問を予想していた。

「あなたの経歴を調べた」

「東京藝術大学演劇科卒業。首席」

「担当教員の評価は、十年に一人の俳優」

「卒業した年、大型作品の男三番手に内定していた。でもクランクイン一週間前に降ろされた」

「なぜ?」

 瀬名蓮の目が暗くなった。

「監督に、ホテルで脚本の話をしようと言われました」

「行きませんでした」

「翌日、役は別の人間になりました」

 彼の声は淡々としていた。

 けれど、その下にある屈辱は聞き取れた。

「その後、その監督が言いふらしました。あいつは分かっていない、と」

「それ以来、誰も俺を使おうとしなくなりました」

「配達の仕事もしました。警備員もしました。最後に、撮影所でアクションスタントをするようになった」

 彼は私を見る。

「篠原先生。俺みたいな『分かっていない』俳優を、あなたは使うんですか」

 私はすぐには答えず、代わりに聞いた。

「後悔している?」

「もう一度戻れるなら、そのホテルへ行く?」

 瀬名蓮は、まったく迷わなかった。

「行きません」

「なぜ?」

「父が言っていました。人は貧しくてもいい。でも、骨までなくしてはいけないと」

 私の心臓が、静かに打たれた。

 芸能界で、私は何人もの人間を見てきた。

 のし上がるために何でもする者。

 折れた背骨のまま笑っている者。

 けれど目の前の若者は、泥に踏みつけられても、まだ曲がっていなかった。

「瀬名蓮」

 私は真剣に言った。

「私が欲しいのは、骨のある俳優よ」

 契約書を彼の前へ置く。

「三年契約」

「事務所は、仕事、宣伝、法務、マネジメントを担当」

「取り分は、あなたが七、私が三」

「強制的な接待なし。酒席なし。身体を売るような契約なし」

「理不尽な仕事は断っていい。ただし、引き受けた役には全責任を持つこと」

「同意するなら、今日ここでサインして」

 瀬名蓮は契約書を手に取り、一枚ずつ読んだ。

 最後まで読んだ後、彼は顔を上げた。

 目に、信じられないという光があった。

「篠原先生。この条件は良すぎます」

「良すぎて、現実味がありません」

「あなたが売れると信じているから」

 私は笑った。

「瀬名蓮。私が欲しいのは、言うことを聞く道具ではない」

「一緒に頂点まで行けるパートナーよ」

「賭ける勇気はある?」

 瀬名蓮は、私の目を見つめた。

 しばらくして、彼はペンを取り、最後のページに自分の名前を書いた。

 鋭い筆跡だった。

 紙の裏まで届きそうなほど力がこもっている。

「篠原先生」

 彼は言った。

「あなたを失望させません」



 8

 『夜行者』は、一か月後にクランクインした。

 私は自ら女ヴィラン、神崎遥を演じることにした。

 地下組織の令嬢。

 美しく、残酷で、主人公の青柳夜を愛している。

 最後には、彼の銃弾に倒れる女。

 この役は、前の人生でも非常に評価された。

 今の私なら、もっと深く演じられる自信があった。

 クランクインの日には、多くのメディアが来た。

 ほとんどは、私の離婚後初復帰という話題目当てだった。

 男主人公が完全な新人である瀬名蓮だと知ると、彼らは一様に戸惑った。

「篠原さん、この方は?」

「瀬名蓮です」

 私は自然に紹介した。

「うちの事務所の新人で、この作品の主演俳優です」

「彼はとても優秀です」

「皆さんも、いずれ彼の名前を覚えることになります」

 瀬名蓮は私の隣に立っていた。

 白いシャツ。

 カメラを前に、少しだけ緊張している。

 けれど、目はぶれていなかった。

 記者たちは顔を見合わせた。

 新人が主演を務めることを、まだ信じていないのだろう。

 クランクイン後、最初のシーンは重要場面だった。

 青柳夜が地下組織に五年間潜入し、ついに決定的な証拠をつかむ。

 だが撤収する直前、神崎遥に見つかる。

 屋上での対峙。

 神崎遥は銃を向け、問う。

「この五年の間に、あなたが一瞬でも本当に私を愛したことはあった?」

 青柳夜は沈黙する。

 そして言う。

「ごめん」

「俺は、警察官だ」

 この場面は感情の密度が高い。

 愛から憎しみへ。

 信頼から崩壊へ。

 絶望から諦めへ。

