⑩ 真の違和感
朝になってからも、神谷の意識は昨夜の私室に残っていた。
王が消えていたこと以上に、気になるものがある。
部屋そのものだ。
人がいなかった。
それは事実だ。
だが、もっと異様なのは――
人が“いた形跡”まで薄かったことだ。
神谷は記録庫の片隅で、昨夜見た光景を一つずつ思い返す。
寝台。
広く、上等な布で整えられていた。
掛布の端まで揃い、皺がない。
寝返りの崩れも、腰掛けた沈みも、体温の名残すらなかった。
毎朝整えられているのだとしても、不自然なほど整いすぎている。
水差し。
満たされたままだった。
夜の間に喉が渇けば、人は水を飲む。
まして王は昼に多く話す立場だ。
だが減っていない。
机。
書類は重ねられ、羽根ペンは乾いていた。
夜更けに一筆書いた痕跡も、読み返した乱れもない。
王という立場なら、秘密裏の文書整理や私的な判断があってもいい。
だが、それがない。
私物。
装飾品の位置。
小箱の向き。
本の角度。
使われた部屋なら、わずかにズレる。
無意識に置き直し、手に取り、戻し、また違う位置へ置く。
人間は空間を少しずつ乱す。
だがあの部屋は、乱れていなかった。
整っているのではない。
停止している。
神谷は机に肘をつき、額へ手を当てた。
王が毎晩別行動をしている。
その仮説自体はまだいい。
だが、もし寝るだけ別室なら。
もし秘密の時間を過ごすだけなら。
私室には生活の残り香があるはずだ。
着替え。
疲れた体を投げ出した跡。
眠れぬ夜の読書。
誰にも見せないため息。
そういう、人間の無防備さが。
あの部屋には、それがない。
神谷の喉奥で言葉が形になる。
「住んでいない」
私室ではない。
王が暮らす場所ではなく。
王がいることになっている場所。
昼の謁見室が“見せる部屋”なら。
夜の私室もまた、“見せるための部屋”なのではないか。
王はそこへ戻るとされる。
王はそこで眠るとされる。
王はそこから朝現れるとされる。
だが、実際には使っていない。
舞台装置。
神谷は背筋に冷えたものを感じた。
玉座も私室も同じだ。
どちらも王を成立させるための背景に過ぎない。
なら肝心の王は、どこで生きている?
あるいは――
本当に、生きているのか。




