⑫ ラスト異変
笑みを失った王を見て、誰もすぐには動けなかった。
そこに立っているのは、確かに王の衣をまとった存在だった。
王冠を戴き、豪奢な外套を羽織り、玉座の段前に立っている。
だが、もう“王”と断言できる何かが薄れていた。
最初に声を漏らしたのは、後列の若い貴族だった。
「……今、どんな顔だった?」
誰へ向けた問いでもない。
自分の目を疑う者の、無意識の独り言だった。
隣の男が即座に答える。
「どんな顔って……若く見えただろう」
「いや、違う。皺が……老人のような」
「何を言っている、壮年だった」
「声も違ったぞ」
「低かった」
「いや、もっと高い」
「掠れていた」
「先ほどまでと別人だ」
ざわめきが連鎖する。
一人ひとりが見た王が、噛み合わない。
騎士団長は剣の柄へ手を置いたまま固まっていた。
彼の目には、威圧的な王が映っている。
戦場で兵を鼓舞する将の顔だ。
神官長は蒼白になって後ずさる。
彼には裁きの神像のような、冷たい顔が見えていた。
老宰相は杖を震わせている。
その瞳に映るのは、先王にどこか似た面影。
長年仕えた記憶が勝手に重なっている。
侍従長は目を細めた。
何も見えない。
そこにいるのに、特徴だけが抜け落ちている。
記録官は紙を見て、王を見て、また紙を見る。
「……顔貌、記録不能」
震える声でそう呟いた。
神谷は確信していた。
壊れ始めたのだ。
今までこの場の全員は、無意識に同じものを見ていた。
王とは威厳ある存在。
王とは秩序の中心。
王とは正しく、落ち着き、導く者。
その共通認識が、あれへ輪郭を与えていた。
だが今、統一が崩れた。
誰も同じ王を見ていない。
若者を見る者。
老人を見る者。
慈父を見る者。
怪物を見る者。
空白しか見えない者。
観測が割れた。
すると王の輪郭も揺らぎ始める。
肩幅が広く見えたかと思えば細くなる。
背丈が高くなり、次の瞬間には縮む。
王冠の位置さえ、微妙にずれて見える。
衣の色味まで見る者ごとに違っていた。
人の目が定義できない存在は、形を保てない。
近衛兵の一人が悲鳴を上げた。
「近づいてくる!」
別の兵が叫ぶ。
「いや、動いていない!」
実際には、王はその場から一歩も動いていない。
だが認識が一致しない以上、距離感すら共有できない。
玉座の間は恐慌寸前だった。
神谷だけが静かに立っている。
ついに届いた。
剣ではなく、構造へ。
王を支えていたもの。
万人の視線が一つに揃うという土台。
その基盤を砕いたのだ。
神谷は低く呟く。
「これがお前の素顔か」
返事はない。
ただ、王だったものの輪郭だけが、燭光の中で不安定に揺れていた。