 数分の間にすべてを見せなければならない。

 監督が声を上げた。

「アクション!」

 瀬名蓮は、一瞬で役に入った。

 彼が私を見る。

 その目には葛藤があった。

 罪悪感があった。

 未練があった。

 最後には、それらすべてが、残酷なほどの決意に変わった。

 彼の「俺は、警察官だ」は、とても静かだった。

 しかし刃のように、すべての偽装を切り裂いた。

 私の感情も、彼に引きずり出された。

 私は銃を持ったまま、手を震わせる。

 涙がこぼれる。

 それでも口元は笑っていた。

「カット!」

 監督が興奮して叫んだ。

「一発OK!」

「最高だ!」

「これだよ、これが欲しかったんだ!」

 周囲のスタッフから拍手が起きた。

 瀬名蓮は、まだ完全には役から抜けていなかった。

 目が赤く、私を見る表情が少しぼんやりしている。

 私は彼のそばへ行き、ティッシュを差し出した。

「よかった」

 彼はそれを受け取り、小さく言った。

「篠原先生が、引っ張ってくれたからです」

 その日から、現場の瀬名蓮を見る目は変わった。

 彼の実力を疑っていた人間たちは、全員黙った。

 スタッフは裏で囁いた。

「あの瀬名蓮、演技が本当に怖い」

「篠原澪の目利き、すごすぎる」

「とんでもない宝を掘り当てたな」

 撮影は順調に進んだ。

 けれど私は知っている。

 黒瀬悠真が、そう簡単に私を放っておくはずがない。

 案の定、撮影二週目で、出資者の一社が急に撤退を申し出た。

「篠原さん、本当に申し訳ありません。弊社の資金状況が急に厳しくなりまして……」

 電話口の声は、ひどく気まずそうだった。

 私は静かに言った。

「黒瀬悠真が接触しましたね」

 相手は黙った。

「彼はどんな条件を出しましたか」

「次の作品に倍額出資する?」

「それとも、配信プラットフォームの枠を紹介するとでも?」

「篠原さん、これ以上は……」

「困らせるつもりはありません」

 私は言った。

「撤退するなら構いません。契約どおり違約金をお支払いください」

「それと、黒瀬悠真に伝えて」

「手段が低俗だと」

 電話を切った後、私は制作主任を呼んだ。

「資金の不足分は?」

「およそ八千万円です」

 私は少し考えた。

「私の個人口座から出します」

 制作主任の顔色が変わった。

「澪さん、それはあなた個人のお金です」

「分かっている」

 私は遮った。

「でも、この作品は必ず完成させる」

「しかも、最高の形で」

 意地ではない。

 私は、この作品がヒットすることを知っている。

 前の人生で、出資者はこのドラマで十倍以上の利益を得た。

 この取引で、私は損をしない。

 その後も、黒瀬悠真はさまざまな妨害を仕掛けてきた。

 脇役の引き抜き。

 悪評の流布。

 週刊誌を使った撮影現場の盗撮。

 私と瀬名蓮の親密な噂を作ろうとした。

 だが、私はすべてに備えていた。

 法務は契約を見張った。

 広報は世論を監視した。

 私と瀬名蓮は、ただ撮影に集中した。

 ある日、瀬名蓮がアクションシーンで七回NGを出した。

 監督の顔色はどんどん険しくなっていく。

 休憩中、彼は一人で隅へ行き、うつむいていた。

 指は強く握り締められている。

 私は水を一本持って近づいた。

「プレッシャー?」

 彼は何も言わなかった。

「黒瀬悠真が私たちを狙っていること、知っているでしょう?」

 私は隣に座った。

「彼は私の失敗を見たいの」

「彼から離れた私は何もできないと証明したい」

「私たちは、それを許すべきだと思う?」

 瀬名蓮は顔を上げた。

 目に血の筋があった。

「思いません」

「そう」

 私は彼の肩を軽く叩いた。

「瀬名蓮。今、あなたが受けている悔しさを覚えておきなさい」

「あなたが売れた時、それは全部、勲章になる」

 彼は私を見た。

 そして、ふいに尋ねた。

「篠原先生は、どうしてここまで俺を助けてくれるんですか」

 私は少し考えた。

「私も、かつては人に押し潰されたことがあるから。その苦しさを知っている」

「それに――」

 私は遠くの明かりのついたスタジオを見た。

「いい俳優は、ちゃんと見つけられるべきだから」

「埋もれたままでいていいはずがない」

 瀬名蓮は、長い間沈黙した。

 最後に言った。

「篠原先生」

「あなたを、負けさせません」



 9

 『夜行者』の撮影は三か月続いた。

 その後、編集に二か月。

 翌年の春、大手配信プラットフォームで公開された。

 宣伝枠は多くなかった。

 小規模作品だからだ。

 主演は私を除けば、ほとんど新人。

 それでも、配信初日から口コミが爆発した。

【このドラマ、質感がすごい】

【瀬名蓮って誰? 演技えぐい】

【篠原澪の悪役、最高すぎる。美しくて強くて壊れてる】

【青柳夜と神崎遥、しんどすぎて最高】

 一番拡散されたのは、瀬名蓮のアクションシーンだった。

 青柳夜が倉庫で一人、十数人の敵と戦う。

 動きは無駄がなく、鋭い。

 けれど目には、痛みと葛藤があった。

 人を傷つけたくない。

 それでも任務のためには、戦わなければならない。

 最後のカット。

 血まみれになった彼が暗闇に立ち、魂を抜かれたような目をする。

 そのシーンが短い動画に切り取られ、XとTikTokで一気に広がった。

 #瀬名蓮の壊れたアクション が、トレンド一位になった。

 一夜にして、瀬名蓮のフォロワー数は爆発的に増えた。

 事務所の電話は鳴りっぱなしになった。

 広告。

 雑誌。

 バラエティ。

 新しい脚本。

 すべてが彼に向かって押し寄せた。

 真由は興奮しすぎて、言葉になっていなかった。

「澪さん、爆発しました!」

「本当に爆発しました!」

 私は静かだった。

 爆発することは知っていた。

 それでも、多くの人が瀬名蓮を好きになっていくのを見ると、胸の奥に言葉にできない感情が広がった。

 まるで、自分が植えた木に、ようやく最初の花が咲いたようだった。

 打ち上げの日。

 瀬名蓮は酔っていた。

 彼は普段あまり飲まない。

 だがその日は、あまりにも多くの人に酒を勧められ、断れなかったのだろう。

 最後には、歩く足元も少しふらついていた。

 私は真由を先に帰し、自分で彼をホテルまで送った。

 エレベーターの中で、彼は私の肩にもたれ、目を閉じていた。

 睫毛が少し濡れている。

「篠原先生……」

「なに?」

「ありがとうございます」

 私は笑った。

「あなた自身が頑張ったのよ」

「違います」

 彼は首を振った。

 妙に真剣だった。

「あなたがいなかったら、俺は今も撮影所でスタントをしていました」

「一場面五万円で」

「いつ死ぬか分からないまま」

 彼はエレベーターの鏡に映る二人を見た。

「篠原先生」

「俺は、ちゃんと芝居をして、たくさん稼ぎます」

「それで、あなたに恩返しします」

 私の心が少し柔らかくなった。

「恩返しはいらない」

「自分に恥じない仕事をして」

 エレベーターが着いた。

 私は彼を部屋まで支えた。

 瀬名蓮はベッドに倒れ込み、すぐに眠ってしまった。

 毛布をかけ、部屋を出ようとした時。

 彼が、夢の中のように呟いた。

「篠原先生……」

「俺を、捨てないで……」

 足が止まった。

 振り返ると、瀬名蓮は毛布の中で小さく丸まっていた。

 まるで、安心できる場所を知らない子どものようだった。

 前の人生の彼を思い出す。

 二十五歳。

 十八階から身を投げた。

 遺書には、たった一文。

 疲れました。先に眠ります。

 胸の奥を、何かが強く締めつけた。

 私は小さく言った。

「捨てない」

「今度は、あなたがちゃんと歩いていくところを見届ける」

 彼に聞こえたかどうかは、分からなかった。



 10

 『夜行者』の後、瀬名蓮は本当に売れた。

 さまざまな脚本が、雪のように舞い込んでくる。

 けれど彼は、一つもすぐには受けなかった。

「いい脚本を待ちたいです」

 彼は私に言った。

「自分を消耗したくありません」

 私は賛成した。

 一度ブレイクした俳優が、焦って仕事を詰め込み、すぐに駄作で消費される例をいくつも見てきた。

 瀬名蓮が待てることは、貴重だった。

 機会はすぐに訪れた。

 国際的な評価を受ける北川監督が、新作映画『音のない世界』を準備していた。

 耳の聞こえない少年が孤児院で育ち、最後にはダンサーになる物語。

 主演俳優には手話の習得が必要で、強い身体表現力も求められる。

 多くの一線級俳優がオーディションを受けた。

 私は瀬名蓮のために、一つ枠を取った。

 オーディション当日。

 彼は白いTシャツとジーンズだけで現れた。

 素顔で、大学生のように清潔だった。

 北川監督は彼を一目見ると、挨拶もそこそこに課題を出した。

「五分やる」

「初めて音を聞いた、耳の聞こえない少年を演じて」

 台詞はない。

 相手役もいない。

 身体と目だけで見せる。

 部屋が静まり返った。

 瀬名蓮は目を閉じ、深く息を吸う。

 再び目を開けた瞬間、彼はまったく別人になっていた。

 彼はわずかに首を傾けた。

 ごく小さな音を聞いたように。

 その目には、最初は戸惑いがあった。

 次に、信じられないという驚き。

 彼は手を上げ、耳を覆う。

 そして、ゆっくり離す。

 何度も繰り返す。

 最後には、床に膝をついた。

 肩が震え始める。

 涙が、音もなく頬を伝った。

 演技が終わると、部屋はしばらく静まり返っていた。

 北川監督は立ち上がり、彼の前へ歩いてきた。

 長い間、彼を見つめる。

 そして言った。

「君だ」

 『音のない世界』の撮影は半年続いた。

 瀬名蓮はその間、ほとんど表に出なかった。

 バラエティにも出ず、広告も受けない。

 三か月手話を学び、ろう学校で生活体験をし、七キロ痩せた。

 クランクアップの日。

 私は現場へ行った。

 彼はメイクを落としていた。

 鏡越しに私を見つけた瞬間、目がぱっと明るくなる。

「篠原先生!」

 彼は走ってきた。

 褒めてもらいたい子どものようだった。

「終わった?」

 私は笑って聞いた。

「はい」

 彼は力強く頷いた。

「北川監督が、よかったって言ってくれました」

「それはよかった」

 瀬名蓮は私を見つめ、ふいに言った。

「篠原先生。映画が公開されたら、あなたに言いたいことがあります」

「何?」

「今は言えません」

 彼は珍しく、少しだけいたずらっぽく笑った。

「大事な場面まで取っておきます」

 私はおそらく分かっていた。

 けれど、あえて聞かなかった。

 『音のない世界』は年末に公開された。

 評価は圧倒的だった。

 興行収入も口コミで伸び続けた。

 金影賞の授賞式で、『音のない世界』は八部門にノミネートされた。

 私はプロデューサーとして、客席に座っていた。

 その日、私はシンプルな黒いドレスを着ていた。

 瀬名蓮は隣にいた。

 仕立てのいいスーツを着た彼は、目を奪われるほど美しかった。

 彼は新人俳優賞にノミネートされていた。

 プレゼンターが封筒を開く。

「本年度、金影賞新人俳優賞は――」

「瀬名蓮さんです!」

 会場が大きな拍手に包まれた。

 瀬名蓮は立ち上がり、まず私を抱きしめた。

 それから壇上へ向かう。

 スポットライトが彼を照らした。

 彼はトロフィーを握り、少し手を震わせていた。

「審査員の皆様、北川監督、『音のない世界』のすべてのスタッフの皆様、本当にありがとうございます」

「ですが、僕が一番感謝したいのは、篠原澪先生です」

 カメラが私へ向けられた。

 私は微笑んでいた。

 目の奥が熱かった。

「一年前、僕はまだ撮影所でスタントをしていました」

「一場面五万円」

「明日、自分がどこにいるのかも分からなかった」

「そんな僕を、篠原先生が見つけてくれました」

「彼女は、僕を信じると言ってくれました」

 瀬名蓮の声が少し震える。

「多くの方に、なぜそこまで必死にやるのかと聞かれます」

「僕は、あの時僕を信じてくれた目を、裏切りたくなかったんです」

 彼は深く息を吸い、私を見た。

「篠原先生」

「あなたは、僕の光です」

「あなたがいなければ、今の瀬名蓮はいません」

「この賞を、あなたと分かち合いたいです」

 会場に熱い拍手が響いた。

 口笛も聞こえた。

 私の目に涙が滲んだ。

 分かっていた。

 これは、瀬名蓮が私にできる、最も真剣な告白だった。



 11

 授賞式の後、私と瀬名蓮の噂は一気に広がった。

 私たちは否定しなかった。

 ただ、一緒に出入りする姿が少しずつ増えていっただけだ。

 瀬名蓮は、私のマンションへ引っ越してきた。

 黒瀬悠真が残した家ではない。

 私が代官山に新しく買った最上階のメゾネットだ。

 視界は広く、陽当たりもいい。

「篠原先生、家賃は払います」

 彼は真面目に言った。

 私は笑った。

「かなり高いわよ」

「たくさん稼ぎます」

 彼は後ろから私を抱きしめ、顎を私の肩に乗せた。

「それで全部、あなたに渡します」

 私たちはしばらく、とても穏やかな日々を過ごした。

 彼は芝居をする。

 私は新しい映画の準備をする。

 夜、家に帰って一緒に料理を作り、映画を見て、脚本について話す。

 普通の恋人のようだった。

 けれど、完全に普通ではなかった。

 私たちは、いつでもスポットライトの中にいる。

 その穏やかさは、長くは続かなかった。

 黒瀬悠真が、再び私の前に現れた。

 今度は復縁を求めてではない。

 助けを求めてだった。

 黒瀬事務所は深刻な問題を抱えていた。

 投資失敗。

 資金繰りの悪化。

 株主の撤退。

 企画の停止。

 破産清算寸前。

 彼は、私に出資してほしいと言った。

 せめて、誰かを紹介してほしいと。

 私はオフィスで彼に会った。

 一年ぶりに見る彼は、ずいぶん老けていた。

 こめかみには白髪が混じり、目の下には深い影がある。

 かつての自信に満ちた姿は、もうどこにもなかった。

「澪……」

 彼は口を開いた。

「黒瀬監督」

 私は静かに遮る。

「篠原と呼んでください」

 彼は苦笑した。

「篠原。僕が君に悪いことをしたのは分かっている」

「でも、本当にもう後がないんだ」

「十年夫婦だったよしみで、助けてくれ」

「十年夫婦?」

 私は笑った。

「あなたが白石莉奈を家に連れてきた時、その十年を思い出した?」

「彼女を妊娠させた時、その十年を思い出した?」

「私を情緒不安定な女に仕立てようとした時、その十年を思い出した?」

 黒瀬悠真は何も言えなかった。

「私は聖人ではありません」

 私は立ち上がり、窓辺へ歩いた。

「あなたが落ちぶれたからといって、足を引っかけて踏みつけるつもりはない」

「でも、手を差し伸べるつもりもありません」

「私たちは、もう清算済みです」

「篠原澪!」

 彼は感情的に立ち上がった。

「君は、そこまで冷たい女だったのか」

「冷たい?」

 私は振り返る。

「あなたが私にしたことに比べれば、私は十分優しいと思うけれど」

 内線のボタンを押す。

「真由。黒瀬さんをお見送りして」

 その夜、私は瀬名蓮にその話をした。

 彼は台所で麺を茹でていた。

 聞き終えると、眉をひそめる。

「彼は、またあなたに会いに来ますか」

「来るかもしれない」

 私は肩をすくめた。

「でも、どうでもいい」

「もう彼には、私を動かす力はない」

 瀬名蓮は箸を置き、こちらへ来て私を抱きしめた。

「篠原先生」

 彼の声は、少しこもっていた。

「俺があなたを守ります」

 私は笑った。

「あなたは私より七歳も年下でしょう。私が守る側じゃないの?」

「年齢は関係ありません」

 瀬名蓮は真剣に私を見た。

「大事なのは、俺があなたの支えになりたいということです」

 胸の奥が、ふいに温かくなった。

 そうだ。

 年齢は関係ない。

 名声も関係ない。

 過去も関係ない。

 大切なのは、この人が本当に私を大事にしているということだ。

 数日後、ニュースが流れた。

 黒瀬事務所、正式に破産清算。

 黒瀬悠真はすべての不動産を売却して借金返済に充て、両親を連れて東京を離れた。

 白石莉奈は、とっくに金を持って海外へ逃げていた。

 年の離れた富豪と結婚したらしい。

 前の人生で私を死に追いやった二人は、今生でようやく自分たちにふさわしい結末を迎えた。

 私はニュースページを閉じた。

 もう気にしない。



 12

 三年後。

 ロサンゼルス。

 私はアカデミー賞授賞式のレッドカーペットに立っていた。

 燃えるような赤いドレスをまとい、隣には瀬名蓮がいる。

 黒いスーツ。

 まっすぐな姿勢。

 彼は私の手を握り、フラッシュの中を歩いた。

 『音のない世界2』は、アカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされていた。

 私たちは、作品を代表してここにいる。

 この三年で、篠原澪事務所は日本で最も注目される映像制作会社の一つになった。

 私は複数のヒット作を制作した。

 瀬名蓮も、日本で最も若い主演男優賞俳優の一人となり、その演技は国際的に評価された。

 そして何より。

 私たちは、ずっと一緒にいた。

 式典が始まる。

 次々と賞が発表されていく。

 やがて、司会者が読み上げた。

「Best International Feature Film――」

「Soundless World 2, Japan」

 会場が立ち上がり、拍手に包まれた。

 私と瀬名蓮は壇上へ向かった。

 彼はスピーチの位置を私に譲り、自分は隣に立つ。

 その目は、とても優しかった。

 私はトロフィーを握り、英語で言った。

「Thank you.」

「この映画は、愛と救いの物語です」

「そして私にとっても、これは救いの物語でした」

 私は瀬名蓮を見る。

「三年前、私は一つの失敗した結婚を経験し、自分の人生が終わったと思ったことがあります」

「その後、一人の若い俳優に出会いました」

「彼は、夢はまっすぐ信じてもいいものだと、愛は純粋なまま存在できるものだと、もう一度私に教えてくれました」

 会場は静かに聞いていた。

「この賞を、裏切られ、誤解され、沈黙を強いられたすべての人に捧げます」

「あなたが今どこにいても、どうか自分を諦めないでください」

「いつか必ず、光は差し込みます」

 拍手が鳴り響いた。

 式典の後、私たちは祝賀会へ向かった。

 ホテルへ戻る道中、瀬名蓮はずっと静かだった。

「どうしたの?」

 私が尋ねる。

 彼はホテルスイートのテラスで足を止めた。

 夜風が吹いている。

 遠くには、ロサンゼルスの光が広がっていた。

 瀬名蓮は片膝をついた。

 ポケットから小さな箱を取り出す。

 開く。

 中には、指輪があった。

 デザインはシンプルだが、とても美しい。

「篠原先生」

 彼は私を見上げた。

 その目は、星のように明るかった。

「三年前、俺は言いました」

「いつか、あなたの隣に立てる男になったら、プロポーズすると」

「今の俺なら――」

 声が少し震える。

「あなたの隣に立つ資格がありますか」

 私の目に、一瞬で涙があふれた。

 周囲で誰かが息を呑む。

 スマホを取り出す人もいた。

 けれど、私は何も気にならなかった。

 私は手を差し出した。

「瀬名蓮」

「あなたは、最初からその資格があった」

 指輪が薬指にはめられる。

 サイズはぴったりだった。

 瀬名蓮は立ち上がり、私を強く抱きしめた。

 耳元で低く囁く。

「篠原先生。一生、あなたを愛します」

 私は泣きながら笑った。

「知っているわ」

「私もよ」

 その後、私たちは静かな結婚式を挙げた。

 招待したのは、親しい友人と家族だけ。

 さらにその後、娘が生まれた。

 名前は、瀬名朝光。

 朝光。

 朝、一番最初に差し込む光。

 今でも時々、前の人生を思い出すことがある。

 授賞式で倒れた自分。

 黒瀬悠真がスピーチ原稿を破いた音。

 白石莉奈が妊娠した腹を撫でながら、スポットライトの中で笑っていた顔。

 けれど、その記憶は少しずつ薄れていく。

 遠い悪夢のように。

 今の私には、仕事がある。

 愛がある。

 家族がある。

 そして、もう一度光の中に立つ自分がいる。

 ようやく分かった。

 重生とは、残りの人生を復讐に費やすためのものではない。

 重生とは、もう一度選び直すためのものだ。

 もう一度始めるため。

 もう一度、本来輝くべきだった自分になるため。

 そして今度こそ。

 私は、その光を手放さなかった。





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